恋人バトン
「言葉というものは人々の頭に滲透して限りなく多様な抵抗を受ける電流の様なものだ。この抵抗こそ言葉というものの現実的な意味である。抵抗を少しも受けない言葉は、必ずしも人間の口から発音される必要はあるまい」と、小林秀雄は『Xへの手紙』の文章中に記している。ならば僕は、せめて彼女の頭に、何かしらの痕跡を残すことが出来るように言葉を紡ぎたい。それは僕が、彼女にとってただひとりの僕であったことの道標となってくれることを願うから。何にもまして、僕が彼女を抱き続けることが、抱くということが僕の深奥に生じた懐疑かどうかは別にして、僕の手の中で彼女を感じられる時間が、そう遠くない近い将来のうちに途絶えてしまうのではないかという予感があるからだった。
いま僕の目の前には小さな港が見える。桟橋を背景にして、いくつかの小船が行き来している。駅から十分程度歩けばこの港へたどり着く。港にはフェリーが発着するターミナルがある。広がっている海は太平洋ではなくて日本海だ。空には、海猫だか鴎だか、烏だかしらない鳥が数羽、羽を広げて漂うように飛んでいる。その港から少し離れた場所にある、汀とは言えないコンクリートで敷き詰められた僕と彼女が居るこの場所は、公園と呼ぶには狭すぎて、単なる歩道って感じでもない、曖昧なところが気に入っている。そこにあるベンチに僕と彼女は座っている。後ろにある銀杏がちょうど良い木陰を作って、秋にしては強すぎる日差しから僕と彼女を護ってくれている。そう、もちろん僕の傍には彼女がいる。彼女は僕の傍らで安心しきっているのか、身体を折り畳んでいて、僕にその顔を見せてくれていない。そんな彼女を横目に見ながら、僕は彼女へ向けた手紙を綴っているのだった。いつの日か、その時にはもう僕の手の届かない場所にいるだろう彼女が、この手紙を読むことを願いながら。
1.今付き合ってる恋人はいますか?
僕の一日は、それが晴れた日だって、曇りの日でも、雨が降っている日だったとしても、言い換えれば毎日が、彼女の声で始まるのだった。
「ねえ、起きてよ」
彼女はいつもそうやって僕を起こしてくれた。僕はそれまで、それまでというのは彼女と出会う前まで、起きることは苦痛だったし、眠りから覚めることが好きじゃなかった。どうしてか起きる瞬間が、夢の中から嫌がる僕を無理やりにでも引きずり出そうとする現実の、現実というものと相容れない受け入れられない僕に対する、過酷な仕打ちのように思えて嘆いていたのだ。
そんな僕が、彼女が起こしてくれるようになってから、真綿に包まるように、少しずつ浮かび上がっていく海中のイルカが海を抜けた刹那に見る断続的な太陽の光のように、起きられるようになった。彼女は僕が一度だけの合図で起きないことを知っている。だから僕が起きるまで何度も声をかけてくれる。僕はベッドの中で彼女の手を握り締めながら、徐々に目を覚ます。海底で溺れた僕を、人魚の彼女が海上へと引き上げてくれている絵を想像してくれて構わないし、そのイメージは間違っているとも言えない。
僕は毎朝、感謝する。彼女と糾うようにして付き合っている僕の身の上を感謝していた。彼女と恋人でいられることを、彼女と呼べるたったひとりの女性と新しい一日を過ごすことが出来ることを、それらが一日も長く続くように、僕は祈っていた。
2.その恋人と付き合ってどれくらい経ちますか?
初めて彼女と出会った日のことは忘れられない、忘れようもない。彼女と会ったのは四ヶ月前、真夏の下北沢だった。太陽が暑い日だった、蝉の声が高性能なサウンドシステムのようにして四方八方から僕の耳朶に襲い掛かってきていた。駅前では団扇代わりになる広告を配っていた。僕は思わずその団扇を手に取り、顔と首筋を仰ぎながら街中を歩いていたのだった。僕はそのころ、この日本海が見える寂れた街には来ていなかった。そして彼女と出会った。
「僕は夏が嫌いなのかもしれない」
「どうして」
「なぜって、それは夏が夏であろうとするための、全てが気に入らないから、だと思うよ」
「わたしも夏は好きじゃない」
「どうして」
「夏が秋に心変わりするときが寂しいから」
そう言った彼女の、寂しいと言いながら柔らかく微笑んだ彼女の表情を、僕はこれから夏が来る度に思い出すのだろう。どうして彼女が夏から秋に変わるときを寂しいと言ったのか、理由を訊いたことはないし、これからも訊かないつもりだった。ただ僕は、寂しいと感じる彼女の心を綺麗だと思った。それだけで僕には十分だった。
3.この恋人と付き合ったきっかけは?
