第42話 神々が見ている
『テノアの残高:約六十一年と八ヶ月』
昨日と同じ数字だった。でも、今朝この数字を書いた時、アルドはいつもと少し違う感触を覚えた。
ノエルが知っている。
その事実が、数字の意味を変えた。重さが変わった、とノエルが言っていた。アルドにとっても、変わった気がした。一人で抱えていたものではなくなった——それが良いことかどうかは、まだわからなかったが。
* * *
三日で街道の雪がほとんど消えた。
泥道になった。歩くたびに靴の裏に土がついた。
レイが「冬の終わりはいつも泥だ」と言った。アルドは同意した。
ノエルは泥道をあまり気にしなかった。靴を見て「洗えばいいですね」と言って、また前を向いた。
午後、村の手前で依頼の立て札を見つけた。
「読んでいいですか」
アルドが頷くと、ノエルが読んだ。
「えっと——『川のほとりに、風の精霊が住み着いて困っている。悪さはしないが、洗濯物を飛ばす。穏やかになってほしい』……」
レイが言った。
「風の精霊は気まぐれだ。穏やかにはならない。でも——相手をすれば、満足して去ることもある」
『やってみますか』
「やります!」
ノエルは迷わなかった。
* * *
村はカレンといった。
川沿いに十数戸が並ぶ小さな村で、依頼主は村長の老婦人だった。
ナーレと名乗った。七十代ほどで、背が低く、目が鋭かった。
「詠唱士さんかい。若いね」
「よく言われます」とノエルが言った。
「あの子ったら、三日も洗濯物を飛ばしてくれてね。川の向こうまで飛んでいったのよ」
レイが窓の外から言った。
「子ども扱いしているな」
「精霊のことを、ですか?」とノエルが聞いた。
「そうだ」とレイが言った。「風の精霊を『あの子』と呼ぶのは、正しい感覚だ」
ナーレが少し得意そうな顔をした。
* * *
川のほとりに出ると、確かに風があった。
川の流れと逆方向に、細かく渦巻くような風だった。川沿いの草が、右に左に忙しなく揺れていた。
ノエルがしばらく、風の動きを見ていた。
アルドも気配を探る。精霊の位置を、魔術で探った。川面の少し上——川と空の境目あたりに、小さな気流の核があった。大きくはない。でも、確かに意思があった。
『川と空の境目ですか。小さいですね』
ノエルが読んで、頷いた。
「……気まぐれ、な感じがします。怒ってるわけじゃなくて」
「遊んでいる」とレイが言った。「洗濯物を飛ばしたのも、悪意ではない。面白かったんだろう」
「なんか……わかる気がします」とノエルが言った。
アルドはそれを聞いて、少し笑いそうになった。笑わなかったが。
* * *
ノエルが詠唱を始めた。
第Ⅰ節。風への呼びかけ。名前のない風の精霊への、丁寧な呼びかけだった。
その瞬間——何かが変わった。
いつもと違った。気配の感触、温度が変わったのではなかった。音に近い何かが——複数、重なった。
アルドは確かに感じた。一体ではない。複数の視線が、この小さな川のほとりに向いていた。
そして——聞こえた。
正確には、聞こえたわけではなかった。でも、言葉に似た何かが届いた。
『今日はわしが前じゃ』
別の、もっと遠い何かが答えた。
『昨日もお前が前に出ただろう』
『孫の発表会に順番があるか』
アルドは固まった。
神霊界の声が——言葉として届いた。
初めてだった。これまでは温度と色と熱のような曖昧な気配だけだった。
今日は、言葉だった。
* * *
第Ⅱ節。第Ⅲ節。
ノエルの声が川面に溶けた。風の精霊が、少しずつ応えていた。気まぐれな渦が、ゆっくりとほぐれていく。
枷の奥が、にぎやかだった。
『来るぞ。第Ⅳ節だ』
『今日の韻は、どうなるかのう』
アルドは呼吸を整えた。報告書を書く手が、少し揺れた。
第Ⅳ節。
ノエルが即興を入れた。風の旅の詩だった。山から吹いて、海を渡り、また山に帰る——昨日の水の旅の詩と対になるような即興だった。
一瞬、辺りが、静かになった。
ほんの一瞬の間。
『……うまい』
『うまいのお』
『わしが最初に褒めたんじゃ』
『お前が言わなくてもわかる』
アルドは、ペンを置いた。
いつものように温かな気配があった。それは複数の気配が重なっていた。セレスの春の温度。ノクスの深い温度。そして——もっと遠く、もっと上から、温かい視線が降りてくるような感触。
