第106話 エピローグ:私たちの旅、本当の始まり
魔術学院の中庭には、朝の清々しい光が降り注いでいた。
ちょうど、ノエルの植えた果樹の芽が、その光を浴びて今日も天へ伸びていた。
ノエルは、革張りの新しいノートを胸に抱え、旅装を整えていた。
以前使っていたものは、詠唱の記録でほとんど埋まってしまっていたため、フォルクからの餞別として贈られた、真新しい一冊を手にしていた。
表紙には、小さく「N.B.」と刻印されている。
隣に佇むアルドは、リトの枷のない首元は、まだどこか軽すぎるように感じていた。
魔術師として世に出て以降何年もそこにあった重みが、今は消えている。そのことに、体がまだその軽さに慣れていない。けれど、それは悪い違和感ではないと思う。
旅装の背には、以前よりも軽い荷物がくくり付けられていた。
代わりに、腰元には一振りの剣が差してあった。
これからテノアという見えない重荷を背負わずに歩く旅が続いていく。
「準備、できました」
ノエルが、はきはきとした声で言った。
背筋を伸ばし、胸を張るその姿には、これまでの旅で培った自信が滲んでいた。
「今度の旅では、絶対噛みませんよ!」
その宣言に、アルドは思わず笑った。
旅の間、幾度となく詠唱の型を噛んでは少し赤くなっていた彼女の顔を思い出す。
振り返ると、大事な時に緊張しては時々言葉を噛んでいた。
「期待せずに、待っていますよ」
アルドがそう返すと、ノエルは「ひどいです!」と口を尖らせた。
だが、その表情には、これまでと変わらない、明るい活力があった。
* * *
フォルクとヴィナスが、中庭から学院の正門まで向かう廊下に見送りに来ていた。
秋の朝の光が、二人の姿を静かに照らしている。
「再検討委員会の進捗は、手紙で知らせる」
フォルクが言った。表情には、これまでにない穏やかさがあった。
「新しい制度ができる頃には、また、学院に顔を出してくれ」
「わかりました。そのときは必ず」
アルドが答えた。
声は、もうすっかり日常のものとして、体に馴染んでいた。
ヴィナスは、静かに一礼した。
「あなたたちの旅が、良いものであるように」
短い言葉だったが、そこには確かな祝福があった。
かつて規定の番人として、二人に厳しい現実を突きつけてきた彼女が、今、心からの祈りを、静かに贈っていた。
「ありがとうございます、副学院長」
ノエルがそう言って礼を返す。
アルドも一礼をして、その場を辞した。
* * *
練習場の方から、マルクが駆け足でやってきた。
息を少し切らしているのが、いつになく普通の人間らしい魔術師の姿だった。
「もう、行くのか?」
「はい。しばらく、色々な土地を回るつもりです」
ノエルが答えると、マルクは少し間を置いてから、口を開いた。
「風の精霊が、餞別に何か持たせろと、うるさかったんでな」
彼はそう言って、小さな布包みをノエルに差し出した。
手の中には、丁寧に編まれたお守りのようなものが入っていた。細い糸が、幾重にも編み込まれている。
「風が、旅の道中を守ってくれるようにと」
ノエルは、目を輝かせて受け取った。
「ありがとうございます、マルクさん」
「礼は、風の精霊に言え。俺は、ただの伝言役だ」
マルクは、照れ隠しにそっけなくそう言ったが、その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
かつて「精霊の声が聞こえたことが一度もない」と告白していた男が、今、精霊からの伝言を届ける役目を、確かに担っていた。
別れたあとも、ノエルは時々振り返りながら、マルクへ手を振っていた。
正門に向かい歩いていく二人を、マルクは見えなくなるまで見送っていた。
* * *
学院の正門のところには、ひとりの少女が旅支度をして待っていた。
アルドが先に気づいて声をかける。
「ヴァルト伯爵令嬢、お待たせして申し訳ない」
その声に応えて振り返った少女。
特徴的な緋色の腰まで伸びた髪がふわりとなびいて、朝日を浴びてより一層輝いて見えた。
「アルド先生、元教え子にそんな呼び方はしないでくださいまし——」、と正面を向いて続けた。「私のことは、今までどおり、クラリッサとお呼びください」
「では、そうさせてもらいましょう、クラリッサ。さあ、ノエルご挨拶を」
アルドの後ろに控えていた、ノエルがぴょこんと前に進んで自己紹介をする。
「初めまして、クラリッサ様。ノエル・ブライトガーデンと申します。ご一緒出来て、嬉しいです!」
その言葉に、クラリッサは少し面食らった。
自分は監視役として同行することになる、煙たがられるだろうと思っていたのだ。
だが、さすが伯爵令嬢。そのことは顔にはおくびにも出さずに、平静を装う。
「こちらこそ、ノエルさん。私のことは単に、クラリッサと呼んでちょうだい」
