第40話 はじめての減算
その日の依頼は、朝から来た。
宿の女将に声をかけられたのは、朝食の途中だった。
「詠唱士さん、もしよければ……うちの近くの泉のことなんですが」
ノエルが振り向いた。アルドもノートを置いた。
「泉が、どうかしましたか」
「三日前から、水が濁って。村の人が飲み水に使っているんですが、このままだと困っていて」
レイが窓枠から言った。
「泉の底を見てみればわかる。土の精霊か水の精霊か、どちらかが拗ねている」
女将がレイを見て、一瞬固まってから、また前を向いた。
「あの……鳥さんも、詠唱士さんの仲間ですか」
「最も重要な仲間だ」とレイが言った。
『一緒に来ていただければ案内します、と書いてあります』
アルドが書いて女将に見せた。女将は読んで、それからノエルを見て、少し安心したような顔をした。
* * *
泉は宿から歩いて五分ほどの場所にあった。
村の外れで、古い石組みに囲まれていた。水は確かに濁っていた。透明ではなく、薄く白く濁っている。においはない。
レイが泉の縁に止まって、水面を見た。
「水の精霊ではない。土の精霊だ。泉の底の石組みに隙間が生じて、土が混入している。精霊が気にして、水を押し返している」
物理的な原因と、精霊の反応が両方ある。昨日のトルネ村の倉庫と似た構造だ、とアルドは思った。
『石組みの修理が必要です。修理してから詠唱しますか』
「そうしたい、と思います」
ノエルはすでに泉を覗き込んでいた。水面に顔を近づけて、何かを確かめている。
「底の石、二枚くらいずれているみたいです」
アルドも覗いた。確かに、底の石組みの一部に隙間があった。そこから細く、土が滲んでいる。
* * *
修理は一刻ほどかかった。
アルドが腕まくりをして泉に手を入れ、ずれた石を元の位置に戻した。冷たかった。ノエルが必要な石を選んで渡した。レイが「そこではない、もう少し右」と指示を出した。女将が温かい飲み物を持ってきて、石垣の上に置いておいてくれた。
石を戻してから、水が少し透明に近づいた。でも、まだ完全ではなかった。精霊が落ち着いていないからだ。
ノエルが立ち上がった。手袋を外して、ノートを開いた。
「詠唱、します」
* * *
第Ⅰ節。
水への呼びかけから始まった。泉の歴史——どれだけの時間、この場所で水が湧いてきたか。村の人たちが何年、何十年、ここで水を汲んできたか。
アルドは魔術で気配を、泉の底の変化を感じた。土の精霊が、聞き始めていた。
第Ⅱ節。
石組みへの讃美だった。人の手で積まれた石が、何十年も水を守ってきたことへの言葉。崩れた石への謝罪ではなく——壊れながらも守り続けたことへの敬意。
アルドはペンを持つ手を止めた。
謝罪ではなく敬意。そういう選択をする詠唱師を、アルドは他に知らなかった。
第Ⅲ節。
土の精霊への呼びかけ。真名ではなく——この泉の底に住む、名前のない精霊への、丁寧な呼びかけ。
気配を感じるとともに心が温かくなる。いつもの温かさではなかった。
セレスの気配だった。
春の日差しのような、柔らかい熱。遠くから、静かに、届いてきた。
第Ⅳ節に入った。
ノエルが一瞬、止まった。
アルドにはわかった。神霊の視線が増えた。泉という小さな場所への詠唱のはずが、より大きな何かの注意を引いた。
止まったのは一呼吸だけだった。
ノエルは続けた。
第Ⅳ節は、水そのものへの詩だった。山から流れ、地に沁み、泉として湧き出す——水の旅を、一節の詩にした。アルドが書いた術式には、こういう節は存在しなかった。完全な即興だった。
さきほどより、気配がさらに一段深くなる。
セレスだけではなかった。もう一つ、別の気配が混じった。深く、静かな気配——ノクスの眷属ではない。もっと上の、何かだった。
* * *
第Ⅴ節。第Ⅵ節。
第Ⅵ節の讃美は、長かった。
アルドはその間、ただ立っていた。周囲から伝わってくる熱を、ただ受け取っていた。痛みを伴う感覚ではない、また以前に感じたやわらかな感覚でもなかった。
