表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/92

第16話 井戸の底

トレーナの朝は、井戸の水の青さから始まった。

女将が「変な味がする」と言ったその水は、

百年の眠りを破られた古い鍵のせいで濁っていた。


水霊が怒っているのか、傷ついているのか。

詠唱ではなく、ただの言葉でノエルは井戸に呼びかける。


昨日気づいた“言葉そのものが届く”という事実が、

今日また静かに形になる。


井戸の底に沈んでいたのは、鍵だけではなく——

ノエルの声が持つ本質を照らす、小さな気づきだった。

 翌朝、ノエルは灯り亭の裏手にある、井戸の前に立っていた。


 石造りの古い井戸だった。蓋はなく、上から覗くと暗い水面が見えた。

 バケツを下ろすと、確かに水が上がってくる。でも——女将が言った通り、少し青みがかった、鉄の味がした。


「うわ。変な味、ですね」


 ノエルがバケツの水を一口含んで、すぐに吐き出した。

 詠唱衣の袖で口元を拭う。


「鉄くぎを口に入れた時みたいな」


 アルドも少し嗅いだ。そしてノートに書いた。


『水霊が怒っているか、傷ついているか、どちらかです』


「傷ついてるって、精霊がですか?」


『井戸の底の石が崩れたり、何か異物が入ったりすると、水霊が体調を崩すことがあります』


「へぇ。まるで人間みたいですね」


『そうです。よく似ていますよ』


 レイが井戸の縁に止まって、中を覗き込んだ。水面を見下ろすように。


「底に何かある。石じゃないな——金属だ。かなり古い」


「金属?」


「鉄製の何かが沈んでいる。錆びている。それが水に混じっている」


 アルドがノートに書いた。


『引き上げることはできますか』


「縄と鉤があれば」


 女将に話すと、すぐに納屋から縄と鉤を持ってきた。三人がかりで縄を下ろして、しばらく探った。何度か空振りして——ごとり、と重いものが鉤に引っかかった。


 引き上げると、錆びた鉄の塊が出てきた。


 よく見ると、古い鍵だった。握りこぶしほどの大きさの、装飾のある鍵。錆が全体を覆っていて、原型がかろうじてわかる程度だった。


 女将が目を丸くした。


「……なんでしょう、これ」


「古いですね」とノエルが言った。「どのくらい昔のものですか」


 レイが言った。「百年以上は経っている」


「百年……そんなに昔?」


 女将がしばらく鍵を見た。それから、何かを思い出したように言った。


「......おばあちゃんが、昔、子供のころに何か大切なものを井戸に沈めたって言っていたような気が」


「大切なものを、沈めた?」


「詳しくは聞いていなくて。でも——何かを守るために、って」


     * * *


 鍵を取り出した後、もう一度バケツで水を汲んだ。


 味が、少し戻っていた。鉄の味が薄れて、澄んだ水の味がした。


「よかった」とノエルが言った。


 しかし——まだ違和感が残っていた。何か揺らぎのような違和感。

 アルドは縁から水面を覗き見た。

 確かに水霊の気配が、まだそこにある。落ち着いていない。ざわざとした気配。


『水霊が、まだ何かを気にしているようですね』


「鍵はもう引き上げたのにですか?」


『鍵のことではなく——もっと別の何かを、気にしているのではないでしょうか』


 ノエルが井戸を覗いた。暗い水面。揺れている。

 意を決して、アルドに問う。


「……呼びかけてみてもいいですか」


 アルドが頷いた。


 ノエルが井戸の縁に両手をついて、水面に向かって言った。


「こんにちは。私、ノエルといいます。詠唱士です。水が変な味になって、困っている人がます。古い鍵は井戸から取り出しましたんですけど、他に何か、嫌なこと、困ったことがありますかー?」


 レイが「詠唱じゃないのか」と言った。


「なんか、詠唱じゃない方がいい気がして」


 そして、最後に水霊ルナに向かって伺いを立てる。

 ノエルの本心からの言葉だった。


「何か、困っているなら、教えてほしいです……怖くない。大丈夫。ゆっくりでいいので、話したくなったら、伝えてほしいです。私、ここで待っていますから」


 しばらく沈黙があった。


 それから——水面が、ゆっくりと揺れた。波紋が広がった。井戸の中から、ひんやりした空気が上がってきた。


 水霊ルナの気配が一気に濃くなった。昨日の夕暮れに感じたあの感触に似た、小さな気配。


『何か、あがってきます』


「何でしょう?」


『言葉ではないので正確にはわかりません。でも、人間の言葉に置き換えるなら—―「感謝」に近いイメージです』


 ノエルが、ほっとした顔をした。


「よかった」


 また水面が揺れた。今度は小さく、穏やかに。


     * * *


 女将に報告すると、鍵を両手で受け取って、しばらく黙っていた。


「おばあちゃんに聞けばよかったな、ちゃんと」


 小さな声だった。ノエルが「何か大切なものの鍵だったんですかね」と言った。


「わからないけど——でも、百年以上ここにあったんなら、井戸が守っていてくれたってことかな」


「井戸が、ですか」


「水霊が、かな」


 女将が鍵を胸に当てた。


「大切にします」


 報酬を受け取る時、ノエルが「井戸の水霊さんによろしくお伝えください」と言った。女将が「伝え方がわからないけど、毎朝手を合わせます」と言った。


     * * *


 宿を出て、街道に戻りながら、ノエルが言った。


「詠唱じゃなかったのに、ちゃんと届きましたね」


『昨日の続きですね』


「昨日?」


『言葉そのものが最初からある——昨日、私が気づいたことです』


「あ」ノエルが少し考えた。「そっか。今日もそうでしたね」


 アルドは歩きながら書いた。


『貴女は昨日それを体で知って、今日また使いました。習得が速い』


「でも詠唱の練習もちゃんとしますよ」


『そうですね』


「師匠に言われなくても」


『大丈夫。知っていますとも』


 ノエルが笑った。


「なんか師匠、最近ちょっと変わりましたね」


『そうですか?』


「なんか——よく会話して(書いて)くれるようになった気がします。前より」


 アルドはその言葉が自身に浸み込んでくるのを感じていた。

 それから書いた。


『伝えた方がいいことが、増えています』


 ノエルがその筆談を読んで、少し黙ってから考え深げに頷きながら答える。


「……そっか。そうですね。」


 街道の朝の光が、三人の前に伸びていた。

 まぶしい、一日の始まりだった。


     * * *


「彼女は詠唱なしで水霊に話しかけた。

 届いた。

 当然だ、と思った——そして、昨日まで当然だと思っていなかった自分に気づいた」


―― アルド、筆談ノートより

井戸の底から上がってきたのは、

錆びた鍵と、百年分の物語だった。


ノエルの「ありがとう」が水霊に届いた瞬間、

アルドは昨日の気づきが“偶然ではなかった”と理解する。

詠唱の形に頼らなくても、ノエルの声は届く。

それは、彼女が持つ本質的な力の証だった。


そして、ノエルが言った

「師匠、最近ちょっと変わりましたね」

という言葉。

アルド自身も気づいていなかった変化が、

ノエルには見えていた。


伝えるべきことが増えたから書く。

それは、ノエルが成長している証であり、

アルドがその成長を“言葉で支える”ようになった証でもある。


井戸の水が澄んだ朝、

三人の旅はまた静かに前へ進んでいく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