これから、長い旅路を一緒に過ごす仲間として、クラリッサはノエルとの距離を少し縮めておきたかった。貴族と平民出身という身分差を意識してほしくなかった。
ノエルはしばしの間、悩んで固まっていたが、逡巡したのち、答えにたどり着いたようで、ぱっと明るい表情を浮かべて、こう言った。
「じゃあ、失礼して、『クラリッサさん』とお呼びしてよろしいでしょうか」
そんなことに、しばし悩んでいたのかと思うと、可笑しくなって、クラリッサは笑いながら答えた。
「ええ、いいわよ。よろしく、ノエルさん」
「はいっ! 楽しい旅にしましょう」
先ほどまで気構えていた自分が馬鹿らしくなるほど、ノエルの対応は想定外だった。でも、気持ちのどこかではほっとしていた。父の命とはいえ、ノエルの詠唱を間近でみたもののひとりとして、これからの旅はきっと——そう、あのグランド・アリア発動のときから、私が一番楽しみにしていたに違いないのだから。
「そうね。いい旅にしましょう」
そこで、アルドがひとこと尋ねた。
「クラリッサ。ちなみに荷物はそれだけかい?」
実はクラリッサは旅の装いをしてはいたのだが、その出で立ちには、少し違和感があった。
傍目から見ても、これから広大な世界へ踏み出そうとする大人の準備というより、妙に控えめというか、近所に出かけるくらいの規模感の装備、荷物だった。
「はい、先生。私、必要なものをそろえて参りました。なにかおかしいですか?」
「いや、妙に少ないなと思いまして……」
「大丈夫ですよ。足りなければ、旅先で買えばよいのです」
自身たっぷりに、そう宣言するクラリッサ。
アルドはその発言に少し、不安になったが、言わないでおいた。
「そうですか。では、出発しましょうか」
「さあ、行きましょう! クラリッサさん」
ノエルはクラリッサの手を引いて、門を出て行く。
「ノエルさん、お待ちください……そんなに急がなくても」
その強引さに戸惑いながらも、少しワクワクしているクラリッサだった。
* * *
街道を歩き始めてしばらくすると、傍らに、ふわりとレイの気配が立った。
「準備万端、って感じだね」
「はいっ! レイさん」
ノエルが元気よく答えた。
「まだ、出会ってない神々、たくさんいるんですよね」
「たくさんいるよ」
レイの声は、いつも通り、軽やかだった。
「北の海には、まだ誰も詠唱を届けたことのない海霊がいる。南の砂漠には、気難しい砂の大精霊がいる。世界は、まだまだ広い」
その言葉に、ノエルの目が、さらに輝いた。海の精霊、砂の大精霊——まだ見ぬ存在たちの名前を聞くだけで、胸の奥が高鳴るのが分かった。
「その子が、例の監視役かい?」
ふと、ノエルの傍らにいるクラリッサに目を止める。
「レイさんっ、ちょっとその言い方!」
ぷくっと頬を膨らまして、レイを指さしけん制するノエル。
そっとその肩に手を添えて、クラリッサが答えた。
「いいのよ、ノエルさん。確かに私は貴族院から派遣された『監視役』だもの」
「……でもっ!」
クラリッサは、ノエルの反応が嬉しかった。ゆっくりと首を振って、レイを見つめた。
「初めまして、高位精霊殿。私は、ヴァルト伯爵家のクラリッサと申します。以後、お見知りおきを」
「うん。覚えておこう。ヴァルト家のクラリッサ。ノエルと仲良くしてくれ」
「仰せのままに」
胸に右手を添えて、クラリッサが応える。レイは満足そうにそれを見つめ、ふたたび高空へ飛び立った。
「それじゃあ、行きましょう! 師匠、クラリッサさん、レイさんも!」
アルドは、静かに頷いた。声を出さなくても、その頷きだけで、十分に伝わることを、これまでの旅で知っていた。だが、今は、声でも答えたかった。
「ええ、行きましょう」
その一言に、ノエルが振り返り、満面の笑みを浮かべた。
街道の先には、まだ見ぬ土地が広がっている。
声を取り戻したアルドの足取りは、以前よりも軽く、確かだった。
リトの枷という重みを失った体には、かつての全盛期以上の魔力と、剣技の冴えが戻っていた。
学院で教授として教鞭を執っていた頃の自分を、遥かに超える力が、今、この体に宿っている。だが、それを誇るでもなく、ただ静かに、隣を歩き続けた。
レイが、三人の頭上を、楽しげに飛び回っていた。
呆れたような、それでいて確かに嬉しそうな気配だった。
旅は、まだ、始まったばかりだった。
規定という枠を超え、精霊たちの声に耳を傾け、まだ誰も出会っていない神々を訪ねる旅。師と弟子として始まったその歩みは、今、新しい意味を帯びて、これからも続いていく。
三人と一羽の影が、街道の先へと、長く伸びていった。
* * *
「ノエルとアルドの物語はこれで終わりではない。
声を取り戻した男と、約束を守り続ける少女、
そしてもうひとり。精霊が見えない少女を仲間に加え、
彼らが古代詠唱魔術を世界へ広げるための旅が、ここから始まる」
―― レイ、旅のはじまり、街道にて




