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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第31話 六十五年という重さ

 しばらく、誰も何も言わなかった。


 街道の風が吹いた。葉が舞った。遠くで鳥が鳴いた。


 ノエルは膝を抱えたまま、地面を見ていた。


 アルドはノートを持ったまま、ペンを置けなかった。


 レイは、静かにそこにいた。


 やがて、ノエルが顔を上げた。


 泣いていなかった。目が赤くなっていたが、泣いていなかった。


「……聞いていいですか」


 覚悟を決めて、アルドは頷いた。


「六十五年って——師匠が今、何歳かにもよりますよね」


 アルドは少し止まった。それから書いた。


『三十二歳です』


「……三十二歳で、六十五年分のテノアの残高があったら」


『九十七歳になるまで、という計算です』


 ノエルが、その数字をしばらく見た。


「……九十七歳まで、声が出ないんですか」


『いずれ完済すれば、声は戻ります。完済しなければ——そうなります』


「完済するには、どうすればいいんですか」


『貴女が、詠唱ミスなく最後まで詠唱できるようになること。それで契約は終了します』


 それには嘘が含まれていた。でも、アルドはそれを告げるつもりがなかった。

 ノエルが膝から手を離した。地面に両手をついた。


「……なんで、そんな契約をしたんですか」


 アルドはペンを持ったまま、少し止まった。


 答えは知っていた。何度も書いてきた言葉だった。


 でも今、この場で、ノエルに向かって書く言葉は——少し違う気がした。


 ゆっくりと書いた。


『貴女の詠唱を、最前列で聞きたかったからです』


「……それだけですか」


『それだけです』


「六十五年分の代償を払ってまで」


【それだけです】


 ノエルがアルドを見た。


 アルドはノートから目を上げて、ノエルを見た。


 しばらく、二人は黙って向き合った。


 それからノエルが、視線を地面に戻した。


「……ずるい」


 小さな声だった。


「ずるいですよ、師匠。そんなこと言われたら」


 アルドは何も書かなかった。


「私、知らなかった。ずっと知らなかった。噛むたびに、師匠の声をそんなに長い間奪う代償が積み重なっていたなんて。代償を肩代わりしてもらっていると、頭ではわかってたけど——六十五年って、そんなに長いなんて、わかってなかった」


『あなたが、気にする必要はありません』


「あります」ノエルの声が、少し強くなった。「ありますよ。気にします。私のことなんだから」


 アルドはペンを止めた。


「師匠にとっては『最前列で聞くための代償』かもしれないけど——私にとっては、師匠の六十五年なんです。九十七歳まで声が出ないかもしれない、師匠の時間なんです」


 風が、また吹いた。


 ノエルが立ち上がった。


 涙が、一粒、頬を伝った。拭わなかった。


「……絶対に完済します。絶対に」


 アルドは立ったままのノエルを見上げた。


「前にも言いましたけど、今日もう一回言います。絶対に、師匠の声を返します」


 アルドは、しばらく何も書かなかった。


 それから、ゆっくりと書いた。


『わかっています』


「そうじゃなくて」ノエルが言った。「ちゃんと私の言葉を受け取ってください」


 また少し間があった。


『……受け取りました』


 ノエルが、また涙を一粒流した。今度も拭わなかった。


 それから、深呼吸をした。


「……レイさん」


「なんだ」


「わざと言いましたか」


 レイが少し間を置いた。


「わからない」


「わからない、って」


「ボクにもわからない。言うべき時だと思ったのか、ただ言ったのか——自分でも判断がつかない」


 ノエルが「そういうこともあるんですね」と言った。


「ある」


 ノエルが涙を、今度は袖で拭った。それから、鞄を持ち直した。


「行きましょう」


 アルドが立ち上がった。


 レイが飛び上がった。


 二人と一羽は、また街道を歩き始めた。


     * * *


 しばらく、黙って歩いた。


 ノエルが前を向いたまま言った。


「師匠」


 アルドが頷く。


「さっき言った、最前列で聞きたかった、って――」と、アルドの顔を見つめ、「……今も、そう思ってますか」


 アルドは歩きながら書いた。


『今も、そう思っています』


 ノエルが少しの間、その返答を噛みしめてから、告げた。


「……私も、師匠に最前列にいてほしいです」


 アルドは、何も書かなかった。


 街道の先に、秋の光が伸びていた。


     * * *


「六十五年、と彼女は繰り返した。

 私には大した数字ではなかった——

 と言えば嘘になる。

 でも、彼女の声を聞けるなら、

 それでいいと思っていたのは本当だ」


―― アルド、筆談ノートより

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