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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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ユー・メイク・ミー・クライ

 上川伶奈はプロの歌手を目指している女の子で、僕よりも三つ年下だった。二年前にアルバイトしていた映画館の案内員で一緒に働いていた。伶奈が辞めたのは僕よりも一ヶ月だけ前のことで、お別れの記念にみんなで寄せ書きをした色紙に、ビートルズの「レット・イット・ビー」の意味を取り違えて書いて、怒られたことがある。

 私鉄と国道が平行して都心に向かっていて、もう一本の私鉄と交差している場所の駅の近くに伶奈が住んでいることを知らないわけではなかった。ただ、僕が引越しをするときにこの街を選んだのは単純に交通の便が良かったからであり、伶奈の事を思い出したのは慌しい引越しもひと段落ついた頃だった。

 メールアドレスが変わっていなければ良いな、と軽い気持ちで同じ街に引っ越してたことを伝えるメールを送った。五分も経たないうちに伶奈から電話がかかってきた。

「いま、バイト終わったところ。会いたいな。ご飯食べたいし」

 電話口でも相変わらずの声だった。ハスキィで妙に女っぽくて、踊るような喋り方をする女の子だった。用事も無いことだし僕も昼から何も食べていなかったので駅前で待ち合わせて食事をすることにした。僕の部屋から駅まで五分。線路沿いの道を歩きながら二年前の伶奈を記憶の中から掘り起こそうとして、途中で止めた。急に、失礼な事のように思えてきたから。

 伶奈は僕よりも早く改札前にいた。会社帰りの人たちが自動改札から流れ出てくる時間帯だったけれど、その中で伶奈はどうしても目立ってしまっていた。なにより僕は彼女の服装に目を丸くした。

「すごいね、その恰好」

「バイト終わってそのままだから、いいの部屋近いし」

 伶奈は飲食店の厨房の中で着る白衣と、下には擦り切れる一歩手前のジーパンを穿いていた。そういえば、こんな恰好をして歩くのも別に気にしないような女の子だった事を思い出して僕は苦笑いをする。

「じゃあ行こうか、越してきたばっかりで店、知らないんだけど」

「うん、あたし、お金無いよ」

「ファミレスかなんか、あるでしょ」

 僕は駅へ来る途中で線路沿いにファミリーレストランを見つけていた。「そこでいいよ」とだけ僕へ言って伶奈は先に歩き出した。マイペースなところは昔と変わらなくて、変わった事といえば髪の毛が伸びて少しだけ大人っぽくなっていた。バイトをしていたときと変わらない黒髪だった。多分、彼女が踊ると、黒髪が軽やかに舞うのだろうと想像する。

 ファミリーレストランへ入って、僕はピザを頼んだ。彼女はビーフステーキのセットを頼んで、料理がテーブルに置かれるやいなや無言で頬張るようにして食べ始めた。僕は店員に二人分のカクテルバイキングを頼んで、伶奈と自分の分のジントニックを作ってテーブルに置いた。その頃には伶奈は料理を平らげていて、コップの水の御代わりをしていた。

「これ」

「あたし、払わないよ」

「いいよ別に」

「ありがと」

 グラフに口をつけながら伶奈は僕を見た。唇の端にステーキのソースが付いていたけど黙っていた。

「松石さんとか島田とか、連絡取ってる?」

 松石さんも島田も、美術館でアルバイトをしていたときの仕事仲間。仕事柄で女性が多かったなか、この二人だけは僕と同じ男だった。

「あたし、ジントニック嫌いだな」

「次は別の持ってくる、何がいいの」

「連絡取ってないよ。他の女とも、あれから会ってないし話しもしてないな」

 伶奈は嫌いなはずのジントニックを飲み干してテーブルに置いた。

「いいよ、あのバイトの事は、話したくない」

 それから互いの近況を話したり、伶奈の彼氏が株で成功して大金持ちになった話を聞いたり、したくないはずのバイト時代の恋愛の噂話などをしながらお酒を飲んでいた。時間が経つのは早く、気が付けば席に着いてから三時間以上経っていた。時間に比例して酒量も増えた。もともとお酒に強くない伶奈は、既に頬を赤く染めて、眼つきが怪しくなっていた。飲み会がある毎に彼女を介抱していたのは僕であり、それなりに異性に見られたくないであろう場面も見たことすらあるのだった。だから僕は少しだけ警戒をする。

