第17話 アルドの休日
旅には、依頼も事件もない日がある。
ただ麦畑の波を眺めながら歩き、
泉のそばで足を冷やし、
風の音を聞くだけの時間。
そんな“何も起きない日”にこそ、
心の奥で静かに変わっていくものがある。
学院では決して見せなかった表情を、
アルドは旅の途中で少しずつ見せ始めていた。
ノエルはそれに気づき、レイは黙って数えていた。
これは、アルドが初めて「休日」を過ごした日の物語。
トレーナを出て、二日目の朝だった。
空が高く、風が気持ちよかった。
街道の両脇に麦畑が広がって、麦の穂が波のように揺れていた。
それはまるで、金色のさざ波をみているようだった。
ノエルが振り返りノートを歩きながら書こうとして、アルドに目で止められた。
「......気を付けますから。それでもダメですか?」
アルドが頷いた。
「転ばないですよ、もう」
アルドがノートを取り出した。
『そういったそばから、木の根に躓いて、先週も転びました』
「あれは根っこが悪かったんです」
『今週も転びました』
「あれは道端の石が悪かったんです。私は悪くないもん」
『いけません。不注意すぎますよ。歩きながらは禁止です』
ノエルが「むーっ」と唸って、振り返りノートをしまった。
その様子を見ていたレイが「若造の勝ちだ」と言った。
* * *
昼前に、街道沿いの小さな泉のそばで休憩した。
水が澄んでいて、底の石が見えた。木陰があって、涼しかった。ノエルが靴を脱いで足を水に浸けた。「冷たい!」と言って、でも出さなかった。
アルドはその横に腰を下ろして、ノートを開いた。
今日のテノアの収支を書こうとして——止まった。
収支を書く必要がなかった。
今日は依頼がない。移動だけの日だった。
昨日も、一昨日も、特に何も起きていなかった。
アルドはペンを持ったまま、水面を見た。
ノエルが足を揺らすたびに、水面に波紋が広がった。泉の底の石が、光の揺れ方を変えた。レイが対岸の木の枝に止まって、目を閉じているように見えた。
静かだった。
こういう時間が、旅に入ってから少しずつ増えていた。学院にいた頃は、何もしない時間というものがほとんどなかった。講義の準備、術式の研究、ノエルの練習の記録——何かしら書くものがあった。
今は、書かなくていい時間がある。
アルドはペンをノートに置いて、空を見上げた。
高い空だった。雲が一つ、ゆっくり流れていた。
「師匠」
ノエルが足を水に浸けたまま振り返った。
「何してるんですか」
アルドは少し考えてから書いた。
『少し、ぼーっとしてしまっていました』
「えっ」
ノエルが目を丸くした。
「師匠が休んでる......!」
『私だって、休むときもありますよ』
「いや、もちろん休んでいいんですけど」ノエルがまじまじとアルドを見た。「なんか、珍しくて」
『そうですか』
「学院でもこんな顔して、ぼーっとしてましたか?」
『どんな顔ですか』
「なんか——ぼーっとした顔」と、一生懸命、アルドの真似をしようとして失敗しているノエル。
アルドはそんなノエルの所作が可笑しくて、微笑んだ。
『そんな顔はしていなかったと思います』
「旅に出てからは、たまにするようになりましたよ」
アルドはその言葉を受け取った。
それから、また空を見た。
雲が、少し流れ動いていた。
「師匠って、学院の時、楽しかったですか」
突然の質問だった。アルドはしばらく空を見たまま、考えた。
『……楽しいと思う余裕がなかったかもしれません』
「今は?」
また少し間があった。
『今は——』
アルドはペンを走らせた。
『悪くないです』
ノエルが「悪くない、か」と繰り返した。それから笑った。
「師匠の『悪くない』って、かなり良い、ってことですよね」
『......そうかもしれません。手間のかかる弟子がいて、毎日が退屈しなくて済みますからね』
「師匠、ひどいっ!」といいつつ、あははとノエルは笑った。
「手間も、時間も、かかる大食らいの小さき者か」とレイがつぶやく。
「あ、レイさんも、さりげなくひどい」
水面が揺れた。ノエルの足が動いたせいだった。
泉の底の石が、またきらきらと光の形を変えた。
* * *
レイが目を開けた。
「若造」
アルドがレイを見た。
「お前が『悪くない』と言うのを聞いたのは、今日で何度目だろうな」
『数えてません』
「ボクは、知ってるよ。数えている」
『物好きですね』
「七度目だ」
ノエルが「七回も言ってたんですか師匠」と言った。アルドは前を向いた。
「最初に言ったのは、ハルベルトで水害治癒を完遂した夜だった」レイが続けた。「あの夜、お前はノートに『収支プラス。悪くない』と書いた」
ノエルが「覚えてるんですか」と言った。
「ボクは全部覚えている」
アルドは何も書かなかった。
でも――なぜか心の底が、ほんの少し温かくなった。春の温度でも水霊の気配の温度でもない。もっと静かな、何か。
アルドには、その温度に名前がわからなかった。
ノエルが泉から足を出して、靴を履いた。
「行きましょうか」
アルドが立ち上がった。
三人はまた街道を歩き始めた。麦畑の穂が、また波のように揺れていた。
* * *
「七度目の『悪くない』を言った日、ちょっと心の底が温かくなった気がした。
何の温度かわからなかった。
でも——悪くなかった」
―― アルド、筆談ノートより
第17話は、ノエルの成長ではなく、
アルドの“変化”が描かれた回だった。
学院では常に働き続け、
休むという概念すら持っていなかったアルドが、
泉のそばで空を見上げて「休んでいます」と書いた瞬間。
それは、旅が彼にもたらした大きな変化だった。
そして、レイが数えていた「悪くない」の七回。
アルド自身は気づいていないが、
旅の中で確かに心がほぐれてきている。
ノエルが言った
「師匠、最近ちょっと変わりましたね」
という言葉は、
アルドの変化を最も近くで見てきた弟子の、
素直な実感だった。
麦畑の波と泉の光の中で過ごした静かな一日。
それは、三人の旅にとって確かに“悪くない”時間だった。




