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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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メリリー

 いつかお前にもお迎えが来るんだからさ、と言った母親の言葉を一樹は擦り切れたテープを再生するようにして頭の中に思い浮かべた。いつだって再生出来る、まき戻す必要なんてない便利なテープだった。A面には母親の、いつかお前にもお迎えが来るんだからさ、というしゃがれた声がメビウスの輪みたいにして録音されている。B面には五歳の頃、母親とまだ当時は父親だった男に連れられていった東京の郊外にある動物園の鳴き声が入っている。雨が降っている日にはワライカワセミの声が煩かった。雲ひとつない晴れた日にはアフリカゾウが地面に嫌がらせをするようにして声を出した。子供が綿菓子をちぎって投げたみたいにある晴れと曇りの中間みたいな日にはアフリカゾウが行儀良く整列しながらオアシスに向けて歩いている間をフラミンゴが自慢げに飛び跳ねている。珍しく雪が降った日があるとしたら、その日は動物園が休みの日だった。そういう日には一樹は決まってベッドの中でタオルケットに包まりながらオナニーをするのだった。もっとマシな番組はやってないの、とメリリーが言う。一樹はいったい何がマシなのか判らないよ、と射精し終わった後の白濁した液体を手につけながらティッシュを探している。あら、それ美味しそうじゃない、メリリーが一樹の手をつかもうとしたが避けるようにして一樹が腕をくねらせた。大事なものをつかみ損なったようにしてメリリーが泣き出した。部屋の隅では、頭が痒い頭が痒い頭が痒いと譫妄している淳子が両手の指先を頭皮に突き立てるようにして振動させてる。その動きに合わせて淳子の自分で切って不揃いのままになっている薄茶の髪の間からふけが舞い散る。乾燥して頭皮から剥がされた白いそれらが舞うのを見て一樹は綺麗だと感嘆する。メリリーが、新聞はないの新聞はと一樹に擦り寄ってきたが、そんなものは無いと一樹が撥ね付けた途端に床へ寝転がりテレビのチャンネルをひとつづつジャミングしていく。そのうちに試験放送でながしている、原色の長方形がいくつか具合良くブラウン管の中に納まっている画面のままにしてメリリーは寝てしまったようだった。

 ティッシュで自分の精液をふき取った。その汚れたティッシュを部屋の真ん中にあるゴミ箱へ放物線を描くようにして一樹が放ると、ゴミ箱に入るほんの手前で淳子が弾いてしまった。一樹は仕方がなく歩いてゴミ箱に近づいてゴミ箱の脇に落ちているティッシュを摘んでから中に入れた。ゴミ箱は上から覗くと、まるで井戸のように見えた。一樹が丸めたティッシュを中に落としても何一つ音がすることはなかった。一樹は、どれだけ底の深い井戸なのだろうかと勘繰った。どれだけ待てば、井戸の底に溜まっている水にティッシュが落ちる音が響くのだろうかと、ティッシュの重量と井戸の深さから計算することは出来ないのだろうかと試算した。しかし、いつまで経っても井戸の底から音が響いてくることはなかった。代わりに聞こえてきたのは、いつかお前にもお迎えがくるんだからさ、といった母親の言葉だった。井戸の奥深くから一樹の耳朶に、鼓膜を刺激する声に一樹は恐ろしくなった。まだ来ない、来やしないさと独り言を口から出していた一樹を指差して淳子が笑いたてた。人差し指を一樹に差し向けていた。身体を小刻みに震わせていて、その度に身体に振っていたふけが揺れながらフローリングの床に落ちていくのが一樹の視界に入ってきた。一樹はスチール製のゴミ箱を手にとって逆さにした。さっき入れたばかりのティッシュや、精液が入ったままのコンドームや煙草の吸殻やポテトチップスの袋や半分残っていたビールをゴミ箱の中に垂れ流した空き缶やメリリーの靴下や水道の蛇口や真ん中で縦に切られた水色のゴムホースや洗い立てのバンダナやグラビアだけが切り取られた週刊誌や赤い色をしたマグネットや100BASEのケーブルやマウスパッドや時計の電池や昨日の夜に淳子が自分で切った髪の毛の束やカフスボタンや三年以上レンタルしっぱなしのビデオやテレビのリモコンが絨毯も何も敷いていないフローリングの床に耳障りな音を立てて落ちた。ライオンの雄が鳴いた。一樹はゴミ箱から落ちてしまったゴミの山を、サッカーのボールをゴール右隅に決めるときのイングランド代表キャプテンのようにしてインサイドキックで蹴った。ゴミの中にあったテレビのリモコンがメリリーの頭に当たって、いったあいとメリリーが眠りから目を覚ました。ああ、こんなところにあったじゃないのと宝石を触るような手つきでリモコンを撫で回しているメリリーに向かって、それはもう捨てたテレビのリモコンだよと言いながら一樹は逆さにしたゴミ箱を淳子の頭にかぶせてしまった。嬌声をあげながら、暗いわ狭いわ息が苦しいわとチンパンジーみたいにして両手と両脚を交互に叩いている淳子のゴミ箱をかぶった頭に一樹は拳をぶつけた。