「もう出ようよ」

「やだ」

 椅子に座ったままの伶奈をそのままにレシートを持ってレジに行く。代金を払って席へ戻ると、伶奈はテーブルに両手を重ねて突っ伏していた。

「出るよ」

「うん」

 昔の経験から言うと、一旦大人しくなった伶奈は、その後に気持ちが昂ぶってしまうらしく、大抵はしゃぎだす。このときも多聞に漏れず線路沿いの道を、鼻歌交じりでスキップしながら歩いていた。

「部屋、どこなの。送るからさ」

「はあ?」

 この世で一番信じられない超常現象が、ちょうど目の前で起こってしまったような顔つきで僕を見た伶奈は、構わずに先へ進んでしまう。進む方向には僕の部屋があるアパートがあった。大まかな場所は世間話の中で伝えていたから知っていたのだと思う。部屋まであと五十メートルくらいのところまで来ると、伶奈は「どこ? どこにあるの?」と大きな声で叫ぶ。もう日付が変わる寸前の時刻で、近所迷惑になったのは間違いなかった。僕は彼女と比べたらジャンボジェットと紙飛行機くらいの違いがある小声で、静にするように言いながら彼女の手を取ってアパートの前まで来た。僕のアパートは、アパートと呼ぶには前時代的すぎて、たとえば何某荘だとか呼んだほうが真っ当な感じがするアパートだった。

「汚いとこだけど、どうする、入ってくの?」

「へえ、いいじゃんいいじゃん」

 僕が扉を開けると、伶奈は僕の後に身体をくっつけるような距離で部屋に入ってきた。木造で土壁で和式便所で畳が六畳のワンルーム、家賃を値切るだけ値切って住むことに決めた部屋は、どうみても女の子を連れてくるような部屋なんかじゃなかった。

 引っ越してきたばかりの片付いていない部屋。炬燵と敷きっ放しの布団と未だ中に本が入っていない本棚とダンボール箱の山がインテリアだった。冷蔵庫からお茶のペットボトルを出して、ひとつしかないコップにお茶を入れて伶奈に渡した。僕はそのままペットボトルに口をつけて飲んだ。特別に話をするわけでもなく、しばらくの間ふたりで黙っていた。そして伶奈がキスをしてきた。軽く、唇が一秒の三分の一くらい触れ合うだけのキス。

「……酔ってるでしょ」

「酔ってますよ、悪い? 酔ってちゃいけないかな」

 舌足らずの伶奈を抱えるようにして布団に寝かしつけた。白衣が部屋の蛍光灯の灯りに照らされると、油汚れで染みがいくつもあることに気が付いた。僕は伶奈が仰向けに寝ている布団の傍に座って、染みの数を数えていた。ちょうど七個目くらいで「してもいいよ」と彼女が言った。僕は一度だけ伶奈の彼氏に悪いからと断った。それから染みを数えるのを諦めて白衣を脱がせた。少しだけ苦労して下着を脱がした。それから生まれたての馬が立ち上がるように不器用なセックスをした。突然のことだったのでコンドームは無かった。蛍光灯を消すのも忘れた。久しぶりだった所為なのか、伶奈の中に入ってからすぐに射精の気配を迎えた。慌てて傍にあったティッシュを取り出して射精した。

「……もう、終わったの?」

 最中に一度も声をあげなかった伶奈がいつもと変わらない口調で言う。

「うん、ごめん」

「なにが」

 布団から身体をあげた伶奈は下着とジーパンと白衣を着た。伶奈が着終わったあとに僕も服を着る。それから部屋へ来たときの続きみたいにして、炬燵を間に挟んでお茶を飲んだ。コップに口をつけたままだった伶奈が、ふと、視線を宙に彷徨わせる。僕は伶奈の視線の先を追ったけれど、そこには何もなくて、あったとしてもつまらない男が住み始めたつまらない部屋の木で出来た天井くらいしかあるわけなかった。

