第26話 振り返りノートの話
オルタ村を出て、また街道が続いた。
秋が近かった。
朝の空気が、少し前と違った。冷たい、とまではいかないが、夏の厚みがなくなっていた。街道の両脇の木々が、端の方から少しずつ色を変え始めていた。
ノエルが歩きながら言った。
「秋になってきましたね」
『そうですね。旅に出てから、季節が一つ変わりました』
「早いですね。もうそんなになりますか」
『三ヶ月ほどです』
「三ヶ月……」ノエルはその言葉を噛みしめた。「結構いろんなところに行きましたね」
『振り返りノートに書いてあるはずですよ』
「そうだ、書いてましたね」
ノエルが鞄を漁って振り返りノートを取り出した。歩きながらではなく、立ち止まってページをめくった。アルドもその場で立ち止まる。
* * *
ノエルがページをめくりながら読んだ。
「ハルベルトの水害治癒——これが最初ですね。ガデェンって噛んだ日」
『精霊が爆笑していました』
「覚えてますよもう。カルヴァで風霊に会って、グレッセでヨルンさんに会って、リヴェナでソニアさんに会って——」
パラパラとページをめくりながら続けた。
「トレーナで井戸の古い鍵を引き上げて、泉で師匠がぼーっとして、廃屋で野宿して……」
『ぼーっとしていません』
「してましたよ」
『…………』
「認めましたよね前に」
『一度だけです』
「十分です」ノエルが笑った。
また少しめくった。
「ベルタで火の精霊と鍛冶師に会って、手紙が来て、種を植えて、オルタ村で夜の精霊を送り出して——」
ノエルがノートを閉じた。
「多いですね。三ヶ月でこんなに」
『毎日、何かありました』
「師匠も、振り返りノートみたいなの書いてますか」
アルドは少し考えた。
『私的なノートがあります。収支や記録を書いています』
「それって、私のこと書いてますか」
『書いています』
「どんなこと?」
アルドはしばらく歩いた。書くか書くまいか、少し迷った。それから書いた。
『旅で知ったことを、三つ書きました。一つ目は、イレイネ草のこと。二つ目は、泉の底の石のこと。三つ目は——ノエルは果物の種を植えながら旅をする、ということ』
ノエルがその筆談を読んで、少し黙った。
「……それ、全部私に関係することですね」
『そうですね』
「他には?」
『他には——悪くない、という言葉を七回以上書きました』
「七回以上って、まだ数えてないんですか」
『レイが数えています』
レイが上空から「今は九回だ」と言った。
ノエルが「九回!」と言った。
「旅に出てから七回。出る前に二回」レイが続けた。「ハルベルトの水害治癒の夜と、研究室でノエルの詠唱を初めて聞いた夜だ」
ノエルが立ち止まった。
「研究室で……私の詠唱を聞いた夜に、悪くないって書いたんですか?」
アルドも立ち止まった。
レイを見た。レイが「気流で知っている」と言った。
アルドはしばらく空を見た。それから書いた。
『……書いたかもしれません。記憶が確かではありませんが』
「でも書いたんですね」
『……そうかもしれません』
ノエルがアルドを見た。
それから、何も言わずに歩き始めた。
しばらく黙って歩いた後、前を向いたまま言った。
「......ありがとうございます、師匠」
『何がですか?』
「あの夜、会いに来てくれたこと」
アルドは何も書かなかった。
街道の風が、秋の気配を運んできた。
* * *
昼前に、小さな休憩所があった。
東屋と井戸だけの、旅人用の休憩所だった。先客が一人いた。若い男で、荷物を背負って、地図を広げていた。
ノエルが「こんにちは」と声をかけた。男が顔を上げた。
「詠唱士ですか」えんじのローブを見て言った。
「はい。旅の途中です」
「奇遇ですね、僕もです」男が笑った。「魔術師の卵で、まだ見習いなんですが。師匠と旅をしていて——ちょっと迷子になってしまって」
「迷子に?」
「お師匠とはぐれてしまって。この先の村で待っているはずなんですが、道が二股になっていて、どちらか迷っていて」
レイが肩から「左だ」と自信たっぷりに告げた。
男がびっくりして「鳥が喋った!」と言った。
「左の道を行けば、二十分で村に着く」レイが続けた。「右は遠回りだ」
男がアルドを見て、ノエルを見て、レイを見た。
「……ありがとうございます」と男はレイにお礼を言った。
そしてアルドをちらりと見てから、ノエルに尋ねた。
「魔術師と一緒に旅しているのかい?」男がノエルに聞いた。
「はい、お師匠と」
「師匠と弟子で旅をしているんですね。僕もそうです」男が少し嬉しそうに言った。「同じ境遇で旅をしている人に会うのは珍しいから、なんか——いいなと思って」
ノエルが「そうですね」と言った。「いいですよ、旅」
「お師匠さんは厳しいですか?」
「厳しくはないですけど——」ノエルが少し考えた。「寡黙です」
男がアルドを見た。アルドが無言で頷いた。
「……なるほど」男が苦笑した。「僕の師匠はうるさいくらい話すので、羨ましいような、羨ましくないような」
ノエルが笑った。
男は左の道を教えてもらったお礼に、干し肉を一切れ分けてくれた。それから「またどこかで」と言って歩いていった。
三人はしばらく東屋で休んだ。
ノエルが振り返りノートを開いた。
「師匠と弟子で旅をしている人に会った。僕の師匠はうるさいくらい話すと言っていた。師匠と私は逆だなと思った。でも——逆でよかったと思う。師匠が筆談だから、私が声で話す。師匠が静かだから、私が声を使う。そういうバランスかもしれない」
書いて、ペンを置いた。
アルドがそっとノートを覗き込んだ。読んだ。
何も書かなかった。
でも——唇の端が、わずかに動いた。
* * *
「振り返りノートに書いたことを聞かれた。
三つ答えた。
本当は四つ目がある。
でも——まだ言葉にできていない」
―― アルド、筆談ノートより




