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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第39話 減っていくもの

 朝の挨拶の筆談を書いてから、アルドはノートを閉じて窓の外を見た。


 雪は昨日より薄くなっていた。夜のうちに少し解けたらしい。街道に茶色い土が見え始めていた。


 ノエルはまだ振り返りノートを書いていた。食事の皿を脇に寄せて、真剣な顔で何かを書いている。止めては書き、また止めている。


 アルドは自分のノートを開いた。報告書の続きを書こうとして、手が止まった。


 昨夜の私的ノートに書いた言葉が、まだ頭の中にあった。


 残高とは別の何かが縮んだ気がする。


 あれは正確ではないかもしれない、と今朝になって思った。縮んだのではない。積み重なった、の方が近い。ノエルが詠唱するたびに、何かが足されていく。残高が減るより速く、別のものが増えている。


 それが何かは、まだわからない。


     * * *


 昼前に、宿を出た。


 街道に出ると、レイが先を飛んでいた。風向きを確かめているのか、一度大きく円を描いてから、二人の頭上に戻ってきた。


「この先に川がある。橋が一つ。凍っているかもしれない」


『迂回できますか』


「ある。少し遠回りになるが」


『どちらがいいですか』


 ノエルに向けて書いた。ノエルは少し考えた。


「橋を見てから決めませんか。凍ってなければそのまま渡れるし、凍ってたら迂回路で」


『そうしましょう』


 それだけのやりとりだった。

 でも、旅に出た頃のノエルなら、アルドに決めてもらおうとしただろうと思った。

 今は自分で案を出す。


     * * *


 橋は凍っていなかった。


 川幅は広くなかったが、水量は多かった。雪解けの水が混じっているらしく、流れが速かった。橋の上に立つと、欄干を通じて冷たい振動が伝わってきた。


 ノエルが立ち止まって、川を見下ろした。


「水霊、いますか」


 レイが少し間を置いた。


「いる。ただ、今は話しかけない方がいい。雪解けの時期は水霊も忙しい。流れに乗って移動しているところだ」


「そうなんですね」


 ノエルは橋の欄干に手を置いて、しばらく川を見ていた。声をかけるでもなく、ただ見ていた。


 それでいい、とアルドは思った。声をかけなくていい時を、ノエルが知っている。


 橋を渡り切ってから、ノエルが振り返った。


「また来れるといいな」


 川に向けて言った。誰への言葉でもなかった。


 心が、わずかに温かくなった。


 川の水霊が聞いていたかどうかは、わからない。でも、何かが届いた気がした。


     * * *


 午後、次の村に入る前に、ノエルが立ち止まった。


 街道の脇に、依頼の立て札があった。村の入り口に立てる小さな木の板で、手書きで内容が書いてある。


「読んでいいですか」


 アルドは頷いた。


「えっと……『冬の間、倉庫の火が安定しない。食料を保存するための火が弱くなったり強くなったりする。原因を調べてほしい』……」


 レイが言った。


「土と火の境界が乱れている可能性がある。倉庫の床か壁に、何か問題がある」


『やってみますか』


 ノエルはすぐに頷いた。


     * * *


 村はトルネといった。


 依頼主は四十代の男性で、名前をエダンといった。倉庫に案内されると、確かに中の火が落ち着かなかった。燃料は十分あるのに、炎が安定しない。強くなり、弱くなり、また強くなる。


 レイが倉庫の隅を見て言った。


「床の石が一枚、ずれている。去年の霜で動いたんだろう。土の精霊が落ち着かない場所になっている。石を戻せば解決する」


 レイが言うと、確かにその通りだった。


 アルドは工具を借りて、ずれた石を元の位置に戻した。詠唱の前に、物理的な原因を解決しておく方がいい。


 それから、ノエルが短い詠唱をした。土の精霊への呼びかけ——第Ⅱ節まで、静かに。第Ⅶ節まで行かない短い詠唱だった。でも土の精霊はきちんと応えた。


 炎が、安定した。


 エダンが目を丸くした。


「こんなに短くていいんですか」


「今日は、これで足りました」とノエルが言った。


 アルドは少しだけ、その答えを聞いて満足した。足りた、という言い方ができるようになった。


     * * *


 帰り道、エダンから干し芋をもらった。昨日の干し肉と合わせると、荷物が少し重くなった。


 街道を歩きながら、ノエルが言った。


「師匠、最近テノアの残高は、どのくらいですか」


 アルドはノートを取り出した。


『約六十五年です。しばらく加算がないので、変わっていません』


「加算がない、ということは減ってもいないですよね」


『減らすには、以前の加算分を上回るほどの——神霊への讃美が必要なんだと思います。大きな詠唱で、完璧な讃美ができれば、神々が代償を免除してくれることがあります』


「じゃあ、最近の詠唱は……」


『加算もないが、減算もない。据え置きです』


 ノエルはそれを聞いて、少し黙った。


「じゃあ、増やさないようにするには、やっぱり第Ⅶ節を完璧に名乗るしかないんですね」


『それが一番確実な方法です。神霊が感動するほどの讃美を積み重ねれば——長期的には減っていきます。ただ、時間がかかります』


「わかりました」


 ノエルは頷いた。それから、空を見上げた。雪雲の隙間から、薄い光が差していた。


「急ぎます。でも、焦りません」


 一行で言い切った。


 アルドはペンを持ったまま、しばらく何も書かなかった。


 書く必要がなかった。それで十分だった。


     * * *


 夕方、宿に入る前にレイが言った。


「若造」


 アルドは振り向いた。


「ノエルが今日、川の水霊に声をかけなかった。気づいたか」


『気づいていました』


「あれが、今のノエルだ」


 それだけ言って、レイは宿の屋根に飛び上がった。


 アルドは宿の扉を見た。中でノエルがすでに暖炉のそばに座っているのが、窓越しに見えた。振り返りノートを出している。


 今日も書くのか、と思った。


 毎日書いている。旅に出てからずっと、一度も欠かさずに。最初は長かったが、最近は短くなった。長さよりも、何を書くかを考えるようになったのかもしれない。


 扉を開けた。


     * * *


 夜、アルドは私的ノートを開いた。


 今日の出来事を記した。橋の川。倉庫の石。二つの短い詠唱。


 それから、一行空けて書いた。


【残高は変わらない。でも——今日のノエルを見ていると、残高が問題でなくなる日が来る気がする。数字の話ではなく。彼女が詠唱するたびに、何かが積み重なっていく。それは残高とは別の勘定だ】


 ペンを置いて、しばらく天井を見た。


 隣の部屋から、ノエルの筆の音が聞こえた。今日は昨日より少し長かった。


 何を書いているのか、聞いたことはない。聞かない、と決めているわけでもないが、聞かなくていい気がしている。


 ノエルが書くものは、ノエルのものだ。


 そう思いながら、アルドは自分のノートを閉じた。


     * * *


「急ぎます。でも、焦りません」

―― ノエル・ブライトガーデン、冬の街道にて

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