第37話 雪の初日
朝、宿の窓を開けたノエルが声をあげた。
叫び声ではなかった。そういう種類の音だ——言葉になる前に口から出てしまった、純粋な驚きの音。
アルドはノートから目をあげた。
ノエルは窓枠に両手をついて外を見ていた。白い息が薄く漂って空に消えた。
その向こう、街道も屋根も畑の跡も、見渡す限り白く塗り替えられていた。
初雪だった。
「師匠、雪です」
声が弾んでいた。当たり前のことを告げているのに、まるで神霊への招命の詞のように、言葉に力があった。
『見えてますよ』
アルドはノートに書いてノエルに見せた。ノエルは一度こちらを向いて、それから笑って、また窓の外を見た。
「こんなに積もるんですね」
一晩でこれだけ積もるものですよ、と書きかけて、やめた。ノエルが初めて見るものを、言葉で埋めることはしない。
朝の挨拶の筆談を書く前に、アルドはもう一度窓の外を見た。
白い街道。まだ誰も歩いていない。踏み跡のない雪は、新しい一節のようだ、と思った。
* * *
支度を終えて宿を出ると、ノエルは第一歩で滑った。
アルドが腕を掴む前に、ノエルは自分で体勢を立て直した。ぎりぎりで踏みとどまって、肩越しに振り返った。
「……あぶなかったぁ」
『雪の上は、足の置き方が変わります。踵から着くのではなく、足裏全体で踏むように。歩幅を小さく』
ノエルは読んで、足元を見て、もう一歩踏み出した。今度は転ばなかった。
「こうですか」
『そうです。ゆっくり、重心を前に移してから』
二歩、三歩。ノエルの歩き方が少しずつ変わった。慣れるのが早い。いつもそうだ。
五歩目でまた滑った。
今度はアルドが間に合った。外套の袖を掴んで、ノエルの体を引き戻した。ノエルが「わっ」と声をあげて、アルドの腕につかまったまま数秒静止した。
「……ありがとうございます」
耳が赤かった。寒さのせいだけではないかもしれない、と思ったが、そういうことは書かない。
『慣れるまでは、気をつけてください』
「はい」
ノエルは素直に頷いた。その後、しばらく慎重な歩き方が続いた。
街道の端に、レイが止まっていた。低い石垣の上で、長い尾羽を垂らして、二人のやりとりを眺めていた。
「雪の歩き方を師匠に教わるとは思わなかっただろう」
『余計なことを言わなくていいです』
「事実を述べているだけだ」
ノエルがくすくす笑った。アルドはノートをしまった。
* * *
街道を一刻ほど歩いたところで、小さな村の手前に差し掛かった。
村の入り口に、老人が一人立っていた。屋根を見上げて、難しい顔をしていた。
視線を追うと、母屋の屋根に雪が厚く積もっていた。端から少しずつ、重さに耐えかねたように垂れ下がっている。
ノエルが老人に声をかけた。
「あの、雪下ろし、手伝いましょうか」
老人はノエルを見て、アルドを見て、レイを見た。それから空を見た。
「……頼めるかね」
詠唱ではない。魔術でもない。アルドは梯子を受け取り、軒先に立てかけた。ノエルが先に登ろうとするので、先に登って雪を払い、足場を作ってから、ノエルに合図した。
レイは石垣の上で「ボクには無理だ」と言って動かなかった。
三十分ほどで屋根は片付いた。老人が礼を言いながら、小屋から飲み物を持ってきた。
「冬の初日に飲むと、冬を乗り越えられると言い伝えがあってね」
椀の中は甘い、生姜の効いた液体だった。温かかった。
ノエルが二つ受け取って、一つをアルドに差し出した。言葉はなかった。ただ両手で差し出された椀を、アルドは受け取った。
一口飲んだ。
体の芯から温まった。枷も、少し温かかった。春の温度でも水霊の温度でもない——でも今日は、少しだけ、名前に近い気がした。
* * *
村を出て、また街道を歩き始めた。
ノエルは雪の歩き方に慣れてきていた。踏み跡のない場所を選んで踏んでいく。
「師匠」
アルドは歩きながら振り向いた。
「旅に出る前って、どんな場所にいた感じでしたか」
少し考えてから、ノートを開いた。
『主に学院に、いました。研究室が、居場所でした』
「今は?」
また考えた。今度は少し長かった。
『今は……旅が、居場所に近いかもしれません。貴女と、レイと、街道と、依頼と——それが今の居場所です』
ノエルが読んで、少し黙った。雪を踏む音だけがしばらく続いた。
「私もそうです。実家より、ここの方が——なんか、いる場所な感じがします」
言ってから、少し照れたように前を向いた。
アルドはノートをしまった。書くことは、なかった。書く必要が、なかった。
レイが二人の上を静かに飛んでいた。いつもより低く、ゆっくりと。
* * *
夕方、宿に入る前に、レイがアルドの肩に止まった。
ノエルはすでに先に入っていた。扉の向こうで、暖炉の前に座っているのが窓越しに見えた。
「若造」
レイは低い声で言った。
「今、お前の心はあたたかくなったか」
アルドはしばらく黙った。
だが気持ちを確認するまでもなかった。今日ずっと、椀を取ったあの瞬間から、実は心の底が少しずつ温かくなっていた。名前のわからない温かさが、いつもより、少しはっきりしていた。
『……たぶん、そうですね』
「そうか」
レイはそれだけ言って、扉の向こうへ飛んでいった。
アルドは雪の積もった街道をもう一度見た。自分と、ノエルの踏み跡が並んで続いていた。
扉を開けた。
* * *
夜、ノエルは振り返りノートを書いていた。
暖炉の前で膝を抱えて、小さな紙に何かを書いていた。革張りのノートではなく、旅の途中で買った安い紙の束だ。振り返りノートはいつもそこに書く。
アルドはその隣で、月例の報告書に目を通していた。
しばらくして、ノエルが顔をあげた。
「師匠って、雪が好きですか」
『初めて見た時は、すごいと思いました。今は、移動が大変だと思います』
「それ、好きじゃないですよね」
『嫌いでもないです』
「どっちでもないんですね」
『貴女は、好きそうですね』
ノエルは少し考えてから、頷いた。
「好きです。踏んだ時の音が好きです。あと、昨日と景色が全部変わるのが好きです」
踏んだ時の音、とアルドは繰り返した。今日一日、その音を聞いていた。ノエルの足音と、自分の足音が、雪の上で交互に鳴っていた。
『明日も雪が残っているといいですね』
「はい」
ノエルはまた紙に何かを書き始めた。
アルドは報告書を閉じた。
雪の初日、老人が「冬を乗り越えられる」と言う飲み物をくれた。ノエルが私に渡してくれた。体が温まった。枷も、少し温かかった。
名前のわからない温かさが、今日は少しだけ、名前に近づいていた。
それでいい、と思った。まだ言葉にならなくていい。
* * *
「雪の初日、老人が『冬を乗り越えられる』と言う飲み物をくれた。
ノエルが私に渡してくれた。体が温まった。心も、少し温かかった」
―― アルド、私的ノートより