ただ——単純な意思を持った温かさだった。
今までに感じたことのない種類の温かさだった。代償ではなく、讃美の熱そのものが、周囲に流れてきているようだった。
第Ⅶ節。
「——セレス様の慈雨に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
噛まなかった。
滑らかに、最後まで。
アルドは息を呑んだ。
泉の水が、透明になった。底の石が見えるほど、澄んだ水になった。
* * *
しばらく、誰も動かなかった。
女将が「あ……」と小さく声を出した。
それからノエルが、ゆっくり振り返った。顔が少し白かった。疲れている。でも、立っていた。
「……できました」
アルドはノートを開いた。
何を書けばいいか、一瞬わからなかった。
書いた。
『よかったです』
それだけだった。他に言葉がなかった。
ノエルが小さく笑った。
その時、リトシステムが反応した。
静かな音だった。システムの告知が来た。
『讃美の評価:第Ⅵ節、神霊の採点において「免除」判定。テノアの残高より、三年と四ヶ月を減算します』
アルドは固まった。
減算だった。
初めてだった。
旅に出てから、加算は何度もあった。据え置きも、最近は続いていた。でも減算は——契約してから今日まで、一度もなかった。
* * *
ノエルがアルドの顔を見た。
「……師匠、どうしましたか」
アルドはノートを開いた。手が、少し震えた。
『リトシステムが、テノアの減算の宣告しました』
「減算?」
『三年と四ヶ月、減りました。今の残高は——約六十一年と八ヶ月です』
ノエルがぽかんとした顔をした。
それから、目が大きくなった。
「……減った?」
『減りました』
「初めてですか」
『はい。契約してから、今日が初めてです』
ノエルはしばらく、何も言わなかった。
それから、泉を見た。透明になった水面を。底の石を。
また、アルドを見た。
「……師匠」
『何ですか?』
「今日の詠唱、良かったんですね」
問いかけではなく、確認だった。
『はい。とても良かったです』
ノエルは頷いた。それから、また泉を見た。
レイが静かに言った。
「神々は忘れない。良い詠唱を、ちゃんと覚えている」
* * *
帰り道、女将からお礼をもらった。温かい料理と、部屋を一泊分まけてくれた。
宿に戻って、三人で遅い昼食をとった。
ノエルはあまり喋らなかった。疲れているのもあるだろうが、何かを考えている顔だった。
食事が終わってから、ノエルが言った。
「師匠、三年と四ヶ月って、どのくらいですか」
『約束の仕方によりますが——私が三年と四ヶ月、声を取り戻すのが早くなった、という意味です』
「……三年と四ヶ月分、早く声が戻る」
『そうです』
ノエルはそれを聞いて、また黙った。
しばらくして、決意を持って言った。
「もっと減らします」
宣言ではなかった。独り言に近かった。でも、静かな確信があった。
アルドはノートを取り出した。
書いた。
『わかっています』
それだけ書いて、ノートを閉じた。
* * *
夜、私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。泉。石組み。セレスの温度。初めての減算。
一行空けて書いた。
『テノアの残高:約六十一年と八ヶ月。初めて減った。三年と四ヶ月』
もう一行空けて。
『ノエルが「もっと減らします」と言った。声に、確信があった。私はそれを聞いて——何と呼ぶかわからないが、確かに何かを感じた。それが四つ目かもしれない。まだ言葉にはならないが』
ペンを置いた。
隣の部屋から、ノエルの筆の音が聞こえた。今日は長かった。
良い一日だった、とアルドは思った。
今日は、そう書いた。
『良い一日だった』
* * *
「神々は忘れない。良い詠唱を、ちゃんと覚えている」
―― レイ、泉のほとりにて




