第38話 冬の依頼
冬の街道は、音が少ない。
雪が地面を覆うと、足音が吸われる。風も、葉も、虫も消えている。アルドは昔、その静けさが好きだった。声を失ってからは、静けさの種類が変わった気がした。
今は、ノエルの足音がある。
昨日より上手くなった雪の歩き方で、ノエルが前を歩いている。たまに立ち止まって、空を見上げたり、街道の脇に咲いていない花の跡を確かめたりしてから、また歩き始める。
急がない旅だ。
レイが頭上を滑るように飛んでいた。
* * *
昼前に、村の手前で子どもに声をかけられた。
十歳前後の男の子で、分厚い外套を着て、顔だけ出していた。雪の中を走ってきた、と見えた。息が上がっていた。
「詠唱士さんですか」
ノエルが答えた。
「そうです。何かありましたか」
「お母さんが、火の精霊に怒られてるんです」
怒られている、という表現が正確かどうかは別として、アルドはノートを開いた。
『話を聞かせてください』
* * *
村はエルゲと言った。
二十戸ほどの小さな集落で、街道から少し外れた丘の裏にあった。
男の子——マティアスと名乗った——に案内されて、村の端の家に入った。
居間に入ると、暖炉の前に母親が座っていた。三十代ほどの女性で、顔が青かった。手に包帯が巻いてあった。
「詠唱士さんを連れてきたよ」
マティアスが言うと、母親がゆっくり顔をあげた。
「すみません、わざわざ……」
『何があったか、聞かせてもらえますか』
アルドが書いて差し出すと、母親は少し目を丸くして、それからノエルを見た。
「師匠は声が出ないので、筆談です。ちゃんと聞いています」
ノエルが補足すると、母親は小さく頷いた。
「三日前から、暖炉の火がおかしくて。普通に薪をくべても、突然大きく燃え上がって……昨日、それで少し火傷をしました」
右手の包帯を、左手でそっと押さえた。
『暖炉の近くで何か変わったことはありましたか。新しいものを置いたとか、誰かが触ったとか』
「それが……三日前に、子どもたちが暖炉の前でものを燃やしていて」
横でマティアスが縮こまった。
「葉っぱとか、木の枝とか。その中に——古い、お守りみたいなものが入っていたらしくて」
レイが、窓枠の外からのぞいていた。
「古い木製のもの?」とレイが静かに言った。「鳥の形をしていたか」
母親が驚いた顔でレイを見て、それから頷いた。
「……祖母から引き継いだものだったんですが、子どもが間違えて」
「火の精霊の依り代だ」とレイが言った。「燃やされて怒っている。依り代を失った精霊が暖炉に居座っている——追い出す必要はない。落ち着かせればいい」
アルドはノエルを見た。
ノエルはすでに革張りのノートを開いていた。
* * *
暖炉の前に立って、ノエルはしばらく目を閉じた。
アルドは少し離れた場所に立った。暖炉の中の気配を探る。
普通の火ではなかった。熱の奥に、別の何かがあった。イグニスの眷属——とまでは言えない、もっと小さな存在。でも確かに意思のある熱だった。怒り、というより、困惑に近かった。依り代を失って、行き場を失っている。
ノエルが目を開けた。
「……怒ってる、じゃないんですね」
声に出した独り言だったが、アルドにはわかった。ノエルも感じていた。
「行き場がなくて、困ってるんだと思います」
ノエルはノートを一度見て、それからノートをそっと閉じた。
詠唱を始めた。
* * *
第Ⅰ節は短かった。
火の精霊への呼びかけではなく、暖炉そのものへの——この場所の歴史への言葉だった。この家で何が燃やされてきたか。薪が、食事が、冬の夜が、ここで燃えてきたか。
アルドは枷の変化を感じた。
暖炉の熱が、少しだけ変わった。落ち着いたわけではない。でも——聞いている、という感触があった。
