第25話 種を植える日
手紙を受け取った翌日は、何もない一日だった。
街道が続いて、村が一つあって、また街道が続いた。
依頼板はあったが、ノエルが読んで「今日は違う気がします」と言った。
アルドが頷いた。レイが「気が向かない日もある」と言った。
本当に、何もない平和な一日だった。
昼前に、街道脇に小さな空き地があった。誰かが昔畑にしようとして、やめた跡のような土地だった。草が生えていたが、土が柔らかそうだった。
ノエルが立ち止まった。
鞄を開けて、布の包みを取り出した。
サルヴァ梨の種だった。
「ここが、いいかもしれません」
アルドが土を見た。確かに、日当たりがよかった。街道から少し入っているので、馬に踏まれる心配も少ない。
ノエルが屈んで、指で土に穴を開けた。種を一つ入れた。土をかぶせた。
「大きくなるといいな」
それだけ言って、立ち上がった。
アルドがノートを取り出した。
『何年後かに、誰かが食べるかもしれません』
「そうですね。私たちじゃないかもしれないけど」
『それでいいですか』
「はい。それでいいです。植えた人間が食べなくてもいい、と思って」
アルドはその言葉を受け取った。
植えた人間が食べなくてもいい。
何かに似ている気がした。すぐには言葉にできなかったが、確かに似ていた。
レイが上空から降りてきて、種を植えた場所の近くに止まった。
「水霊が一体、この土の下にいる」
「え? 本当ですか?」
「小さな地下水脈がある。この種、悪くない場所に植えたな」
ノエルが「よかった」と言った。
アルドは誰にも見せないページに書いた。
『植えた人間が食べなくてもいい——彼女はそう言った。私の声も、同じかもしれない。私が結果を受け取らなくても、ノエルの詠唱はどこかで誰かに届き続ける』
* * *
午後の街道を歩いていると、向こうから馬車が来た。
大きな馬車だった。荷台に荷物が積んであって、御者台に二人乗っていた。旅商人か、あるいは遠くの街への輸送かもしれなかった。
すれ違いざまに、御者台の男がノエルのえんじのローブを見た。
「詠唱士の方ですか?」
「はい」
「この先の村に、困っている人がいましたよ。精霊がらみのことで。通るなら寄ってあげてください」
男は馬車を止めることもなく、そのまま行ってしまった。
三人は顔を見合わせた。
「行きますか」とノエルが言った。
アルドが頷いた。
レイが「この先三十分ほどの村だ。ノクスの眷属の気配がある」と言った。
「ノクスって——夜の神様ですか」
「夜と静寂と、眠りを司る。昼間は大人しいが、夜に動く」
「夜の精霊が何かしてるんですね」
「村人の眠りを妨げているようだ。気流でそこまでわかる」
ノエルが「眠れない人がいるんですね」と言った。歩く速度が少し上がった。
* * *
村はオルタといった。
小さな村だった。家が十軒ほど。田んぼが広がっていた。
村に入ると、すぐに様子がおかしいとわかった。昼間なのに、人が少なかった。出てきた老婆が目の下に濃い影を持っていた。
「詠唱士の方ですか」老婆が言った。「ちょうどよかった。三週間、村の者みんなが眠れなくて」
「三週間も、ですか?」
「夜になると、何かが家の周りをうろつくんです。音がするわけじゃない。でも——気配がして、眠れない」
レイが言った。「ノクスの眷属が迷っている。帰り道を失った精霊だ」
「帰り道を失った?」
「夜の精霊は、夜明けと共に夜の世界に戻る。でもここの精霊は何らかの理由で戻れなくなって、昼も夜も村の周りをさまよっている。村人はその気配を感じて眠れない」
「帰り道を教えてあげればいいんですか?」
「教えてやれる詠唱士がいればな」
ノエルがアルドを見た。アルドが頷いた。
「やってみます」
老婆が「お願いします」と深く頭を下げた。
* * *
夕方まで待った。
ノクスの眷属は夜に動く——日が傾き始めた頃、ノエルは村の外れに立った。
空が橙色から紫へと変わっていく時間だった。
革張りのノートを開いて、構成を確認した。夜の精霊への呼びかけ——夜の讃美、道案内、解放の詩。今まで扱ったことのない精霊だった。
アルドが気配を確かめた。夕暮れの空気の中に、確かに気配があった。昼間の精霊たちとは違う、静かな、少し寂しい気配。迷っている——というレイの言葉が、腑に落ちた。
詠唱が始まった。
第Ⅰ節——夜への挨拶。ノエルの声が、夕暮れの空気に溶けた。
精霊が、近づいてきた。
第Ⅱ節、第Ⅲ節——
第Ⅳ節——道案内の詩。ノエルは即興で一句入れた。
「——迷った道は恥ではない。戻る道を知れば、それでいい」
気配が強くなる。ノクスの気配——夜の神の温度は初めてだった。冷たくはなかった。深い、静かな暖かさだった。眠りに落ちる直前の感触に似ていた。
第Ⅴ節、第Ⅵ節——順調に進む。
第Ⅶ節。
「——夜霊の御慈悲に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
今回、現代詠唱に比べれば長い、ノエルの詠唱には、リトシステムの枷は反応しなかった。
空に、星が一つ出た。
それから、精霊の気配が——すうっと、遠くへ消えていった。
村の空気が、ふっと軽くなった気がした。
老婆が「……行ったのかね」と言った。
「行ったよ」とレイが答えた。「夜の世界へ、帰った」
老婆が両手を合わせた。
* * *
村に一泊した。
夜、ノエルはぐっすり眠った。村の人たちも、久しぶりによく眠れたと、翌朝みんなが言った。
朝食の時、アルドはノートを開いた。
テノアの残高を書こうとして、止まった。
今回は、加算がなかった。
ゆっくりと書いた。
『テノア残高:65年2ヶ月2日。今回に限り、加算なし】
それから、その下に書いた。
『種を植えた日と、帰り道を教えた日が、同じ日だった。偶然かもしれないが——悪くない一日だった』
* * *
「三回続けて噛まなかった。
彼女はそれを特に喜ばなかった。
種を植えたことと、精霊が帰れたことの方が、
よほど嬉しそうだった。
そういうところが、ノエルだ」
―― アルド、筆談ノートより




