第41話 聞こえてしまった
『テノアの残高:約六十一年と八ヶ月。』
アルドは朝のノートに数字を書いてから、一呼吸置いた。
昨日からこの数字が変わっていない。当たり前だ。今朝は依頼もなく、詠唱もなく、ただ宿の食堂で朝食を食べただけだ。でも——冬のはじめ、「六十五年」という数字を知ってしまったあの日から、ノエルはずっとこの数字を、自分のことのように覚えている。
数字を見るノエルの目が、最近少し変わった気がした。
ただ知っている、というのではなかった。背負っている、という目だった。
それが良いことかどうかは、まだわからなかった。
* * *
午前中は、特に予定がなかった。
街道を歩くだけの日もある。
次の村まで半日ほどだが、急ぐ理由もなかった。
ノエルが「少しゆっくり出ませんか」と言ったので、そうすることにした。
宿の裏に小さな広場があった。冬の日差しが薄く差していて、雪がほとんど解けていた。石のベンチがあって、ノエルがそこに座った。アルドも隣に座った。
レイが飛んできて、ベンチの背に止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
良い沈黙だった。
* * *
「ねえ、若造」
急に話を振ってきたのは、レイだった。
アルドは振り向いた。レイが宙を見ながら、独り言のように続けた。
「残高が六十一年を切ったな」
ノエルが顔をあげた。でも、驚いた顔ではなかった。
アルドが答えようと筆を持ったとき、代わりにノエルが答えた。
「はい……六十年くらい、ですよね。昨日、減った分で。昨日、泉の詠唱で減りました」
レイが少し間を置いた。
「そうだ。よく覚えているな」
「忘れません。師匠の数字なので」
その言い方に、アルドは戸惑った。
師匠の数字。冬のはじめのあの日、テノアの残高の数字を実際に知って、アルドの声の喪失の時間として、今はノエルに重く圧し掛かっていた。
以来、ノエルはずっとそう思ってきたのだろう。
自分のものではない、でも、無関係でもない数字として。
* * *
レイが、宙を見たまま、ふと声のトーンを変えた。
「若造」
アルドは見た。
「お前は、本当にそれでいいのか」
アルドは、すぐには意味がわからなかった。
「六十一年だ。声が戻らないまま、お前は老いていく。それでも、いいのか」
ノエルが、息を止める音が聞こえた。
アルドは、ノートを開いた。
いつもの問いだと思った。何度も自分に問うてきたことだった。だから、いつものように書こうとした。
でも、今日は、レイが先に続けた。
「ノエルがいない時に聞くつもりだった。でも、今日でいいか」
アルドは、ノエルを見た。
ノエルは、隣に座っていた。聞こえる距離だった。
いまさら、止める間もなかった。
* * *
アルドは、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
書くか、書かないか。
ノエルがいる前で、この問いに答えるということが、何を意味するか。
でも——隠す理由も、なかった。
そしてひと言、その問いの答えを書いた。
『構いません』
短い答えだった。でも、レイはそれだけでは納得しない顔をした。
「それだけかい。本当に」
アルドは、もう少し書いた。
『ノエルの詠唱を聞けるなら、それで、構いません』
ノエルは、何も言わなかった。
アルドは、続けた。
『声が戻らなくても、後悔はありません。私が選んだことです』
* * *
「……師匠」
ノエルの声が、震えていた。
アルドは、その声に、初めて気づいたように顔を上げた。
ノエルの目が、赤くなっていた。
「聞こえてました」
アルドは、何も書けなかった。
止めようとして、間に合わなかったのか。それとも、止めるつもりがなかったのか——自分でも、わからなかった。
「テノアの数字は、知ってましたけれど、どれも実感がわかなかった。分かっていて、わかろうとしていなかったのかも。六十五年も、六十一年も、知っていたのに」
ノエルが、ベンチの端を握った。
「でも——師匠が、それでいいって思ってるなんて、知りませんでした」
アルドは、ノートを見た。
何を書けばいいか、わからなかった。
