第23話 火の精霊と老鍛冶職人
次の街・ベルタに着いたのは、昼過ぎだった。
石畳の通りに鍛冶屋が多かった。金属を叩く音が街の奥から聞こえてきた。煙突からは黒い煙が細く上がっていた。鉄と炭の匂いがした。
「鍛冶の街ですね」
レイが言った。「イグニスの眷属が多い。火の精霊がここの炉を好む」
「鍛冶と精霊って、関係あるんですか」
「炎を扱う職人の傍には、火の精霊が集まる。職人が上手いほど、精霊が喜ぶ。精霊が喜ぶほど、炎の質が上がる。良い循環だ」
「じゃあここの鍛冶師さんたちは、精霊に好かれてるんですね」
「ほとんどはな」レイが少し間を置いた。「ただ——一人、精霊に嫌われている職人がいる」
ノエルが「嫌われてる?」と聞いた。
「詳しくは知らない。気流で感じるだけだ」
アルドが周囲の気配を探る。確かに、イグニスの眷属の気配が街のあちこちにあった。温かい、活発な気配。でも——街の東の方角だけ、少し様子が違った。
* * *
依頼板は街の入口にあった。
ノエルが読み上げた。
「『炉の火がここ一ヶ月、安定しない。精霊がらみかもしれないが原因不明。魔術師、詠唱士の方、ご相談を』——これですね」
アルドが頷いた。
依頼主の鍛冶師の工房は、街の東の外れにあった。
名前はクラウスといった。五十代、がっしりした体格、手が大きかった。腕に火傷の跡が何本もあった。長年鍛冶をしてきた人間の手だった。
「来てくれたか」クラウスが低い声で言った。「一ヶ月、炉がおかしい。火が安定しない。弱くなったり、急に強くなったり」
「精霊に何か心当たりはありますか」
「……あるにはあるんだが……」
歯切れの悪い回答。
クラウスが少し黙った。それから、続きを重そうに告げた。
「一ヶ月前、弟子を怒鳴りつけた。仕事が雑だったから。でも——言い過ぎた」
「お弟子さんは今も?」
「辞めた。怒鳴った翌日に出て行った」
静かな工房に、遠くの鍛冶音だけが響いていた。
「火の精霊は、その場の感情に敏感だ」レイが言った。「工房の中で怒りが爆発した。それを精霊が嫌った」
「弟子が出て行ってからも、ずっとなのか?」
「お前の中にまだある。後悔が」
クラウスが黙った。
ノエルがクラウスを見た。それから静かに聞いた。
「お弟子さんには、謝ったんですか」
「……行方がわからないんだ」
「謝れなくても、謝りたいという気持ちは、精霊に伝えられるかもしれません」
クラウスがノエルを見た。
「詠唱で?」
「詠唱と、言葉です」
* * *
工房の中で、ノエルが炉の前に立った。
革張りのノートを開いて、構成を確かめた。火の精霊への呼びかけ——感情の鎮静、炉の安定、職人への加護の再建。
アルドは工房の入口に立った。気配を感じる。イグニスの眷属が、工房の中にいる。複数。でも——距離を置いていた。壁際にいて、炉に近づこうとしていなかった。
『嫌がっている。怒りの残滓が、まだここにある』
詠唱が始まった。
第Ⅰ節——火への挨拶。静かな声だった。押しつけがましくなく、ただそこにいることを認めるような。
精霊たちが、少し動いた。
第Ⅱ節——炎の讃美。ノエルの声が、工房の石の壁に反響した。
第Ⅲ節——感情の言及。ここでノエルは即興を入れた。
「——炎よ、この場所に怒りがあった。今はもうない。残っているのは、後悔と、謝りたいという気持ちだけだ」
アルドが息を呑んだ。ノートにも書いてない一節だった。
『冗長表現を検知。テノアの残高に2ヶ月を加算』とリトシステムの告知が出る。
精霊たちが、ぐっと炉の方に近づいた。
クラウスが、目を細めた。
第Ⅳ節、第Ⅴ節——
第Ⅵ節——イグニスへの呼びかけ。枷がかっと熱くなった。遠い神界で、炎の神が振り返った感触があった。荒々しい、でも正直な神。ノエルの「後悔と謝りたい気持ち」という言葉に、何かを感じたらしかった。
第Ⅶ節。
「——火霊の御慈悲に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデン——」
アルドが前のめりになった。
「——が命ず」
ノエルは噛まなかった。
炉の火が、ゆっくりと安定した。青白かった炎が、橙色の、落ち着いた色に変わった。精霊たちが炉の周りに戻ってきた。工房の空気が、ほんの少し変わった。
クラウスが、炉をじっと見た。
それから、大きな手で顔を覆った。
* * *
工房を出る時、クラウスが言った。
「......弟子の行方を、探してみる」
「見つかるといいですね」ノエルが言った。
「詫びられるかどうかわからんが——探すだけは、してみようと思う」
報酬を受け取る時、クラウスがノエルに言った。
「さっきの言葉——『後悔と謝りたい気持ちだけが残っている』。あれは、どこから出てきたんだ」
「......わかりません」ノエルが少し考えた。「炉を見ていたら、そう聞こえた気がして」
「炉から?」
「精霊から、かもしれません。クラウスさんの気持ちを、精霊が私に教えてくれたのかも」
クラウスがしばらくノエルを見た。
「......変わった詠唱士だな」
「よく言われます」
* * *
街道に戻りながら、アルドはノートを開いた。
『今日は噛みませんでしたね』
「二回連続ですね」ノエルが言った。
『そうですね』
「でも今日は、なんか——噛む気がしなかったんです。第Ⅶ節を唱える前から」
『どうしてですか』
「クラウスさんのことを考えていたから、かな。精霊に伝えなきゃって思ったら——自分の名前より、伝えたいことの方が大事になって」
アルドは歩きながら、その言葉を受け取った。
伝えたいことの方が大事になる——自分の名前より。
それが、足場の本質かもしれなかった。
ノエルは気づいていなかった。自分が何を言ったか、わかっていないかもしれなかった。
アルドは誰にも見せないページに書いた。
『伝えたいことが、名前より大きくなった時——噛まない。今日、わかった』
* * *
「彼女は『自分の名前より伝えたいことの方が大事になった』と言った。
それを聞いて、私は——
声を賭けた日のことを、思い出した」
―― アルド、筆談ノートより




