第36話 冬の宿
北の山を下りて、街道に戻った。
冬になっていた。
はっきりと、冬だった。朝に薄い氷が張るようになった。街道の泥が固まって、歩きやすくなった反面、転ぶと痛かった。
ノエルが二度転んだ。
一度目は「大丈夫です!」と言って立ち上がった。二度目は「……大丈夫です」と言って立ち上がった。声に元気がなかった。
アルドが手を差し出した。
ノエルが受け取った。立ち上がってから、手を離した。
それだけだった。
でも——その後、しばらくノエルの歩く速度が上がっていた。
* * *
昼前に、宿場町についた。
大きな暖炉のある宿だった。扉を開けた瞬間に、温かい空気が来た。ノエルが「あったかい……」と言った。アルドも、少し肩の力が抜けた。
女将が「寒い中お疲れ様です」と言って、熱いスープをすぐに出してくれた。
ノエルがスープを両手で持って、ゆっくり飲んだ。
「……おいしい」
『そうですね』
「師匠も飲んでください、早く」
『飲んでいます』
「師匠って、いつも食べるの遅いですよね」
『そうですか』
「そうなんです。いつも私が食べ終わっても、まだ食べてます」
『ゆっくり食べる習慣なんです』
「私が早すぎるのかもしれませんけど」
『両方だと思います』
ノエルが「正直ですね」と言った。
レイが窓枠から「若造は食事中も筆談をやめない」と言った。
『食事中に会話するのは普通です』
「筆談だけど」とノエルが言った。
『筆談も会話です』
ノエルが「そうですね」と言って、スープをもう一口飲んだ。
* * *
午後、ノエルは練習をした。
宿の一室を借りて、一人で。
アルドは別の部屋で、報告書を書いていた。
フォルクへの月例報告書だった。今月の依頼記録、神霊との接触事例、詠唱の変化——書くことは多かった。
特に今月は。
アルドはペンを走らせた。
『詠唱士の声が、神界の底まで届いた事例が確認された。これは今まで観測された中で最高水準の共鳴度である。詳細は別紙に記す』
書いて、少し考えた。
フォルクが読んだら、どう思うだろうか。
驚くかもしれない。学院に報告するかもしれない。副院長の耳に入るかもしれない。
でも——書かないわけにはいかなかった。これは事実だった。フォルクとの約束だった。
アルドは別紙を取り出して、詳細を書き始めた。
* * *
夕方、ノエルが練習から戻ってきた。
「師匠、今日の練習、聞いてもらえますか」
アルドが頷いた。
ノエルが革張りのノートを開いた。深呼吸した。
第一節から始めた。
宿の部屋の中で、声が響いた。
いつもと違う場所だった。でも——声は変わらなかった。むしろ、部屋の壁に反響して、より豊かに聞こえた。
第Ⅵ節——
心の底がまた温かくなる。セレスの気配が、部屋の空気を通じて届く。狭い部屋の中に、春の日差しのような温かさが満ちた。
第Ⅶ節。
「——精霊の御慈悲に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
今日も、リトシステムは反応しなかった。
部屋が、静かになった。
ノエルが目を開けた。
「どうでしたか」
アルドは少し止まってから書いた。
『よかったです。部屋の中でも変わりませんでした』
「師匠は、気配を感じましたか?」
「ええ。ちゃんと感じましたよ。セレスの気配が』
「部屋の中でも来るんですね」
『どこでも来ますよ。貴女の声が届く場所なら』
ノエルが少し笑った。
「……そっか」
それから、少し真剣な顔になった。
「師匠、一つ聞いていいですか」
アルドは頷く。
「グランド・アリアって——私に、できると思いますか」
アルドは少し止まった。
グランド・アリア。万象浄化の叙事詩。一般の魔術師なら、一生に一度くらいは経験する大規模詠唱だ。ただ、現代では、その効果の範囲や規模が古代の詠唱とは異なるかもという説がある。
アルドはゆっくりと書いた。
『できると思います。でも——今すぐではなく、もう少し時間が必要だと思います』
「どのくらいですか」
『わかりません。でも——今日の貴方の詠唱を聞いて、近づいていると思いました』
「近づいてる」
『はい。間違いなく』
ノエルがノートを胸に抱えた。
「……頑張ります」
『頑張りなさい】
「師匠も、無理しないでくださいね】
『私は、平気ですよ』
「声がでないのは、つらいですか】
『もう、慣れました』
「でも……」
【慣れました。貴方は気にせず、いつもの貴方でいてください。お願いします】
「……わかりました】
『大丈夫。声はなんとかなりますから』
ノエルが「……ごめんなさい」と言った。
『謝らなくていいです。貴女の声を聞けています。それで十分です』
「十分じゃないです」
『十分なんです。私はそれで』
「…………」
しばらく、二人は黙って向き合った。
それからノエルが「じゃあ、明日の分まで今日頑張ります」と言った。
『それは逆効果です』
「わかってます」ノエルが笑った。「冗談です」
暖炉の火が、部屋を温めていた。
窓の外に、冬の夜が来ていた。
* * *
「グランド・アリアができると思いますか、と彼女は聞いた。
できると思う、と書いた。
嘘ではなかった。
——むしろ、確信に近かった」
―― アルド、筆談ノートより




