第105話 残った約束
学院への帰路は、穏やかな秋の陽射しに包まれていた。
ノエルとアルドが学院の門をくぐると、真っ先に向かった先は、中庭の片隅だった。
あの果実の種を植えた場所が、そこにある。
門をくぐった瞬間から、ノエルの足取りは、迷いなくその方向へと向かっていた。
最初はゆっくりと、後半は小走りで駆けていた。
小さかった白い芽は、旅立つ前より一回り大きくなっていた。
まだ果実をつけるまでには、何年もかかるだろう。
それでも、確かに、育っていた。葉が二枚、しっかりとした緑色にて開いていた。
ノエルは、その前にしゃがみ込んだ。
「ただいま」
誰へともなく、そう言った。土に、そっと手を触れる。
「約束、覚えてますか。来年も一緒に見たいって、言ったの」
風が、中庭を静かに吹き抜けた。
アルドからの返事はなかった。
だが、その静けさの中に、確かな肯定があるように、ノエルには感じられた。
あの夜、審査委員会という重い山場を前に交わした約束が、今、確かに、この小さな芽という形で、ここに在り続けていた。
「来年も、その先も、ずっと見に来ます」
アルドは、その隣に立ち、静かに頷いた。
この約束は、まだ何一つ、終わっていない。
むしろ、ここから、本当に始まっていくのだと、アルドは思った。
* * *
その日の午後、街道の外れにある古い祠を、二人は訪れた。
あの日、セレスの声が届いた場所だった。
苔むした石の表面は、あの日と変わらず、静かにそこに佇んでいる。
ノエルは祠の前に膝をつき、静かに手を合わせた。
「セレス様。招集、ちゃんと行けました。約束、守れました」
声には、静かな誇らしさがあった。
祠は、何も答えなかった。
けれど、それでいいのだと、ノエルは分かっているようだった。
「テラ様にも、伝えてください。この大地は、蘇りましたよ。もう大丈夫です。約束通り、守りましたって」
風が、祠の周りを一周するように吹いた。
それが返事だったのか、ただの偶然だったのか、アルドには判断がつかなかった。
だが、ノエルの表情には、確かな満足があった。
膝についた土を払いながら、彼女は立ち上がり、しばらくの間、祠を見つめ続けていた。
* * *
学院に戻ると、練習場でマルクが型を繰り返していた。
以前と変わらない、正確で美しい詠唱だった。
だが、その合間に挟まれる任意の言葉は、もう迷いなく、自然なものになっていた。
秋の陽射しの中、彼の周りだけ、静かな緊張感が漂っている。
「戻ったか」
マルクが、手を止めずに言った。
「風の様子、どうですか?」
ノエルが尋ねると、マルクは小さく頷いた。
「毎日、応えてくれる。まだ、完璧じゃないが……」
それだけ言うと、また詠唱に戻った。
短い会話だったが、そこには、確かな積み重ねがあった。
中庭で「精霊の声が聞こえたことが一度もない」と告白したあの日から、彼は毎日、この場所で、地道に積み重ねてきたのだろう。
その姿を見送りながら、ノエルは満足げに頷いていた。
* * *
フォルクの研究室は、以前にも増して書類で溢れていた。
それでも、その混沌の中に、以前にはなかった秩序が生まれ始めていた。
壁際の書架には、新しく仕分けされたらしい紙束が、きちんと積み直されている。
「再検討委員会の活動を、正式に再開する」
フォルクは、机の上の書類を示しながら言った。
「新しい制度の骨子は、まだこれからだ。だが、道筋は、見え始めている」
三十年前に一人で提案し、棄却された問い。
その答えを得た今、フォルクの前には、新しい仕事が待っていた。
疲れた様子はあったが、その目には、確かな充実があった。
長年の沈黙の分を取り戻すように、彼の言葉には、以前よりも張りがあった。
「きっと、良いものにできると信じている。今言えるのはそれだけだ」
* * *
副学院長室では、ヴィナスが、以前と変わらぬ様子で書類に向かっていた。
窓から差し込む秋の光が、彼女の白いローブを静かに照らしている。
「規定の番人という役割は、もう終わりました」
ヴィナスは、顔を上げずに言った。
「これからは、新しい制度を作る側に回ります。再検討委員会の一員として」
その声には、これまでと変わらない平坦さと、確かな決意が同居していた。
かつてテノアの算定部門で感じ続けてきた違和感が、今、ようやく、正しい場所に向かって動き出している。
「やらなければならないことだらけですけど、遣り甲斐がありますよ」
* * *
夕方、研究室に戻ったアルドとノエルのもとに、ふわりとレイの気配が立った。
王宮の広間での一件以来、姿を見せていなかったので、久々の登場である。
窓の外には、秋の夕陽が学院の屋根を橙色に染めていた。
「全部、回収したみたいだね」
レイの声は、いつも通り軽やかだった。
「果実の種、テラとの約束、セレス様との約束——律儀な子だ」
ノエルは、少し照れたように笑った。
「もちろんです。約束は、ちゃんと守るものだから……」
「うん。それでいい」
レイの気配が、静かに揺れた。
夕陽の光の中で、その輪郭が、いつもよりわずかに柔らかく見えた。
「まだ、出会っていない神々がいる。まだ、知らない土地がある。この旅は、まだ、始まったばかりだ」
その言葉に、アルドとノエルは、顔を見合わせた。
旅の終わりは、同時に、次の旅の始まりでもあった。
窓の外の夕陽が、二人の影を、長く、静かに伸ばしていた。
* * *
「残っていた約束を、一つずつ、丁寧に回収した。
それは終わりではなく、次への土台だった」
―― アルド、学院の夕暮れにて




