第22話 市場の朝
その日は依頼がなかった。
次の街まで半日ほどの距離で、昼前には着く予定だった。
街道沿いの村を通り抜ける時、村の広場で週に一度の市場が立っているのが見えた。
ノエルが足を止めた。興味津々だとわかるくらいに瞳が輝いていた。
「師匠、市場です。あの、見ていってもいいですか?」
アルドが頷いた。
二人と一羽は市場に入った。
野菜、果物、干し肉、布、陶器、薬草——小さな村の市場にしては、品数が多かった。村人たちが品定めをしながら声を上げていた。子供が走り回っていた。犬が一匹、軒下で眠っていた。
ノエルが果物の屋台で足を止めた。見たことのない果物が並んでいた。丸くて、赤みがかった黄色で、握りこぶしより少し大きい。
「これ、なんですか?」
屋台の女性が「サルヴァ梨ですよ」と言った。「この辺りでしか取れないんです。甘くて、でも後味がさっぱりしてて、美味しいわよ」
「食べたことがないです……食べてみないなぁ」
すると女性は、手際よくサルヴァ梨を剥いて、4等分に割ってみせた。
「どうぞ」
一切れもらって口に入れた。目を丸くした。
「おいしい……! 師匠、食べてみてください」
アルドが受け取って口に入れた。確かに、甘かった。でも後味が軽かった。珍しい味だと思った。
ノエルが「三つください」と言って、財布を出した。アルドがノートに書いた。
『私の分も含まれていますか』
「もちろんです」
『では私が払います』
「いいですよ、私が見つけたんですから」
『旅の経費は私が持ちます』
「師匠ってそういうとこ頑固ですね」
『そうですか』
「そうですよ」
結局、アルドが払った。
ノエルが「ありがとうございます、でも次は私が払います」と言った。
アルドは何も書かなかった。
* * *
市場の端に、小さな人だかりができていた。
覗いてみると、老人が何かを売っていた。木の台の上に、小さな器が並んでいた。陶器ではなく、透明な石のような素材で作られた器だった。中に水が入っていて、光を受けてきらきらと輝いていた。
「水晶器ですよ」老人が言った。「水霊の加護を受けた水を入れておく器です。飲むと体が軽くなる」
ノエルが「水霊の加護、ですか」と聞いた。
「この辺りの湧き水は水霊が住んでいてね。その水を汲んで、この器に入れると、加護が長持ちするんですよ」
レイが肩の上で静かに言った。「本物だよ」
ノエルが目を丸くした。小声で「本当に?」と聞いた。レイが「水霊が二体、この器に宿っている」と言った。
老人はレイを見ていなかった——人混みで気づかなかったらしい。
アルドが器を一つ手に取って眺めた。確かに、かすかな水の波動が伝わってきた。この土地の水霊の気配だ。
ノエルがアルドを見た。興味深々だ。
アルドが小さく頷いた。
「一つ、いただきます」
老人が嬉しそうに包んでくれた。「旅の方ですか。道中、水に困ることがあれば、この器に汲んでおくといいですよ」
「ありがとうございます」
今度はノエルが財布を出した。アルドが手を伸ばした。ノエルが「今回は私です」と言って、さっさと払った。
アルドがノートを出した。
『次は私が払います』
「覚えておきますね」
レイが「仲がいいな」と言った。
二人とも何も言わなかった。
* * *
市場を出て、街道に戻った。
ノエルがサルヴァ梨を一つ取り出して、歩きながら食べ始めた。
アルドに差し出した。アルドも受け取って食べた。
「師匠」
『はい』
「旅って、こういうことなんですよね」
『こういうこと、とは?』
「依頼とか練習とかじゃなくて——知らない果物を食べて、知らない器を買って、知らない土地の水霊がいて。それが全部、普通にある」
アルドは歩きながら書いた。
『そうですね』
「学院にいた時には、知らなことばかりだったなぁ」
『そうですね。私も、旅に出てから知ったことが多いです』
「師匠が旅で知ったことって、何ですか」
アルドはしばらく考えた。
それから書いた。
『いくつかありますが……ひとつは——雨の後に一日しか咲かない花があること』
ノエルが「イレイネ草ですね」と言った。
『もう一つは——暇な午後に、泉の底の石がきらきらすること』
「泉の石! あの時師匠ぼーっとしてましたよね」
『そんなことしてましたか』
「してましたよ、覚えてますもん!」
アルドはしばらく止まってから書いた。
『……していたかもしれません』
ノエルが嬉しそうに笑った。
「認めましたね」
『一度だけです』
「それで十分ですよ」となぜか勝ち誇ったようにノエルは言って、笑う。
レイが上空から「若造が認めた。記念日だ」と言った。アルドが『なんですか。記念日ではありません』と書いた。ノエルが「記念日にします」と言った。
街道の先に、次の街の輪郭が見え始めていた。
ノエルがサルヴァ梨の最後の一口を食べて、種を丁寧に布に包んだ。
「どこかに植えられないかな」
『旅人が果物の種を植えて歩く、という話を聞いたことがあります』
「じゃあ私もやってみようかな。いつか誰かが食べてくれるかもしれないから」
アルドはその言葉を聞いた。
それから、誰にも見せないページに書いた。
『旅で知ったこと。三つ目——ノエルは果物の種を植えながら旅をすると』
* * *
「旅で知ったことを聞かれた。
いくつかあった。でも一番大事なことは、
まだ言葉にできていない気がした」
―― アルド、筆談ノートより




