第104話 無茶をしてはいけませんよ、ほんとに
王宮での神霊の声明発表から、数日が経っていた。
ノエルとアルドは、まだ王都に留まっていた。
魔術学院への帰還は、もう少し先に予定されている。
今日は、特に何をするでもない、静かな一日。王都の喧騒も、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。人々の表情には、まだ驚きの余韻が残っていたが、そこに確かな安堵も混じっていた。
宿の一室で、ノエルは窓辺に腰掛け、外の秋の空を眺めていた。アルドは机に向かい、研究ノートを整理していた。声を取り戻してから数日が経つが、まだ、ペンで書くことの方が、体に馴染んでいるところがあった。ここ三年以上続けてきた習慣は、そう簡単には消えないものらしい。
「師匠?」
ノエルが、窓の外を見たまま、声をかけた。
「はい」
アルドは、顔を上げずに答えた。
声で返事をすることも、少しずつ、当たり前になってきていた。
「実感、まだ、湧かないです」
窓の外を見つめる横顔には、これまでとは違う種類の静けさがあった。
天災を終わらせた。
リトシステムを終わらせた。
世界規模の出来事の中心にいたはずなのに、それを実感として持てないでいる。
「大きすぎることは、実感を持ちにくいものです」
アルドはそう言って、ペンを置いた。
声で話すことに、まだどこかぎこちなさが残っていたが、それでも一言ずつ、確かめるように言葉を紡いでいた。
「小さなことから、少しずつ、確かめていけばいいと思います」
ノエルは、その言葉に、小さく頷いた。
窓の外の空を見つめる目に、少しだけ、落ち着きが戻ってきているようだった。
* * *
夕方、二人は宿の裏庭に出た。
小さな庭だが、季節の花が丁寧に手入れされている。
ノエルは、その花を眺めながら、ふと足を止めた。
「師匠。私、まだ、ちゃんとお礼を言えてませんでした」
「お礼、ですか?」
「はい」
ノエルは、少し照れたように視線を落とした。
花壇の花びらに、指先でそっと触れながら、言葉を選んでいるようだった。
「ずっと傍に、隣にいてくれたので。声が出なくても、ちゃんと、隣にいてくれました」
アルドは、しばらく黙っていた。
声を持たなかった三年の月日、この少女に何度も救われてきたのは、自分の方だった。そのことを、どう言葉にすればいいのか、まだうまく整理できていなかった。
あの旅の始まりから今日まで、数え切れないほどの場面が、脳裏を過ぎった。
「それは、私の方が、お礼を言うべきことです」
アルドは、ようやくそう答えた。
声が、少しだけ震えているのが、自分でも分かった。
ノエルは、少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「お互い様、ってことですね」
「そうですね」
夕暮れの庭に、二人の影が、並んで長く伸びていた。
花壇の花が、夕風にわずかに揺れている。それだけの、なんでもない光景。
けれど、この何でもない他愛のないことこそが、これまで積み重ねてきたものの、確かな証だと、アルドは思っていた。
* * *
その夜、ノエルが夕食後、少し無理をして庭の花に水をやろうとした。
まだ完全に回復していない体で、水桶を持ち上げようとして、よろめいた。
庭の花たちが心配だから、と本人は言っていたが、まだ本調子でないことは、傍から見ても明らかだった。
アルドは、咄嗟にその体を支えた。
「無茶をしてはいけませんよ、ほんとに」
声が、自然に出た。
あの日、王都の広場で初めて発したのと、同じ言葉だった。
だが、あの時とは違う響きがあった。
あの日は、命の危機の中で、咄嗟に出た言葉だった。
今は、日常の中の、ただの小言だった。
その違いが、アルドには、なぜか嬉しかった。
命がけの言葉ではなく、ただの日常の言葉として、この台詞を、また言えたことが。
声を失っていた頃には、想像もできなかった種類の幸福だった。
ノエルは、水桶を地面に置き、少し拗ねたように言った。
「もう、平気なんですけど」
「油断してはいけません、平気だと思っている時が、一番危ないんです」
アルドがそう言うと、ノエルはますます頬を膨らませた。
だが、その表情の奥には、確かな安堵があった。
* * *
翌朝、朝食の席で、ノエルがふと思い出したように言った。
窓から差し込む朝の光が、テーブルの上のパンをやわらかく照らしていた。
「そういえば、儀式直後の夜も、師匠、喋ってた気がするんですけど」
アルドは、パンを手に取ったまま、視線を逸らした。
「気のせいです……夢でも見たのでしょう」
それだけ答えて、パンを口に運んだ。
何食わぬ顔を装っていたが、内心では、あの夜のことを、はっきりと覚えていた。
ノエルは、疑わしげな目でアルドを見ていたが、それ以上追及することはなかった。代わりに、やわらかい表情で微笑みながら、自分のスープに口をつけた。
窓の外には、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
じれったい距離は、まだ、続いていた。
けれど、その距離の中に、これまでにはなかった、確かな温度が生まれ始めていた。
声が戻り、言葉が増え、それでも変わらないものと、静かに変わっていくものが、同じ食卓の上に、共存していた。
* * *
「同じ言葉を、二度言った。
一度目は、命がけで。二度目は、ただの日常で。
その違いが、私には、何よりも嬉しかった」
―― アルド、王都の宿にて