「この前さ、前って言っても、まだバイトしてて、もうすぐ辞めようってときなんだけどな」伶奈は天井を見上げながら言った。「松石さんにやらせてくれって頼まれてさ、どうしてもって泣きそうになりながら言うわけ。そこまで言われたらさ、そういえばあの人、仕事してたときも人に見られないようなところであたしに抱きついてきたこともあったよ。別にあたしだって嫌いなわけじゃないし、ホテルくらい付き合ってあげてもいいかなって思うじゃん。それでさ、ホテル行っても結局やらないの、あの人、セックス。やらないっていうか、最後までやらないのかな。あたしだけ裸にして、ずっとあたしの身体を舐めてんの。それこそ隅から隅までって感じで。それでお終い。他にはなあんにもしないで、ベッドの上で土下座してさ、ごめんなごめんなってずっと謝ってたな。あたし面倒くさくなったから口でしてあげたの。そしたら直ぐにいっちゃって。結構巧いんだよ、あたし」

「それは知らなかった。全然わからなかったよ」

「そりゃそうよ、みんなには言ってないし。松石さんだって美里ちゃんて彼女がいたじゃん」

「灰皿、これ使ってよ」

 さっきから煙草を吸いたそうにしていた伶奈の前にステンレスの灰皿を置いた。伶奈はセーラムのボックスから一本取り出した。ライターで火を点ける。気持ちよさそうに肺に煙を吸い込んでから、口先をすぼめて上向きに紫煙を漂わせた。締め切った室内に逃げ場の無い煙が充満しそこねて霧散していく。

「島田くんとも。いっかい家に泊まりに行ったことあって、目黒だったよ。で、そこで一晩だけ泊まって、口だけでしてあげてた」

「あいつなんて言ってた?」

「気持ちよかったって、言ってたな。じゃ、帰る」

 言って伶奈は立ち上がった。玄関へ向かおうとした伶奈に後ろから抱きついた僕は、お互いに上半身だけが布団に乗るような恰好で床に倒れこんだ。伶奈が電気を消してと言ったので今度は蛍光灯を消した。そして白衣を脱がさないで、前戯もなしで伶奈の中に入った。しばらく腰を動かしていると伶奈が喘ぎ始める。カーテンの越しに入ってくる夜の薄明かりに伶奈の顔が映し出されていて、僕はとても綺麗に感じた。

 僕は畳の上に膝を立てる姿勢だった。そのうちに膝が痛くなってきたので少しだけ体勢を変えた。伶奈が「もういい、止めて」と声にした。僕はなぜか素直に従って伶奈の中から出てティッシュを二枚抜いてそこへ射精する振りをした。実際は何も出てこなかった。収まるのをしばらく待ってから伶奈へ視線を落とす。彼女は目をつむっていた。

「眠いな」

 とだけ言って、伶奈は掛け布団を被ってしまった。ジーパンは穿かずに下着だけを身に着けた。僕は彼女の隣で眠ることにした。正確な時間は判らないけれど、もうじき朝が来るような気配を感じた。伶奈は太平洋戦争のときに南の島の崖から飛び降りた自殺者のように両手を真上に上げて寝ている。それを横に見ながら、僕は眠れなかった。

 起きたのは正午過ぎで、僕が起きたのは擦り剥いた膝の傷が痛んだからだった。部屋には薬も絆創膏もなかったから、そのままにしておいた。伶奈は僕の傷を見て「馬鹿だね」と笑っていた。その後に「ふたりとも」と付け加えたのは、どういう意味だったのだろうか。未だに僕はわからない。シャワーを浴びて、ふたりで一緒に部屋を出て、コンビニでジュースやお菓子を買って、それから駅前で別れた。伶奈の部屋まで送っていこうとしたけれど、彼女は頑なに拒んだ。部屋を知られたくなかったのかもしれない。それは少し寂しいことだった。

 僕と伶奈が同じ街に住み始めてから三年の月日が経った。あれから僕は何度か伶奈にメールを送ったけれど返信はなかった。電話をしても留守電にメッセージを吹き込んでも、音沙汰無かった。それほど広くない街中で伶奈に偶然出会うことも無かった。もしかしたら、伶奈は引っ越してしまって、この街にはもう住んでいないのかもしれなかった。多分、あのときの再会が最初で最後の再会で、僕と伶奈の歩む道はこれからの生きていく中で決して交わる事が無いのだろうと思う。

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