第43話 春の手前
『テノアの残高:約六十一年と八ヶ月』
街道の土が、少しずつ乾いてきた。
泥道だった頃より歩きやすかった。靴の裏に土がつかない。足音が変わった。乾いた土を踏む、少し軽い音になった。
春が近い、とアルドは思った。正確には、冬の終わりが近い。春になるのはまだ先だ。でも、空気の中に、何かが混じり始めていた。
ノエルが前を歩いていた。
今日は少し速かった。何かを考えながら歩く時、ノエルの歩調は上がる。
アルドはその癖を、旅に出てから知った。
* * *
昼前に、街道沿いの小さな丘の上に礼拝堂を見つけた。
古い建物だった。石造りで、屋根の一部が傷んでいた。入り口の扉は開いていたが、人の気配はなかった。
ノエルが立ち止まって、丘を見上げた。
「入ってもいいですか」
ノエルの問いかけに、レイが言った。
「礼拝堂は誰にでも開かれている。問題ない」
二人と一羽は、丘を上った。
中は薄暗かった。窓が小さく、冬の光が細く差していた。祭壇の前に古い燭台があって、蝋燭は半分ほど残っていた。誰かが最近、ここで灯したのだろう。
ノエルが祭壇の前に立って、しばらく黙っていた。
祈っているわけではなかった。ただ、見ていた。
アルドも、隣に立った。
礼拝堂の空気は、外より少し暖かかった。石の壁が熱を閉じ込めていた。蝋燭の残り香があった。
レイが扉の近くの石の出っ張りに止まって、静かにしていた。珍しかった。
* * *
しばらくして、ノエルが言った。
「師匠、礼拝堂って、精霊はいますか」
アルドはノートを開いた。
『礼拝堂によります。古い建物には、積み重なったものが残ることがあります。精霊ではなく、場の記憶、というか』
「場の記憶」
『ここで何年も誰かが祈ってきた、という重さが、空気に残ることがある——気がします。正確には、わかりません』
ノエルは祭壇をもう一度見た。
「なんか……そういう感じがします」
レイが静かに言った。
「積み重ねは、消えない。誰も来なくなっても、しばらく残る」
「しばらく、って、どのくらいですか」
「場所による。百年のこともある。千年のこともある」
ノエルが少し目を丸くした。
「千年!」
「人間の時間は短い」とレイが言った。「でも、短いから積み重ならないわけではない」
ノエルはそれを聞いて、また祭壇を見た。
アルドは、その横顔を見た。
何かを考えている顔だった。残高のことを考えているのか、詠唱のことを考えているのか、それとも別のことか——顔からはわからなかった。
* * *
礼拝堂を出て、丘を下りた。
街道に戻ってしばらく歩くと、ノエルが言った。
「師匠、一つ聞いていいですか」
アルドはノエルの方を向いて、頷いた。
「残高が減る時——リトの枷は何かおきるのでしょうか」
アルドは少し考えてから書いた。
『あくまで魔術的に発声を止めているだけなので、テノアの積み残しがある状態になら、状態の変化を告げられるだけです』
「痛くはないんですね」
『あくまで「魔術的に発声を抑止」しているだけなので、痛みはありませんよ』
「でも、締め付けられるんですよね?」
『そうです。とは言っても、その状態を知らせる程度の軽い動作ですのでご心配なく』
ノエルはそれを聞いて、少し黙った。
「じゃあ、師匠にとって——私の詠唱がうまくいった時は、どうなんですか?」
『魔術的にも、通常の感覚としても、貴方の詠唱からは温かみを感じます』
「ずっと、そうだったんですか。旅に出てから】
アルドは慎重に言葉を選び、書いた。
『最初は曖昧な感覚だったのですが、最近ははっきりと認識できるくらいになっています。それに枷がただの重さでなくなったのは、旅に出てからですよ』
ノエルが読んで、また少し黙った。
「……温かい感覚が伝わっていると聞けて、良かったです」
独り言に近かった。
アルドは、それに対して何も書かなかった。
書かなくていい、と思った。
* * *
夕方、次の村に差し掛かる前に依頼の立て札があった。
ノエルが読んだ。
「えっと——『種まきの前に、畑の土の精霊に挨拶をしたい。詠唱士に頼みたい』」
レイが言った。
「春の前の土の精霊への挨拶は古い習慣だ。悪くない依頼だ」
『やってみますか』
「やります」
* * *
村はセルタといった。
