第45話 晴れた日に
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
レイの予報通り、翌日は晴れた。
春の前の晴れは、冬の晴れとは光の質が違う。冬の光は鋭く、白い。今日の光は柔らかく、少し黄みがかっていた。路面の土が光を吸って、暖かそうな色になっていた。
ノエルが外套を脱いで、腕に掛けて歩いていた。昨日の曇りの顔ではなかった。前を向いていた。
昨日の悔しさを、引きずっていなかった。
引きずらない、と決めたのかもしれない。引きずっていない、が正確かもしれない。どちらかは、アルドにはわからなかった。
* * *
午前中、依頼はなかった。
街道を歩くだけの時間だった。こういう日がある。依頼のない日、何も起きない日。旅に出た頃は、こういう日に手持ち無沙汰を感じることがあったが、今はそうでもなかった。
歩くことが、旅だ。
ノエルが歩きながら何かを口の中で繰り返していた。声には出ていなかった。唇だけが動いていた。
アルドはしばらく見てから、ノートを開いた。
『詠唱の練習ですか?』
ノエルが振り返った。少し驚いた顔をした。
「……見てましたか」
『口が動いていました』
「昨日の第Ⅴ節を、繰り返していました。口の中で。噛んだ場所を」
『噛んだ場所を、繰り返すんですか』
「覚えるために。どこで詰まったか、感覚を残しておくと、次に噛みにくくなる気がして」
アルドはその答えを、少し考えた。
習ったわけではないはずだった。自分で見つけたやり方だった。
『それは良いやり方だと思います。私もそういうことをしていました、学生の頃は』
「師匠もそういう練習をしてたんですか」
『声が出ていた頃の話ですが』
ノエルが少し黙った。それから、また前を向いた。
「……師匠って、どんな声でしたっけ」
アルドはペンを持ったまま、少し答えに困った。
どんな声、と聞かれたのは、初めてだった。
『学院にいた頃、少しは聞いていたでしょうに――低くはなかったです。でも、高くもなかった。普通の声だったと思います。自分の声は、自分ではよくわからないので』
「詠唱の時は?」
『詠唱の時は——使い方が変わります。詠唱士はみんなそうだと思いますが、普段の声と詠唱の声は別物に近い。私の詠唱の声は、もう少し通っていたかもしれません』
「聴いてみたかったです」
ノエルが言った。
アルドは返事を書けなかった。
書けなかったのではなく——書く必要がない、と思った。ノエルが聴いてみたかった、と言った。それだけで十分だった。
* * *
昼過ぎに、街道脇に小さな泉を見つけた。
依頼ではなかった。ただ、泉があった。
ノエルが立ち止まって、泉を覗き込んだ。
「きれいですね」
透明な水だった。底の砂が見えた。水が湧いているのか、表面が小さく揺れていた。
レイが泉の縁に止まった。
「精霊がいる。小さいが、穏やかだ」
「話しかけてもいいですか」とノエルが聞いた。
「依頼ではないが——挨拶くらいなら」
ノエルは少し考えて、ノートを閉じた。
「詠唱じゃなくて、ただ話しかけてみます」
しゃがんで、泉の水面に向かって、小さな声で言った。
「こんにちは。きれいな泉ですね」
何も起きなかった。
でも、レイが少し首を傾けた。
「……聞こえているようだ」
「答えてくれましたか」
「答えたわけではない。ただ、聞こえている」
ノエルが泉を見た。
「それだけで、十分な気がします」
アルドは、その言葉を聞いた。
それだけで十分、という言葉を、ノエルはよく使うようになった。旅に出た頃は、もっと全部を埋めようとしていた——完璧な詠唱を、完璧な節を、完璧な答えを。今は、十分、という場所がある。
* * *
午後、村の手前で立て札を見た。
「読んでいいですか」
ノエルが読んだ。
「えっと——『宿屋の裏の倉庫に、光の精霊が住み着いた。悪さはしないが、夜に光って眠れない』」
レイが言った。
「光の精霊は珍しい。何かに惹かれて住み着いたのだろう。追い出すより、なぜ来たかを聞いた方がいい」
『どうです? やってみますか』
「やります」
* * *
村はナヴといった。
宿屋の主人は三十代の男性で、名前をエルスといった。眠れていないのか、目の下が少し暗かった。
「光の精霊って、追い出せるんですか」
「追い出すより、なぜ来たかを聞いた方がいいと、連れの者が言っています」
ノエルがレイを示した。エルスがレイを見て、また前を向いた。
「……鳥が喋るのは、普通なんですか」
「慣れちゃいますよ」とノエルが言った。
* * *
