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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第44話 噛んだ日

『テノアの残高:約六十一年と八ヶ月』


 朝から空が低かった。


 雨になるかもしれない、とアルドは思った。でも降らなかった。低い雲が街道の上をゆっくり流れていくだけで、光は薄く、空気は湿っていた。


 春の前の、どっちつかずの天気だ。


 ノエルが外套の前を閉じながら歩いていた。寒くはないが、暖かくもない、という顔だった。


 レイが低く飛んでいた。いつもより低い。雨の気配がある時は低く飛ぶ癖があるらしかった。


     * * *


 昼前に、街道沿いの村で依頼を受けた。


 川沿いの村で、春前に水路の精霊への挨拶をしたいという依頼だった。セルタ村の畑の依頼に似ていた。農村では、季節の変わり目に精霊への挨拶をする習慣がある場所がある。


 依頼主は老人のカデルだった。七十代で、背が曲がっていたが、声は大きかった。


「若い詠唱士さんかい。頼めるかな」


「はい。やります!」とノエルが元気に答えた。


「水路の精霊はね、うちの村では昔から『おじいさん』と呼んでいるんだ。気難しいが、悪い精霊ではないよ」


 レイが言った。


「気難しい土地の水の精霊は珍しくない。長く同じ場所にいると、そうなる」


「長く、というのはどのくらいですか」とノエルが聞いた。


「この村で言えば——三百年は超えているだろう」


 カデルが驚いて目を丸くした。


「そんなに昔から、おじいさんはいたんですか」


「人間の村ができる前からいる可能性もある」


       * * *


 水路は村の外れにあった。


 石で丁寧に組まれた古い水路だった。幅は広くなかったが、深さがあった。冬の水は少なく、底の石が見えるほどだった。春になれば水量が増すのだろう。


 ノエルがしゃがんで、水路の縁から水を見た。


「……気難しそうな感じがします」


「なぜわかる」とレイが聞いた。


「なんとなく。水がじっとしてる感じ? 動いてるのに、動きたくなさそうというか」


 アルドも魔術で気配を探ると、ノエルの言い方は正確だった。水路の水の奥に、古い意思があった。じっとしている、という感触。動かされることを、好んでいない。


『三百年以上いる精霊は、呼びかけ方に気をつける必要があります。古い言葉の方が通じることがあります』


「古い言葉、って、どんなものですか」


『形式が整っていて、格調がある言葉です。砕けた言葉は通じにくいかもしれない』


「わかりました。気をつけます」


 ノエルは立ち上がって、ノートを開いた。


     * * *


 第Ⅰ節。


 ノエルが少し声のトーンを変えた。


 いつもより、低く。ゆっくり。言葉を一つずつ、丁寧に置くような詠唱だった。


 枷が、静かに温かくなった。


 水路の奥の意思が——少し動いた。動いたのではなく、向いた、に近かった。こちらを向いた。


 頭の奥の方に、低い声が届いた。


『……来たか』


 低い声だった。老いた声だった。でも、遠い声ではなかった。すぐそこにいる声だった。


『久しいのお』


『久しいとは?』


『詠唱士が来たのは、久しいということじゃ』


 アルドは少し胸が締まった。


 第Ⅱ節。ノエルが水路の歴史への讃美を入れた。何百年、この土地の水を運んできたか。田んぼを潤してきたか。村の人たちが飲んできたか。


 気配が、変わった。


『……知っておるのか』


『知らないだろう。でも——』


『言葉に、重さがある』


『重さがある、か』


『ああ。久しぶりに、重さのある言葉を聞いた』


 第Ⅲ節。第Ⅳ節。


 ノエルの詠唱は丁寧だった。急がなかった。第Ⅳ節で即興を入れた——水路が運ぶものの詩だった。水だけでなく、季節を、時間を、村の歴史を運ぶという内容だった。


 周囲の気配が、穏やかになった。


『……うまい』


『格が、ある』


『格が、か』


『ああ。若いのに、格がある』


 第Ⅴ節に入った。


 その時。


 ノエルが噛んだ。


「ノエル・ブガ——」


 一瞬の静止。

 ブライトガーデン、と言い直した。続けた。第Ⅴ節を最後まで詠唱した。


 リトの枷が反応した。久しぶりのテノアの加算だった。

 最近は加算がなかったが、まあ、ノエルらしいと言えば、ノエルらしいミスだった。


     * * *


 第Ⅴ節で詠唱を締めた。


 ノエルが振り返った。顔が少し青かった。


「……噛みました」


「わかっているさ」とレイが静かに言った。


「第Ⅴ節まで、順調だったのにな」


