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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第12話 暇ですね師匠

旅には、派手な依頼も、劇的な出会いもない日がある。

ただ街道を歩き、風の音を聞き、針葉樹の影を踏んでいく——そんな時間。


けれど、静かな午後ほど、声はよく響く。

誰も見ていないと思った瞬間にだけ訪れる“揺らぎのない一節”。

ノエルが初めて噛まずに名乗ったのは、そんな何でもない時間だった。


精霊たちがそっと耳を澄ませる林の中で、

ノエルの声はまたひとつ、確かな前進を刻む。

 リヴェナを出て、二日が経った。

 その間、新しい依頼はなかった。


 次の街まで、街道をまっすぐ歩くだけの二日間だった。針葉樹の林が続いて、時々小川を渡って、また林に入る。空は低く、灰色がかっていたが、雨は降らなかった。


 ノエルは昼すぎから、何度も同じことを言っていた。


「暇ですねぇ、師匠」


 アルドはノートを取り出した。


『そうですね』


「なんか、することないですか」


『前を向いて、歩きましょう』


「もう歩いてますよ」


『では、それで十分ですよ』


 ノエルが「むーっ」と唸った。レイが上空から「若造の言う通りだ」と言った。ノエルが「レイさんまで」と言った。


 しばらく三人は黙って歩いた。


 林の中を風が通り抜けて、針葉樹の葉がさらさらと鳴った。小川のせせらぎが、遠くから聞こえてくる。アルドは枷の感触を確かめた。今日は静かだった。精霊たちも、特に動いていない。穏やかな、何もない午後だった。


「師匠」


『はい』


「詠唱の練習、してもいいですか」


 アルドは頷いた。


「歩きながらでも、いいですか」


 また頷いた。


 ノエルが革張りのノートを胸に抱えた。背筋を少し伸ばして、前を向いて、歩きながら小さな声で詠唱を始めた。


 第Ⅰ節。第Ⅱ節。第Ⅲ節——


 声が、林の中に溶けていった。


 精霊が、少し動いた気配があった。林の奥の方で、何かがそっと耳を澄ませるような、そんな感触が枷を通じて伝わってきた。


 第Ⅳ節、第Ⅴ節——


 アルドは隣を歩きながら、ノエルの声を聞いていた。


 特別なことは何もない午後だった。街道があって、林があって、風があって、ノエルの声があった。それだけだった。


 第Ⅵ節——


 ノエルの声が、少し豊かになった。セレスの温度が、枷の奥でほんのりと灯った。春の日差しに似た、あの柔らかな熱。依頼でもない、正式な詠唱でもない、ただの練習の第Ⅵ節に——セレスが、反応していた。


 そして第Ⅶ節。


「——水霊の御慈悲に代わりて、我、ノエル・ブライトガー......」


 アルドの目が細くなった。


「……ノエル・ブライトガーデン」


 枷が、反応しなかった。

 リトシステムのガイド音声も、聞こえなかった。


 ノエルが足を止めた。振り返った。目が丸くなっていた。


「……あれ」


 アルドも止まった。


「……噛みませんでした」


 二人は、しばらく黙って向き合った。


「練習だから、ですかね」


 アルドはノートを取り出した。ゆっくりと書いた。


『わかりません。でも——』


 少し間があった。


『誰も見ていなかったから、かもしれませんね』


 ノエルが、その言葉を受け取った。

 林の風が吹いた。針葉樹がまたさらさらと鳴った。


「......もう一回、やってみてもいいですか」


 アルドが頷いた。


 ノエルが深呼吸して、また歩き始めた。第一節から、もう一度。


 今度は、第Ⅶ節の手前で——ノエルの声が、微かに揺れた。気配を感じたのかもしれない。林の奥で、何かがまた耳を澄ませていた。


「——我、ノエル・ブライトガデェン!」


 枷が、静かに反応した。


『テノア残高に、一年と一ヶ月を追加します』


 リトシステムの声が、冷たく響いた。


 ノエルが「あーっ」と声を上げた。アルドは顔色を変えずに、草の上に手をついた。


「さっきは噛まなかったのに……!」


 レイが木の枝に降りてきた。


「さっきは誰も聞いていなかった。今は聞いていた」


「レイさん以外、誰が聞いてたんですか?」


「ボクだけじゃない」


 レイが林の奥を見た。


「さっきの第Ⅵ節で、三柱来ていたよ。水霊が」


 ノエルが林の奥を見た。何も見えなかった。でも——言われてみれば、空気が少し湿っている気がした。


「気が付きませんでした……来てたんですね」


「練習だろうと関係ない。お前の声が聞こえれば集まって来るさ」


 ノエルがしばらく黙ってその意味を考える。


 アルドはノートに書いた。


『さっきは噛みませんでした。それは事実です』


「でも、今はまた噛んじゃいました」


『それも事実です。でも——』


 アルドは少し考えてから、続けた。


『さっき噛まなかった時の感覚、覚えていますか』


「……すっと無理なく言えた感じ、でした。特に何も考えてなくて」


『それです。足場にする、というのは、そういう感覚のことかもしれません。気配を感じた瞬間に「受け取ろう」とするんじゃなくて、もう立っている。そういう感覚』


 ノエルが、アルドの筆致をじっと嚙みしめるように読んだ。

 それから、空を見上げた。


「……難しいですね」


『難しいです』


「師匠も難しいと思いますか」


『思います。でも——先ほど、できました。その感覚を忘れないように』


 ノエルが笑った。


「そうですね。覚えておきます……」


 三人はまた歩き始めた。林の風が続いていた。どこかで小鳥が鳴いた。レイではない、本物の小鳥が。


 アルドは歩きながら、私的ノートに一行書いた。


『依頼のない、何もない午後に——彼女は一度、噛まなかった』


 小さな一歩だ。でも、確実な一歩前進だ。


     * * *


「暇な午後に、彼女は一度だけ正確に名乗った。

 誰も見ていないと思っていたのは、彼女だけだったが」


―― アルド、筆談ノートより

「暇ですね」という言葉から始まった午後は、

ノエルにとって忘れられない一歩になった。


依頼でもなく、観客もいない。

ただ歩きながらの練習で、彼女は初めて正確に名乗った。

それは偶然ではなく、ソニアが言った“足場にする感覚”が

ほんの一瞬だけ形になった瞬間だった。


そして、彼女だけが「誰も見ていない」と思っていた林には、

実は三体の水霊が来ていた。

ノエルの声は、練習であっても精霊を呼ぶ。


静かな午後に起きた小さな奇跡。

それを見逃さず、ただ隣で受け止めるアルドの姿もまた、

この旅の大切な一部になっている。


次に噛まないのは、きっと“偶然”ではなくなる。

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