 痛いじゃないの何するの怖いよ、とゴミ箱の中で淳子が叫んだが、スチール製の円い縦長のゴミ箱の中で反響してしまい、一樹にはくぐもって、蟷螂の雌が交尾が終わった後に雄を食べるときのムシャムシャという音にしか聞こえなかった。一樹はさっきゴミ箱にぶつけた右手を見てみた。指の付け根のところが赤く腫れていた。それほど強く殴った気はしなかったのだがと訝った一樹に、これ早く外してよ外してよ、あたしたい焼きが食べたいわ頭から尻尾まで餡子がぎっしり詰まったやつよ頂戴早く頂戴とせがむように先ほどから叩き続けている両手と両脚が出来損ないのメロコアみたいな拍子に音を奏でだした。拍子に合わせるようにして一樹は右手、左手、そして今度は踵で踏み抜くようにしてゴミ箱をかぶった淳子の頭を打ち付けた。スチールのゴミ箱はリズミカルに音を奏で始めた。淳子の足が動かなくなって、次に手が一度震えてからだらりと床に落とされてからも、一樹が奏でるリズムは変らなかった。まるで淳子から教えを受けて立派に独り立ちをしたミュージシャンのようだなと一樹は考えた。草を食べて何度も繰り返し反芻するシマウマみたいにしつこく殴り続けた所為か、淳子の被ったゴミ箱は元が円かったとはとても類推出来ないほどに拉げてしまった。ゴミ箱の表面には後背位で性交をしている男女がデフォルメされているイラストがプリントされていたのだが、その二人はいつの間にか更に複雑な体位で絡み合っていた。ゴミ箱の下、ちょうど淳子が見え始める咽喉仏のあたりから、血が幾筋も流れている。一樹はゴミ箱を両手に持って淳子から脱がそうとしたが、へこんだ部分が淳子に突き刺さっているのか、それとも中の淳子の顔が腫れあがっているのか外側からは知りようもないが、兎にも角にもゴミ箱は淳子の頭から離れなくなっていた。そのまま、血だらけになったゴミ箱の中で、首筋に血を垂れ流しながら淳子が、いつかお前にもお迎えが来るんだからさ、と言ったような気がした。一樹の耳には、その声は淳子の声でなくて、あのとき布団の中から枯れ枝のように細くなった右手をやおら差し出した母親の声のように聞こえた。一樹の足元から無数の蟻が這い上がって、やがて背中の辺りを這いずり回るような感覚を覚えた。一樹は両手を背中に差し向けて蟻を払うような身振りをした。また淳子が一樹を指差して嘲った。一樹は両手の動きを一旦止めて、ゴミ箱をかぶったままの淳子の頭部に脛を叩きつけるようにして蹴った。淳子の頭は一樹の脛とモルタルの壁の間で無数の振動を繰り返した。除夜の鐘のように金属製の音がするかと思った一樹は、鈍い音と淳子の爬虫類が道に迷って困ったときに出すような声を聞いて幻滅した。テディベアのように両脚を投げ出し両手をだらりと床に垂らして、背筋を伸ばしたままゴミ箱をかぶった淳子は五秒ぐらいそのままの姿勢でいた後に、壁に背中を預けながら右横に倒れていった。律儀にも床に横倒しになったままでもなお、テディベアの姿勢を保ったままだった。きっと曽祖父から代々伝わった家訓で、テディベアの姿勢を真似しながら生きていくように躾けられていたのだろうと、一樹は淳子に同情したので、わき腹の辺りを踵で踏んだ。淳子は何も言わないし、どこも動かなかった。