「最後の最後で……くやしい」


 アルドはノートを開いた。


『第Ⅴ節でミスの判定でました。でも——今日の詠唱は、水路の精霊を動かしました。聞いていました。それは確かですよ』


 ノエルは読んだ。


「でも、噛みました」


『噛みましたね。でも、その前の四節は良かったですよ』


「……テノアの加算、どのくらいでしたか」


 アルドは枷を確かめた。


『……一年と二ヶ月、ほどだと思います。リトシステムの宣告がまだ来ていないので、正確には、ですが』


 その時、リトの枷が告げた。


『第五節、権限名乗りにおける発音変形。テノアの残高に一年と三ヶ月を追加します】


 アルドは書き直した。


『一年と三ヶ月でした。残高は約六十三年と一ヶ月になります』


 ノエルが、それを読んで、少し黙った。


「……三ヶ月前の減算分が、ほぼ戻りましたね」


 静かな声だった。責めてはいなかった。ただ、事実を確認していた。


『そうですね』


「また頑張って減らします」


 アルドは頷いてやるしか、思いつかなかった。


     * * *


 カデルが心配そうに近づいてきた。


「大丈夫かい、お嬢さん」


「大丈夫です。少し、失敗しましたが」


「でも、水路は落ち着いてるよ。見てごらん」


 ノエルが水路を見た。


 水が、少し増えていた。気のせいではなかった。水量が増えたのではなく——流れが、穏やかになっていた。気難しい意思が、少し解けた感触だった。


「……落ち着いてる」


「おじいさん、久しぶりに嬉しそうだよ」


 レイが言った。


「水路の精霊は、今日の詠唱を聞いた。噛んだことは、あの精霊には関係ない。重さのある言葉を、久しぶりに聞いた——それだけが残る」


     * * *


 帰り道に、ノエルがしばらく黙っていた。


 アルドは何も書かなかった。


 レイも飛びながら、何も言わなかった。


 しばらくして、ノエルが言った。


「……悔しいです」


 アルドは聞いていた。


「噛まなかった日が続いていたので。続くと、慣れてしまうんですかね。第Ⅴ節まで来て、油断したのかもしれない」


 レイが言った。


「油断ではない」


「では、何ですか」


「緊張だ」とレイが言った。「第Ⅴ節まで噛まずに来た。それで緊張した。噛まなかった連続が、逆に重さになった」


 ノエルは少し考えた。


「……噛まないことを意識しすぎた、ということですか」


「そうだ。詠唱は、噛まないために唱えるのではない」


「では、何のために」


「精霊に届けるために、だ。その意識が少し薄れた瞬間に、名前が揺れた」


 ノエルが、それを黙って聞いていた。


 アルドは書いた。


『レイの言う通りです。今日の第一節から第四節は、精霊に届けていた。第Ⅴ節で意識が変わった——それが噛みの原因だったと思います』


「……わかりました」


 それだけ言って、ノエルは前を向いた。


 落ち込んではいなかった。でも、その重さを受け取っていた。


     * * *


 夕方、宿に入る前に、ノエルが空を見た。


 低かった雲が、少し上がっていた。夕方になって、薄く光が差していた。


「明日は晴れそうですか」とノエルがレイに聞いた。


「多分」とレイが答えた。


「良かった」


 それだけだった。


 アルドは宿の扉を開けた。


     * * *


 夜、アルドはノートを開いた。


 今日の出来事を記した。水路の精霊。三百年以上の古い意思。『重さのある言葉』。そして——加算。

 

『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月。一年と三ヶ月の加算。久しぶりだった。でも——加算があっても、詠唱の効果は問題なかった。それでいい』


『ノエルが「悔しい」と言った。それを聞いて、私は何を感じたか。悔しかったわけではなかった。でも——ノエルが悔しがることを、良いと思った。悔しさは次の燃料になる。今日の噛みは、次の詠唱のためにある。決して、失敗は無駄ではない』


【やはり気のせいではなく、頭の奥で、水路の精霊の声が今も残っている気がする。『重さのある言葉を、久しぶりに聞いた』——加算があっても、それは消えない】


 ペンを置いた。


 隣の部屋からも、ノエルの筆を走らせる音が聞こえた。今日は長かった。


 悔しい日も、そのことを受け止めて次に進む日だ、とアルドは思った。


     * * *


「詠唱は、噛まないために唱えるのではない。

 精霊に届けるために唱えるのだ」

―― レイ、帰り道にて

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