「重い、って、ずっと思ってました。数字を知ってから。でも——師匠の方が、もっと重いものを、平気な顔して持ってるんですね」
「平気じゃ、ない」
レイが、静かに口を挟んだ。
「平気な顔をしているだけだよ。こいつは……」
ノエルが、アルドを見た。
アルドは、その視線から、目をそらさなかった。
* * *
しばらく、誰も何も言わなかった。
レイが、ベンチの背から、宙へ飛び上がった。
「悪かったな、若造。今日でいいと思ったんだ」
それだけ言って、広場の上を旋回した。
ノエルが、深く息を吸った。
「師匠」
アルドは頷く。
「『構いません』って——本当に、それだけですか」
アルドは、ペンを持った。
今日、もう一つだけ、伝えておくことがある。
『ノエルが、声をかけたあの日から——このリトのチョーカーは、自身の重さだけではなくなりました。でも貴方とつながることで、言の葉の温度が、ここにありました。その言の葉に応える神々の声も、全部、ひとりだけでは知らなかったものでした】
ノエルが、それを読んだ。
『六十一年は、長いです。でも、知らなかった頃の私には、これがありませんでした』
アルドは、もう一度、書いた。
『それでも、構わない、という意味です』
* * *
ノエルが、しばらく、その文字を目で追っていた。
それから、小さく、頷いた。
「……わかりました」
涙は、止まっていた。でも、まだ少し、目が赤かった。
「取り戻します。師匠の声を」
『ええ。もちろん、わかっています』
「今までより、もっと——師匠のために、減らしますからっ」
アルドは、その言葉に、少し戸惑った。
『ノエルのために、ではなく、ですか】
「両方です。私のためでもあり——師匠のためでもあるんです」
ノエルが、立ち上がった。
「行きましょう。今日も、また新しい出会いが待ってますよ」
アルドも、立ち上がった。
荷物を持って、宿の表に出た。街道に出た。
雪解けの街道は、土の匂いがした。
冬の終わりの気配が、少しだけ混じっていた。
* * *
歩きながら、ノエルは振り返りノートではなく、普通の紙に何かを書いていた。歩きながら書くのは珍しかった。
しばらくして、アルドに差し出した。
題名の無い短い詩、言の葉。
『山の雪が暖かな陽射しを浴び解け行きて、ひそやかに大地に沁みて集まり湧き出して、幾筋もの水の道として川の流れを成し、やがて大いなる海に届きてのち、ふたたび空に上り還る――永遠の循環の物語。水の旅に果てはなく巡り、静かに生命を支え息づいている』——水の旅の詩だった。昨日の泉の第Ⅳ節の即興を、書き起こしたものだった。
アルドは読んだ。
一度読んで、また読んだ。
『これは、昨日の詠唱時の即興ですか?』
「覚えていたので、書きました。師匠に渡そうと思って」
アルドはしばらくその紙を見つめ、大事そうに折りたたんで、ノートに挟む。
『大切にします』
ノエルが少し、ぎこちない笑みを浮かべていた。
レイが頭上を飛んでいた。
* * *
夜、宿に入ってから、アルドは私的ノートを開いた。
今日の出来事を記していく。
広場での出来事。
レイの問い。
「構いません」という答え。
ノエルが聞いてしまったこと。
そして、私の気持ち。
『数字は、ずっと前から知っていた。でも、私の気持ちは、今日まで知らなかった。レイが「今日でいい」と言った理由は、わからない。でも——隠しておく方が、良かったとは思えない』
さらに続けて。
『ノエルが「重い」と言った。冬のはじめ、ヴァルナの宿を出たあの日、数字を知った時とは、違う重さだったと思う。あの時は、私の代わりに負っているものの重さ。今日は——私が、その重さを選んだ、という事実の重さ』
彼女の答えは、深く私の心に残った。
『「両方です」とノエルは言った。ノエルのためでもあり、私のためでもある、と。その言葉を、しばらく覚えていたいと思う』
ノートに水の旅の詩が挟んであった。
アルドは一度取り出して、繰り返し読んだ。
読み終わると、折りたたんで、また挟んで仕舞う。
今日も、良い一日だった。
重かったが——結果的には良かったと思う。
* * *
「平気な顔をしているだけだ」
―― レイ、雪解けの広場にて