* * *
第Ⅴ節。
ノエルは止まらなかった。
第Ⅵ節に入った。讃美が長かった。風が存在することへの、ただそれだけの讃美だった。役に立つからではなく、洗濯物を飛ばさないからでもなく——風が吹いていることへの、純粋な言葉。
また静かになった。
今度は別の種類の静けさだった。聞き入っている静けさだった。
『……これは』
『ああ』
『久しぶりじゃ』
『数百年ぶりか』
アルドは動けなかった。
数百年。その言葉が、どこからか届いた。
* * *
第Ⅶ節。
「——セレス様の慈雨に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
今日も、噛まなかった。
川の風が、一度大きく吹いた。
それから——静かになった。
渦巻いていた気流が、消えた。川面が、穏やかになった。
再び言葉が聞こえる——
『噛まなかったのお』
『また噛まなかった』
『成長しておる』
『寂しいのお』
『寂しい、か?』
『……少しな』
アルドは、その声を聞いた。
声ではなかった。でも、言葉だった。
噛まなかったことを、神々が——少し寂しがっていた。
* * *
ノエルが振り返った。
「……終わりました」
顔は疲れていなかった。今日は第Ⅶ節まで使ったのに、昨日より顔色が良かった。
レイが言った。
「今日の第Ⅳ節の即興は良かった。風の詩は難しい。水と違って形がない」
「ありがとうございます」
【第Ⅵ節の讃美がいつもより長かったですね】
ノエルが読んで、少し考えた。
「なんだか……讃美したくなったんです。役に立つとか必要だからじゃなくて、ただそうしなければと思って」
『それが正しい讃美だと思います』
ノエルが嬉しそうな顔をした。
ナーレが川を見て、それからノエルを見た。
「落ち着いたね」
「はい」
「ありがとう、お嬢さん」
お嬢さん、という呼ばれ方に、ノエルが少し照れた。
アルドはそれを見て、また笑いそうになった。
* * *
帰り道、ノエルが言った。
「師匠、今日の詠唱で、何か感じましたか」
アルドはノートを開いた。
少し考えた。あの声にならない言葉を聞いたことを、どこまで伝えるか。
『……いつもより、神霊界の気配が近かった、濃く感じた気がします』
「どんな感じですか」
『複数の、視線、に近いものを感じました。言葉のような何かが——届きました』
「言葉?」
『はっきりとは聞こえません。でも——今日の即興と讃美を、喜んでいるようでした』
ノエルはそれを読んで、少し空を見た。
「神々って……ちゃんと聞いてるんですね」
『ずっと聞いています。ノエルが詠唱するたびにね』
「プレッシャーですね」とノエルが言った。
『良い意味で、だと思います』
レイが頭上で言った。
「プレッシャーではない。応援だ」
ノエルがしばらく黙った。それから、また空を見た。
「……応援、か」
それを聞いたノエルは嬉しそうに小さく笑った。
* * *
夜、アルドは私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。川の精霊。風の詩。第Ⅵ節の讃美。
それから、続けて書いた。
『今日、枷の奥から言葉が届いた。初めてだった。声ではなく、言葉だった。「今日はわしが前じゃ」「孫の発表会に順番があるか」——神々が、ノエルの詠唱の順番を争っていた』
そして、神の愛も。
『ノエルが噛まなかった時、「寂しいのお」という何かが届いた。神々が、ノエルの噛みを——愛していた。それを知った』
その気配の違和感についても。
『神々は遠い存在だと思っていた。声を賭けた時も、リトシステムの宣告を聞く時も——取引の相手だと思っていた。でも、今日聞こえたものは、取引をしている相手ではなかった。孫の発表会を見守る老人たちの声に、似ていた』
ペンを置いた。
窓の外に、風はなかった。川の精霊は去っていた。
今日の神々の声を、アルドはまだ覚えていた。
『数百年ぶりか』
その言葉の重さを、しばらく考えた。
* * *
「プレッシャーではない。応援だ」
―― レイ、川のほとりにて