依頼主は農家の夫婦だった。夫のオリンが四十代、妻のベアが三十代ほどだった。二人とも日に焼けていて、手が大きかった。
畑に案内された。冬の間、休んでいた畑だった。土が柔らかく、少し湿っていた。春の前の土の匂いがした。
ノエルが畑の端に立って、土を見た。しゃがんで、指先で少し触った。
「……柔らかい」
「そうだろう」とオリンが言った。「冬の間、雪の下で休んでいたから」
ノエルが立ち上がった。ノートを開いた。
「それでは、始めます!」
* * *
第Ⅰ節。
土への呼びかけだった。冬の間、雪の下で眠っていた土への——静かな呼びかけ。
枷が、じわりと温かくなった。
土の精霊は、すぐに応えた。近くにいた。眠っていたのではなく、ただ静かにしていた、という感触だった。
頭の奥の方に、声が届いた。
『おお、来たか』
『春の前じゃな』
『待っておったぞ』
アルドは少し驚いた。今日は早かった。第Ⅰ節でもう届いた。
第Ⅱ節。土が何を育ててきたかへの讃美だった。この畑で何が実り、誰が食べてきたか。ノエルは知らないはずだが、知っているかのように言葉を選んだ。
オリンが横で、目を細めた。
『知っておるのか、この子は』
『知らないだろう。でも——感じておる』
『感じておるのか』
『ああ』
『それで十分じゃ』
第Ⅲ節。第Ⅳ節と続く。
第Ⅳ節で、ノエルが即興を入れた。
春の詩だった。雪が解け、土が目を覚ます——という即興だった。短かった。でも、畑の土の匂いと、ノエルの声が、少しの間、重なった。
周囲にあった気配がさらに明るくなった気がした。温度ではなく——明るさ、に近い何かが、一瞬、広がった。
『ああ……』
『これじゃ』
『これが、詠唱じゃ』
静かな声だった。喜びではなく——もっと深い、何かを取り戻したような声だった。
* * *
第Ⅴ節で止めた。
ノエルが振り返った。顔が、柔らかかった。疲れていなかった。
「……土の精霊、喜んでました」
「わかったのかい」とベアが聞いた。
「なんとなく、ですけど」
オリンが畑を見た。何も変わっていないように見えた。でも、土の表面が、少しだけ色が変わった気がした。気のせいかもしれなかった。
『今日の第Ⅳ節は短かったですね』
「短い方が、良い気がしたので」
『よかったのだと思います。春の詩は、長くなくていいのかもしれない』
ノエルが嬉しそうな顔をした。
ベアが「ありがとうございます」と言って、焼いたパンと、瓶に入った蜂蜜をくれた。
* * *
宿に向かう道で、空が夕焼けになった。
冬の夕焼けとは少し違った。橙の中に、薄く赤が混じっていた。春の前の空の色だ、とアルドは思った。
ノエルが空を見た。
「きれいですね」
レイが言った。
「春の前はいつもこういう色になる」
「毎年見てるんですか」
「百年は見ている」
ノエルが少し笑った。
「百年分の夕焼けって、どんな感じですか」
「毎回、少しずつ違う」とレイが言った。「同じ色はない」
ノエルはそれを聞いて、また空を見た。
「……今年のは、特別きれいな気がします」
「お前が見ているからだ」
レイが言った。
ノエルが少し黙った。それから、また前を向いた。
アルドは、その背中を見た。
夕焼けの中を、ノエルが歩いていた。影が長く伸びていた。
* * *
夜、アルドは私的なノートを開いた。
今日の出来事を記した。礼拝堂。枷の温度の話。セルタ村の畑。春の夕焼け。
『枷の温度のことを聞かれた。「温度があるって、良かったですね」とノエルが言った。良かった、と思う。旅に出る前、枷は締め付けとソフィアの宣告だけだった。今は温度がある。減算の温かさがある。神々の声がある——孫の発表会を見守る老人たちの声が、枷を通じて届く』
そして、神の声と思しき言葉も記録した。
『今日、畑の詩の第Ⅳ節で、枷の奥から『これが、詠唱じゃ』という声が届いた。喜びではなく、もっと深い何かだった。取り戻した、という感触に近かった。神々が何を取り戻したのかは、まだわからない。でも——今日の夕焼けを、一生覚えている気がする』
ペンを置いた。
隣の部屋から、ノエルの筆の走る音が聞こえた。
今日も、良い一日だった。
* * *
「毎回、少しずつ違う。同じ色はない」
―― レイ、春の前の夕焼けの下で