倉庫に入ると、確かに光があった。
小さな光だった。倉庫の隅の、古い木箱の上に、淡く光る何かがあった。蛍のような光ではなく、もっと穏やかな光だった。動かずにいた。
ノエルが光に近づいた。
「……何か、あります。木箱の上」
レイが言った。
「木箱を開けてみろ」
エルスが「倉庫の荷物を整理した時の古い箱で、中身を確認していなかった」と言った。
蓋を開けると——古い鏡が入っていた。
くもっていたが、かつては磨かれていた形跡があった。鏡の縁に、細かい彫刻があった。
レイが言った。
「光の精霊は、鏡に惹かれることがある。光を映すものだからだ。この鏡に、精霊が宿った——正確には、鏡を住処に選んだ」
「追い出す必要はないですか」とノエルが聞いた。
「ない。ただ——なぜ夜に光るかを聞けば、折り合いがつくかもしれない」
ノエルが鏡の前に座った。ノートを開いた。
* * *
今日の詠唱は短かった。
第Ⅰ節と、第Ⅱ節だけの構成だった。
第Ⅰ節は、光への呼びかけだった。鏡の前の光への——柔らかい呼びかけ。威圧でも懇願でもなく、ただ声をかけるような節だった。
温かな気配を感じる。
光が、少し揺れた。
頭の奥で、また声が届いた。
『……おや』
『誰だ』
『詠唱士か。久しぶりじゃのお』
別の声が続いた。
『今日は光の精霊か。珍しい』
『珍しい依頼じゃな』
『でも——良い子じゃ』
最後の声が温かかった。アルドは枷を通じて、その温かさを受け取った。
第Ⅱ節。ノエルが光の精霊に話しかけるような節を詠唱した。なぜ夜に光るのか——という問いではなく、ただ、ここにいる理由を聞くような言葉だった。
光が、また揺れた。
今度は答えるように揺れた。
レイが静かに言った。
「……鏡に映るものが、好きなんだ。夜に光るのは、暗い方が鏡が光を映すからだ。悪意ではない」
「では、どうすればいいですか」
「鏡を倉庫の暗い場所ではなく、昼間の光が入る場所に置けばいい。昼間も光を映せれば、夜に光る必要がなくなる」
エルスが「それだけで解決しますか」と聞いた。
「試してみる価値はある」とレイが言った。
* * *
鏡を窓のそばに移した。
夕方の光が、薄く差し込んでいた。鏡がその光を受けた。
光の精霊が——静かになった。
揺れが止まった。光が、安定した。穏やかに光っていた。夜のように強くはなかった。ただ、そこにいた。
エルスが「これなら眠れそうです」と言った。
【鏡は大切にしてください。古いものです】
「わかりました。祖父の代から倉庫にあったものなので、ちゃんと扱います」
* * *
宿を出る時、ノエルが空を見た。
夕方になっても、光が残っていた。春の前の長くなった日の光だった。
「昨日より、日が長くなってますね」
レイが言った。
「春が来る」
「楽しみです」
「春は好きか」
「好きです。あと——師匠はどうですか」
ノエルがアルドを見た。
アルドはノートを開いた。
『嫌いではないです。春になると依頼が増えます——精霊が活発になるので』
「忙しくなるんですね」
『忙しい方が、良いです。ノエルが詠唱する機会が増えますし』
ノエルが少し笑った。
「師匠、それ——どういう意味ですか」
『詠唱が増えれば、減算の機会も増える、という意味です』
「そういう意味ですか」
アルドは頷いて肯定する。
ノエルは笑ったまま、前を向いた。
アルドは、その背中を見た。
今日の光が、ノエルの外套に当たっていた。昨日の曇りの日とは、別の色だった。
* * *
夜、アルドは私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。晴れた街道。泉への挨拶。鏡の光の精霊。
『ノエルに「どんな声でしたか」と聞かれた。初めて聞かれた。低くも高くもない、普通の声だった——と書いた。でも、詠唱の声は少し違った。今は、その声がない。でも——今日、ノエルが泉に「こんにちは」と話しかけるのを聞いた。あれが今の、私の代わりの声かもしれない。違うが——似ている何かがある』
『「詠唱は噛まないために唱えるのではない」とレイが昨日言った。今日のノエルは、泉への挨拶も、鏡への詠唱も——届けるために声を出していた。昨日の悔しさが、今日になった。こういう速さで、ノエルは変わる』
ペンを置いた。
隣の部屋から、ノエルの筆が紙の上を滑る音が聞こえた。
春が来る、とレイが言った。
来るだろう、とアルドは思った。今年の春は、去年とは違う春になる。
* * *
「それだけで、十分な気がします」
―― ノエル・ブライトガーデン、泉のほとりにて




