第21話 翌朝のこと
翌朝、ノエルは早起きした。
いつもより一時間ほど早かった。まだ空が白んでいる時間に目が覚めて、そのまま眠れなかった。
悪い理由ではなかった。ただ——昨日のことが、頭の中を大きく占めていた。
足が地面についた感じ。
あの感覚を、もう一度確かめたかった。
ノエルは宿の部屋で、小さな声で言ってみた。
「ノエル・ブライトガーデン」
噛まなかった。
もう一度。
「ノエル・ブライトガーデン」
噛まなかった。
書く時はいつも噛まない。声に出す時も、誰も見ていない時は噛まない。昨日は依頼の最中に噛まなかった。
何が違ったんだろう、とノエルは考えた。神霊の視線が来た。それは感じた。でも——足場があった。視線が来る前に、すでに立っていた。
「足場にする」とソニアは言っていた。
押されるんじゃなくて、立つ場所にする。
昨日はそれができた。でも毎回できるかどうかは、まだわからない。
ノエルは革張りのノートを開いた。振り返りノートのページに書いた。
「昨日、噛まなかった。でも今日また噛むかもしれない。でも昨日できたのは本物だと思う。師匠もそう言ってた」
書いて、少し考えて、続けた。
「足場って、毎回作るものじゃなくて、最初からそこにあるものなのかもしれない。私がそこに立てるかどうかが問題で」
ペンを置いた。
自分で書いた言葉を読んで、少し驚いた。
これ、自分で気づいた?
* * *
アルドが起きてきたのは、それから少し後だった。
ノエルが食堂のテーブルで振り返りノートを書いているのを見て、少し目を丸くした。
「おはようございます師匠、早いですね」
アルドがノートを取り出した。
『おはようございます、ノエル。いつもより早い』
「目が覚めちゃって」
『昨日のことを考えていましたか』
「どうしてわかるんですか」
『顔を見ればわかります』
ノエルが両頬を手のひらで押さえて、「師匠って実は筆談より顔読みが得意なのでは」と言った。アルドはそれには何も答えなかった。
朝食が来るまでの間、ノエルはアルドに振り返りノートを見せた。「足場って最初からそこにあるもの」という一節を指差した。
「昨日感じたことを書いてみたんですけど、合ってますか?」
アルドはしばらく読んだ。
それから書いた。
『合っていると思います。「作る」のではなく「気づく」に近い』
「気づく……」
『足場は最初からある。貴女の声が神霊と共鳴できる場所が、最初からある。それに気づいて、そこに立つ——昨日、貴女はそれをやった』
ノエルがその筆談を読んで、しばらく黙った。
「......師匠って、こういうこと、前から知ってましたか」
『薄々は……』
「なんで言ってくれなかったんですか」
『言葉で教えられることではないと思っていました。貴女が自分で気づく方が、本物になると思って』
ノエルがふうん、と言った。それから少し笑った。
「ずるいですね、師匠」
『そうかもしれません』
* * *
レイが窓枠から入ってきたのは、朝食が届いた頃だった。
「遅かったね、二人とも」
「私が早起きしたんです」とノエルが言った。
「知っているよ」
「全部知ってるんですよね、レイさんは」
「もちろん。全部だ」
ノエルがパンをちぎりながら言った。
「じゃあ聞きますけど——今日も噛まないですか」
「それはわからないと言っただろ」
「そうでした」
レイが窓枠に止まったまま言った。
「ただ——昨日より、立っている場所が少し高くなっている」
「高く?」
「足場の話だ。昨日より一段、上に立っている」
ノエルが「一段」と繰り返した。
「百段あるとして、今日が何段目かはボクにもわからない。でも昨日より一段上なのは確かだ」
アルドがノートに書いた。
『百段、ですか』
「例えだよ。正確な数はボクにもわからない」
『ノエルは今、何段目くらいでしょうか』
レイが少し間を置いて答えた。
「それは……教えない方がいい」
『なぜですか』
「自分の位置を知ると、残りを数えようとする。残りを数えながら登る人間は、足元を見なくなる」
アルドはその言葉を受け取った。ノートに書くのをやめた。
ノエルがパンを口に入れながら言った。
「......レイさんって、やっぱり意地悪ですね」
「正直なだけだ」
「でも今のは優しかったと思います」
レイは何も言わなかった。
窓の外で、朝の光が街道を照らし始めていた。
* * *
宿を出る前に、ノエルがもう一度だけ振り返りノートに書いた。
「百段あるらしい。今日が何段目かはわからない。でも昨日より一段上。それだけわかれば十分な気がする」
ペンを置いて、ノートを閉じた。
革張りの表紙を、いつもの癖でそっとなでた。
アルドがその様子を見ていた。
誰にも見せないページに、一行書いた。
『足場は最初からある——彼女が自分で気づいた日の朝、彼女はいつもより一時間早く起きていた』
* * *
「百段あるとレイは言った。
今日が何段目かは教えてくれなかった。
でも彼女は『それだけわかれば十分』と書いた。
そういうところが、ノエルだ」
―― アルド、筆談ノートより




