第30話 代償の残高
翌朝、ヴァルナの宿で目が覚めた。
ノエルはいつもより少し遅く起きた。昨夜、マルクのことをずっと考えていたせいかもしれなかった。
食堂に降りると、アルドがすでに茶を飲んでいた。ノートを開いて、何かを書いていた。
「おはようございます、師匠」
アルドがノートを開いた。
『おはようございます、ノエル』
「昨日のこと、考えてましたか」
アルドはその問いに静かに頷いた。
「私も」ノエルが席についた。「マルクさんって、変わりましたね」
『そう思いますか』
「なんか——前に会った時より、目が複雑になってた気がして。ハルベルトで会った時は、もっとこう……整ってた感じがしたんですよ。今は、何かを抱えてる感じで」
アルドは茶を一口飲んだ。それから書いた。
『答えを探している人間の目だと思います』
「答えを探してる」
『正しい詠唱と届く詠唱の違い——昨日、マルクさんが言っていたことです。それをまだ探している』
「師匠は、その答えを持ってますか」
アルドはしばらく止まった。
『持っています。でも——答えは人によって違うので、私の答えをマルクさんに渡しても意味がない』
「マルクさんが自分で見つけないといけない」
『そうだと思います』
ノエルがパンをちぎりながら考えた。
「師匠の答えって、何ですか」
アルドが少し考えて、確認の問いを書く。
『……聞きたいですか』
逡巡なく、答えが返ってくる。
「聞きたいです」
また少し間があった。アルドがゆっくりと書いた。
『届く詠唱は、伝えたいことがある人間が詠んだ時に生まれます。正しい詠唱は、技術の話です。両方あれば最強ですが——どちらか一つなら、届く詠唱の方が神霊は動く』
「それって——私が噛まなくなってきたのと、関係ありますか」
『関係あります。貴女は「伝えたいこと」を持って詠唱するようになった。だから届くようになった』
ノエルがしばらくその筆談を読んだ。
「……師匠って、最初からそれを知ってたんですね」
【知っていました】
「なんで最初から言ってくれなかったんですか。また――」
『言葉で教えられることではないと——』
「知ってます、その答え」ノエルが笑った。「師匠ってそればっかり」
『そればっかり、ではありません。事実です』
そこで会話が途切れ、しばし無言の時間が流れた。
* * *
宿を出て、街道に戻った。
秋の日差しが、街道を金色に染めていた。木の葉が舞って、足元に積もっていた。
しばらく歩いて、ノエルが言った。
「師匠」
アルドが頷く。
「副院長って、怖い人ですか?」
アルドは少し考えた。
『怖い人、というより——信念の強い人です。現在の魔術体系が正しいと本気で信じている。だからそれを乱す存在を、危険とみなす』
「私が危険、ということですか」
『貴女が危険なのではありません。貴女の存在、詠唱の言の葉が、現在の魔術体系に疑問を持たせる——それが危険、ということです』
「なんかそれって、おかしいですよね」
『そう思います』
「本当に良いものが、いまのルールに合わないからって危険扱いされるって」
アルドは歩きながら書いた。
『三年前、学院がそうしました。計測器が七倍の数値を出した学生に、「再現性がない」と記録した』
ノエルが「……そうですね」と言った。少し複雑な顔をした。
「でも——師匠が来てくれたから、よかったです」
アルドは何も書かなかった。
ノエルが前を向いて歩きながら続けた。
「もし師匠が来てくれなかったら、私、どうしてたんだろう。また別の師匠を探したかな。でも、あの踊り場で泣いてた時、師匠が来てくれなかったら——なんか、想像できないですね」
『私も想像できません』
「それって、どういう意味ですか」
アルドはしばらく歩いた。それから書いた。
『あの踊り場に行かなかった可能性が、想像できない、という意味です』
ノエルが「……そっか」と言った。革表紙の分厚い振り返りノートを両手で大事そうに抱えて。
それ以上は何も言わなかった。
でも——歩く速度が、少し上がった気がした。
* * *
昼前に、休憩のために道端に腰を下ろした。
レイが降りてきて、アルドの隣に止まった。
「若造」
アルドはレイの方に視線を移し、頷く。
「テノア残高が、そろそろ六十五年くらいになるな」
アルドがペンを止めた。
ノエルが、水筒を鞄から取り出そうとして——止まった。
「……六十五年、って何ですか」
静かな街道に、風が吹いた。
葉が、一枚舞った。
アルドはレイを見た。レイは街道の先を見ていた。
「……師匠」
ノエルの声が、少し低くなっていた。
「六十五年って、何ですか」
アルドはノートを開いた。
ペンを持った。
書こうとして——止まった。
また書こうとして——また書けなかった。
レイが静かに言った。「リトシステムの判定で受けた、テノアの残高だ」
「リトシステムの……」ノエルが繰り返した。「六十五年分の、テノアの残高――」
アルドはノートを持ったまま、動かなかった。
「……それって」
ノエルの声が、変わった。
「……師匠が、私の代わりに代償を負ってるやつですよね」
『……はい』
「それが、六十五年」
返事が、できなかった。
ノエルが水筒を鞄に戻した。それから、両膝を抱えて、しばらく黙った。
アルドは、何も書けなかった。書くべき言葉が、出てこなかった。
レイが、静かにそこにいた。
* * *
「レイが言った。
止めようとして、間に合わなかった。
——本当に、間に合わなかったのか。
それは、今でもわからない」
―― アルド、筆談ノートより




