第33話 詠唱が変わった日
残高を知ってから、五日が経った。
その間に、依頼が二つあった。
一つは川沿いの村での水路の詠唱。もう一つは山の麓の集落での霜よけの祈祷。どちらも第Ⅶ節を噛まなかった。でも——アルドは、何かが違うと感じていた。
うまく言葉にできなかった。技術は同じだった。精霊の反応も悪くなかった。でも、何かが——変わっていた。
その違和感の正体が、三つ目の依頼の時にわかった。
* * *
村の名前はイメルといった。
老人が多い村だった。若い者が街に出て行って、残った人たちが農業を続けていた。依頼は精霊への感謝の詠唱——特別なことは何もない、秋の終わりの慣例行事だった。
ノエルが村の広場に立った。
村人が集まった。二十人ほど。老人ばかりだった。
アルドは端に立って、枷の感触を確かめた。
精霊たちの気配は普通だった。特に期待しているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。穏やかな、いつもの秋の気配。
詠唱が始まった。
第Ⅰ節——
アルドは、すぐに気づいた。
声が、違った。
技術ではなかった。音程でも、発音でも、速度でもなかった。もっと根本的なところが——変わっていた。
重さ、とでも言うべきものが、あった。
今まで、ノエルの詠唱は「声が溢れ出す」感じだった。感情が先走って、言葉が追いかけていくような。それがノエルの詠唱の特性で、神霊が喜ぶ理由だった。
でも今日の詠唱は——溢れ出すだけでなく、何かを背負っていた。
六十五年という数字を、背負っていた。
第Ⅱ節、第Ⅲ節——
精霊たちが、動いた。いつもより、早かった。第Ⅲ節でもうそばに集まって来ていた。
第Ⅳ節——
セレスの気配が感じられた。でも今日の気配は——いつもの春のようなあたたかなイメージより、少し違った。深い。落ち着いた存在感だった。「聞いている」ではなく、「受け取っている」に近い気配のイメージ。
アルドはその動向を注視していた。
『何が起きている——』
第Ⅴ節、第Ⅵ節——
第Ⅵ節の讃美が終わった時、何かが変わった。
精霊たちが、静かになった。
静かになった、というのは反応がなくなったのではなかった。逆だった——じっと聞いていた。息を呑むような、静寂があった。
『これは——』
第Ⅶ節。
「——精霊の御慈悲に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
リトシステムは反応せず。
でも——何かが来た。
何かが告げた。いや言葉ではなかった。でも——「聞いた」に近い何かだった。精霊ではなく、もっと上から来た感触だった。
アルドは動けなかった。
詠唱が終わった。
村人たちが、しばらく動かなかった。老人の一人が、静かに泣いていた。
* * *
依頼を終えて、村を出た後。
街道を少し歩いたところで、アルドがノートを取り出した。
ノエルに向けて書いた。
『今日の詠唱——何か、意識したことがありましたか』
「意識したこと……」ノエルが少し考えた。「師匠のために詠もうと思ったら、なんか違う気がして」
『違う?』
「なんか、そうじゃないって。師匠のために詠むんじゃなくて——師匠が最前列にいる場所で、私が詠む、って感じの方が、しっくりきて」
アルドは止まった。
「わかりますか、この違い」
アルドはしばらく考えた。それから書いた。
『わかります。とても、わかります』
「それで詠んだら——なんか、前より、広い感じがして。声が広がる場所が、広くなった気がして】
レイが言った。
「そうだ。今日の詠唱——神界まで届いた」
ノエルが「え」と言った。
「今まではこの大陸の端まで届いていた。今日は——神界の底まで届いた。初めてだ」
「神界の底まで」
「ボクが百年待っていた声が、今日、本当の意味で届いた」
静かな街道に、秋の風が吹いた。
ノエルがしばらく黙っていた。
「……師匠が最前列にいる場所で詠んだら、そうなったんですか」
「そうだ」
「……」
ノエルがアルドを見た。
「師匠、今日の枷——何か届きましたか」
アルドは少し止まった。それから書いた。
『ええ届いたと思います。言葉ではなかったけれど——「聞いた」に近い何かが、上から来ました』
「上から、って」
『神霊より、上の方から。何かは、わかりません』
レイが静かに言った。「それについては、今は言わない」
ノエルが「なんで」と言った。
「今日は、今日のことだけで十分だ」
ノエルがレイを見た。それから、また前を向いた。
「……そっか」
しばらく黙って歩いた。
それからノエルが言った。
「師匠」
アルドはノエルを見た。
「私、ちゃんと詠います。ずっと、ちゃんと詠います」
アルドは歩きながら書いた。
『わかっています。今日、またわかりました】
* * *
「神界の底まで届いた——とレイは言った。
枷の中で感じた、上からの『聞いた』という感触。
あれが何だったのか、レイは今日は言わなかった。
でも——悪いものではなかった。
それだけは、確かだった」
―― アルド、筆談ノートより