第Ⅱ節。第Ⅲ節。
ノエルの声が、室内の空気に溶けていった。マティアスが母親の袖を握っていた。母親は目を閉じて、何かを思い出すような顔をしていた。
第Ⅳ節で、ノエルが即興を入れた。
「——失ったものは、もう戻らない。でも、ここにいたことは、消えない。炎よ、あなたがここにいたことは、この家の人たちが覚えている」
暖炉からあたたかな気配が広がってきた。
暖炉の炎が、一度大きく揺れた。そして——静かになった。
いつもの、普通の火になった。
* * *
第Ⅴ節に入ったところで、ノエルは詠唱を止めた。
第Ⅶ節まで行かなかった。止める判断は正しかった。精霊はもう落ち着いていた。
アルドはノートを開いた。
『よかったです。止めどころが正確でした』
ノエルは少し照れた顔をした。
「精霊が落ち着いたので。続けるより、ここで終わる方が良さそうだったので」
『そうです。その判断は正しい』
母親が深く頭を下げた。マティアスも一緒に頭を下げた。
「お守りのこと、私もちゃんと話しておかなかったので……」
「大丈夫です。精霊は、怒ってたわけじゃないので」とノエルが言った。「ただ、困ってただけなので」
マティアスが顔をあげた。目が赤かった。
「ごめんなさい」と小声で言った。
「精霊はもう落ち着いてるから、大丈夫ですよ」
ノエルがそう言うと、マティアスはもう一度深く頭を下げた。
* * *
村を出る前に、母親から干し肉と、焼いたばかりのパンを持たされた。断る間もなかった。
街道に戻って歩き始めると、レイが言った。
「今日は第Ⅴ節で止めたな」
「はい。もう落ち着いてたので」
「正解だ」
珍しく、すぐにそう言った。
アルドはノートを開いた。
『今日は詠唱の判断が良かったです。必要な分だけ、過不足なく』
「ありがとうございます。なんか……精霊の気持ちが、少しわかった気がして」
『それが詠唱です』
ノエルはしばらく黙って歩いた。それから、空を見上げた。
「師匠は、今日の精霊の温度、どうでしたか」
『怒り、ではなかったです。行き場を失った困惑、に近かったです。貴女が感じたのと、同じだと思います』
「やっぱり」
ノエルが小さく笑った。嬉しそうだった。
アルドは、その横顔を見た。
詠唱を止める判断。精霊の感情を読む判断。どちらも、正しかった。どちらも、教えたことではなかった。
今日感じた温かさは、何と呼ぶかはまだわからない。でも、確かにある。
『今日のパン、美味しそうですね』
唐突な筆談だった。ノエルが笑った。
「食べますか?」
『歩きながらでいいなら』
「食べながら歩くの、好きですよ師匠」
レイが「品がない」と言った。アルドは気にしなかった。
* * *
夜、宿の部屋で、ノエルが振り返りノートを書いていた。
アルドは自分のノートを開いた。報告書ではなく、私的なノートの方を。
今日の出来事を記した。精霊の種類、依り代の消失、詠唱の構成。事実を並べてから、ペンを止めた。
もう少し書いた。
『第Ⅴ節で止めた。正しかった。精霊の状態を読み、必要な言葉を選び、過不足なく終えた。それは技術ではなく、感性だ。教えられない種類のことを、今日また一つ、彼女がやった』
一行空けて、もう少し書いた。
『テノアの残高:約65年。今日も変わらず。でも——今日の詠唱の分だけ、何かが縮んだ気がする。残高とは別の何かが』
ペンを置いた。
隣の部屋からノエルの筆の音が聞こえた。今日はいつもより短かった。
それでいい、とアルドは思った。書けないことがある日もある。書かなくていい夜もある。
今日は、良い一日だった。
* * *
「詠唱を止める判断も、詠唱を続ける判断も、同じ場所から来る。
精霊の声を聞く、ということだ」
―― アルド、私的ノートより




