第32話 変わったこと、変わらないこと
翌朝、ノエルは早起きした。
いつもより一時間早かった。宿の窓から空を見ていた。
まだ暗かった。少しずつ、東の空が白んでいくのを見ていた。
昨日のことを、頭の中で整理していた。
六十五年。
三十二歳のアルドが、九十七歳になるまで声が出ない。
頭ではわかった。昨日もわかっていた。
でも朝になって、また改めてその重さがわかってきた。
わかるたびに、胸のどこかがぎゅっとなった。
ノエルは振り返りノートを開いた。
「昨日、残高を知った。六十五年。師匠は三十二歳。私は絶対に完済する。それは変わらない。でも——知ってしまったから、何かが変わった気がする。何が変わったのか、まだわからない」
書いて、ペンを止めた。
それから、もう一行書いた。
「師匠が『最前列で聞きたかったから』と言った。私は『受け取ってください』と言った。師匠が受け取ってくれた。それはよかった。でも——私も何かを受け取った気がする。何を受け取ったのか、まだわからない」
* * *
朝食の時、アルドがいつもより先にノートを開いた。
『おはようございます、ノエル。よく眠れましたか』
ノエルが少し目を丸くした。
「師匠が先に朝の挨拶してくれた」
『しています。いつも』
「いつもは私が先ですよ」
『今日は先にしました』
ノエルが「なんでですか」と聞いた。
アルドは少し止まってから書いた。
『昨日のことがあったので——貴女の顔を、先に見たかったです』
ノエルが、じっとアルドを見た。
それから、「ありがとうございます」と言った。声が、少し揺れていた。
『よく眠れましたか』
「……眠れました。少し早く起きましたけど」
『私もです』
「師匠も早起きしてたんですか」
『習慣です。でも今日は——少し別の理由もありました』
「別の理由」
『貴女が起きてくるのを、待っていました』
ノエルが、また黙った。
それから、パンを一口食べた。
「……師匠って、そういうこと言うんですね」
『そういうこと、とは』
「なんか、ストレートな」
『事実を書いただけです』
「それがストレートなんです」
アルドは何も書かなかった。
レイが窓枠から「若造、顔が赤いぞ」と言った。アルドが『赤くありません』と書いた。レイが「赤い」と言った。ノエルが笑った。
* * *
宿を出て、街道を歩き始めた。
ノエルが歩きながら言った。
「師匠」
アルドが頷く。
「私が残高を知って——何か、変わりましたか。私との関係で」
アルドは歩きながら考えた。しばらくして書いた。
『変わっていません。変わる必要がないので』
「私は、少し変わった気がします」
『どう変わりましたか』
「……まだわからないです。でも、何かが変わった」
アルドは頷いた。
『それでいいと思います。変わったことに気づいているなら、そのうちわかります』
「師匠って、そういう時、焦らないですよね」
『焦っても変わらないので』
「それが羨ましいです、私は」
『貴女が焦るのも、よくわかります』
「六十五年って言葉が、頭に張り付いてて」
『それは、しばらく続くと思います。でも——』
アルドが少し間を置いて書いた。
『その数字は、変わります。貴女が詠唱するたびに、少しずつ変わっていく。昨日よりも今日が短くなる。今日よりも明日が短くなる。そういう数字です』
ノエルがその筆談を読んだ。
「……変わっていく数字、か……」
『なので、今の数字を気に病むことはありません』
「じゃあ、今日も詠唱します」
『それでいいのです』
「焦らずに」
『わかっています』
「そして、思いが届くように】
『それでいい】
ノエルが笑った。少し泣きそうな笑い方だったが、笑っていた。
* * *
昼前に、小さな依頼があった。
道端で困っている老夫婦がいた。荷車の車輪が外れていた。魔術とは関係なかったが、ノエルが「直しましょう」と言って、三人がかりで車輪を直した。アルドが工具を持ち、ノエルが支え、レイが「そこを押せ」と指示した。
十分ほどで直った。
老夫婦が「ありがとうございます」と言った。ノエルが「どういたしまして」と言った。
歩き出して、ノエルが「今日の依頼、終わりました」と言った。
『魔術の詠唱ではありませんでしたけど』
「でも誰かの役に立ちました」
『そうですね』
「それでいいです」
アルドは歩きながら、誰にも見せないページに書いた。
『変わったこと——彼女が「それでいい」と言う時の声が、少し変わった。昨日より、一段落ち着いた。残高を知った翌日の声だ』
『変わらないこと——彼女は今日も、誰かの役に立とうとした。それは、最初の日から変わっていない』
* * *
「変わったことと、変わらないことがある。
変わったことは、時間が整理する。
変わらないことは、ずっとそこにある。
彼女の中の変わらないものを、
私はずっと見てきた」
―― アルド、筆談ノートより




