第15話 トレーナの街の夜
雨上がりの街道を抜け、三人が辿り着いたのは、
灯りが揺れる賑やかな街・トレーナ。
旅人の笑い声、煮込みの匂い、石畳に落ちる夜の光。
静かな街道とは違う、温かいざわめきの中で、
ノエルはひとりの老人と出会う。
「見たいものを先に見ておく」
その言葉が、ノエルの胸に静かに落ちていく。
そして今夜、ノエルは初めて——
自分の旅を、自分の言葉で語り始める。
次の街は、トレーナといった。
カルヴァよりも大きく、リヴェナよりも賑やかだった。石畳の通りに明かりが灯り始める頃、三人は街の門をくぐった。夕飯時で、どの宿の窓からも料理の匂いが漏れていた。
「師匠、あの宿にしましょう」
ノエルが指差した先に、「旅人の灯り亭」という看板があった。窓が大きく、中から笑い声が聞こえた。
【賑やかですね】
「賑やかな方が楽しいです」
【私は静かな方が好きです】
「じゃあ静かな宿にしますか」
アルドは少し考えた。
【いいえ、あちらにしましょう】
ノエルが「えっ」と振り返った。
「師匠が折れた」
【折れていません。貴女の判断を尊重しました】
「それを折れるといいます」
レイが「若造にしては珍しい」と言った。アルドは何も書かなかった。
* * *
灯り亭の食堂は、確かに賑やかだった。
旅人が十人ほど、テーブルを囲んで食事をしていた。隅のテーブルでは商人らしき男たちが地図を広げて話し合っていた。カウンターの向こうで、丸い顔の女将が忙しそうに立ち働いていた。
三人が席につくと、女将がすぐに飛んできた。
「いらっしゃい! 三名様ですか?」
アルドがノートを出した。
【二名です。ただし窓を開けていただけますか。精霊が出入りしますので】
女将が読んで、目を丸くした。それからレイを見た。三秒ほど見た。
「......かしこまりました! 今日の煮込みは鶏と根菜ですよ、よろしかったですか」
【ぜひ】
「おかわり自由です!」
ノエルが「やったー」と言った。
* * *
食事の途中、隣のテーブルの老人が話しかけてきた。
白髪の、穏やかな顔をした旅人だった。荷物が小さく、服が質素で、でも目が澄んでいた。
「お嬢さん、詠唱士ですか」
ノエルのえんじのローブを見て言った。
「はい、そうです」
「珍しい。こんな北の街道で詠唱士に会うとは」
「旅の途中なんです。依頼を受けながら」
「ほう」老人が頷いた。「師匠と一緒に?」
「はい、こちらが師匠です」
老人がアルドを見た。アルドが頷いた。老人が枷に気づいて、しかし何も言わなかった。礼儀のある人だとアルドは思った。
「どちらからいらしたんですか」
「王立魔術学院から出発しました」
「学院から!」老人が目を細めた。「遠くから来られた。私はずっとこの辺りを旅しているんですが、詠唱師の方に会うのは久しぶりで」
「よく旅されてるんですか」
「もう十年になりますかね。商いを引退してから、ずっと歩いています」
ノエルが「どうして旅を」と聞いた。
「死ぬ前に、この国を全部見ておきたくて」
さらりと言った。ノエルが少し固まった。
「......もう長くないんですか」
「いえいえ」老人が笑った。「まだ元気ですよ。でも、いつ死んでもいいように、見ておきたいものを先に見ておこうと思いまして」
ノエルがそれを聞いて、少し考えた。
「......素敵ですね」
「そうですかな」
「見たいものを先に見ておくって——なんか、いいなと思って」
老人が嬉しそうに頷いた。「お嬢さんは、旅で何を見ていますか」
「えっと......依頼をこなしながら、いろんな人に会って、いろんな場所に行って——」ノエルが少し考えた。「精霊と、神様たちのことを、もっと知りたいんだと思います」
「神様を知る旅ですか。いいですね」
老人はそう言って、自分の煮込みを一口食べた。それ以上は何も言わなかった。
アルドはその会話を聞きながら、煮込みのスープを飲んでいた。
ノエルが「精霊と神様のことを知りたい」と言ったのを、初めて聞いた気がした。依頼をこなすため、でも練習のため、でもなく——知りたい、という言葉。
アルドはノートを開いた。誰にも見せないページに書いた。
【彼女は今夜、自分が何をしているのかを、初めて自分の言葉で言った】
* * *
食後、部屋に戻る前にノエルが女将に話しかけた。
「あの、このあたりで困っていることとか、ないですか。精霊がらみで」
女将が手を止めた。
「あら、受けてくださるんですか」
「もしあれば」
「ちょうど昨日、うちの井戸の水が少し変な味になって——水霊に何かあったのかなとは思っていたんですが」
ノエルがアルドを見た。アルドが頷いた。
「明日、見てみます」
女将が「ありがとうございます!」と言って、おかわりの煮込みをもう一杯持ってきた。
レイが窓枠から「宿代が浮いたね」と言った。ノエルが「そういう計算じゃないです」と返した。
アルドは部屋に戻りながら、先ほどのノートのページを見た。
【彼女は今夜、自分が何をしているのかを、初めて自分の言葉で言った】
その下に、一行追加した。
【そして明日の依頼を、自分で見つけた】
* * *
「『いつ死んでもいいように、見たいものを先に見ておく』——老人の言葉を、彼女はすぐに自分のものにした。そういう速さが、ノエルだ」
―― アルド、筆談ノートより
トレーナの夜は、ノエルにとって大きな転機だった。
老人の「見たいものを先に見ておく」という言葉を、
ノエルはすぐに自分の中に取り込んだ。
その速さと素直さこそ、アルドがずっと見守ってきたノエルの強さ。
そして、
「精霊と神様のことを知りたい」
——その言葉は、ノエルが初めて自分の旅を“目的として”語った瞬間だった。
依頼をこなすためでも、学院の課題でもなく。
ただ、自分が知りたいから。
その夜、ノエルは自分で依頼を見つけ、
自分で明日の行き先を決めた。
旅は、誰かに連れられるものから、
自分で歩くものへと変わり始めている。