 あはははははは殺っちまったねえ、とメリリーが騒ぎ立てた。そうらあんたもあたしらの仲間入りだようと言った。一樹が不思議そうにしてメリリーを振り返ると、メリリーはそこに居なかった。あははははいつかお前にもお迎えが来るんだからさ、と言ったメリリーの声がまた後ろから聞こえた。一樹には、今度は母親の声ではなくて間違いなくメリリーの声に聞こえた。しかし不安だった。一樹は、果たして自分は母親の声をしっかりと憶えているのだろうかと、心中穏やかではなかった。もしかしたら、と一樹は仮定する。自分が母親の声を憶えていないのと同じように、メリリーの声をそれがメリリーのものだという判断することが自分には出来なくなっていたとしたら、いま後ろから聞こえる声はメリリーのものであって、そして母親のものでもあると言えるのではないのだろうか。途端に恐怖に駆られた一樹は、声の聞こえる後ろを振り向くことなく、ベランダへ出るための窓へ走り寄った。ラッチに掛かっている鍵を外して、窓を開けた。外の湿った空気が室内に流れ込むときに、一樹の身体に一瞬だけ触れていくような肌触りがあった。時間は判らなかったが、住宅地の屋根屋根の向こう側に夕日が見えていた。いや、あれは朝日だろうか、いずれにしても太陽が沈む直前か昇った直後のようだった。一瞬だけ目が眩んだ一樹の背中にメリリーが張り付いた。逃げるのあたしから逃げるの逃げようったってそうはいかないんだからあたしあんたを放さないよ放さないんだからと咽び泣くようにして一樹の背中に顔面を押し付けたまま左右に振っているメリリーを背中に感じながら一樹は途方に暮れていた。これは夕日なのか朝日なのか。もし夕日だったなら自分の右胸が開いて肋骨が触手のようにして這い出てきて、肋骨は自分の足のように蠢いて自分はうつ伏せのまま移動が出来るようになるに違いないと一樹は信じていた。朝日だったとしたら自分の左胸が開いて肋骨の間から心臓が動脈と静脈の血管を引っ張りながら、血管が切れる直前まで外に出てきて自分の心臓が中に浮いたままタップダンスを踊るはずだった。タップダンスはこの前に路上でタップダンスを踊っているキューメイル・ザザというイラン人に教えてもらったから安心なのだった。要領さえ身体で覚えてしまえば簡単なものなのである。だから一刻も早く、自分の目の前で橙色に滲んでいる太陽が朝日なのか夕日なのか見極めなければならないという焦りから一樹はベランダの手摺を力いっぱいにつかんで、背筋を伸ばして天を仰ぐようにして顔を上げると、鮭が産卵の為に河を逆流するように反った。これはタップダンスを教えてくれたイラン人のキューメイル・ザザの友達でクロアチア人のユーベリタンビッチから教えてもらった秘法だった。こうすることによってクロアチア人たちはいま出ている太陽が夕日なのか朝日なのかを判別するのだと一樹に指南してくれたのだった。ユーベリタンビッチは一樹に太陽の判別方法を伝授した三日後に不法入国で逮捕されてどこか南の国に送り返された。他の外国人たちは、あいつは神様への祈りが足りなかったのさと言った。一樹が外国人たちに、神様って誰と聞いたところ、口々に別の神様を喋りだして、いやそれは違うお前のは神様なんかじゃねえだといざこざが始まったのを遠巻きに見ていた赤軍兵士が機関銃を乱射した所為でその外国人たちは全員身体中に数え切れないほどの穴を開けたまま自分達の国に帰ってしまった。直行便が無い国の外国人はいったん大阪に行ってそれからまたここに帰ってきてから出国しようとしたところ、神の怒りに怯えた哀れな子羊たるリ・パクチョンという朝鮮人に殺されてしまった。リ・パクチョンはそのまま地面に潜って母国に帰っていったようだった。リ・パクチョンは国に帰ったら一樹に手紙を出すようなことを言っていたが八年経ったいまでも手紙はきていない。ばっかだねえ、とメリリーが僕の耳元で囁いた。濁ったバナナジュースみたいな口臭だった。何が馬鹿なのと一樹は訊いた。こうやるのよとメリリーはまるで見本みたいに鮭が河を逆流するときのように跳ね上がって、ベランダの手摺を越えていった。数秒してから生卵が落ちて割れたような音が一樹のもとにも聞こえた。一樹は手摺から身を乗り出してみると、はるか遠くの地面には両手と両脚を丁寧にそれぞれ間接とは逆の方向へ曲げて、半分千切れてしまったような腹部から内臓がはみ出ているのに笑った顔が張り付いたようなメリリーの屍体が転がっていた。

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