「ねえ、あのとき、わたしを呼び止めたのは、なぜ」
彼女は時折こう訊いてきた。僕はその度に答えをはぐらかした。
「とくに理由なんてない」
「理由がないのに人へ声をかけられるんだ」
彼女は不満げな顔をする。そういった彼女の表情が僕は嫌いではなかった。でも、彼女の不満げで可愛らしい表情見たさに、答えをはぐらかしたわけではなく、単純に気恥ずかしさを悟られたくなかっただけだった。
僕の目に映った彼女は、他の女性たちに比べて、とりわけスマートで、シャープで、手で触れられる全てがクリエイティブに見えた。余計なものを削ぎ落とした後の美しさがあった。それは僕の目を惹きつけるのには十分すぎる理由だった。
「どうしても言えないの」
「言えないね」僕は窮すると、いつもこう言った。「いつか告白するよ、それだけは約束する」
だから僕はいま、こうして彼女へ向けた告白を書いている。
4.この恋人以外に過去にどれくらい恋人いましたか?
僕と彼女がいま住んでいるこの街の郵便ポストは、海風に曝されているせいか、塩気を含んだ空気のせいなのか、赤い色が心なしか変色してくすんで見える。ところどころペンキが剥がれているのも目に付く。駅前のロータリィから港へ向かう目抜き通りに設置されているポストは、きっと都会にあるポストよりも寂しいのだと思う。だからそうやって、色褪せてペンキを剥がして人の目を引こうとしているに違いない。その郵便ポストへ彼女が葉書を入れているのを見たことが何度もある。彼女は僕に黙って頻繁にどこかの誰かへ、便りを出している。
「いつも、誰に葉書を出してるの」
「教えない」
「随分だね、僕にくらい教えてくれてもいいじゃないか」
僕は少し不安になる。彼女と一緒に暮らしているというのに、彼女の行動の中に自分が理解し得ない部分があることが許せない、ということだろうか。それは傲慢なようにも感じられる。傲慢であるというよりも、嫉妬に近いのだろう。しかし彼女とてひとりの人間である以上、僕が知りえない何事かを持っていても不思議ではないし、それを無理やりに訊こうとするのは彼女自身の尊厳を穢すことになるのではないか、それくらいは分っていても、どうしても訊きたくなるときだってある。これは僕の我侭だろうか。
「貴方が、わたしよりも前に何人の恋人がいたか教えてくれたら」
「また、それ。気になるの」
「気にならないけど、知りたいの。そういうことって、あるでしょう」
「うん、四人か五人」
「ちゃんとした人数が言えないのね、卑怯だわ」
卑怯という言葉自体は否定出来なかった。正確な人数を言うことで、例えば五人だとしたとしても、それだけ過去の事を正確に覚えているということになれば、それはそれで彼女から苛まれるような気がしたからだ。これは、卑怯だ、卑劣だ。ただ僕に彼女へ全てを伝える勇気が無かっただけのことで、これはいまをもって彼女には伝えていない。
5.一番長く続いた恋人とはどれくらいですか?それはいつ頃ですか?
6.逆に一番短かった恋人とはどれくらい?
「じゃあ、その三人だか四人だか、五人なのだか、わからないけど」彼女は憂いの瞳を僕に向けた。彼女の憂いは、僕にとっての凶器だ。いつだって僕を不安にさせてきた。彼女はそのまま続けた。「その中で一番長く続いた人とはどれくらいなの」
これは、僕も正確な期間を覚えているわけではなかった。そもそも、人と人のつながりを、年数や時間といった単位で推し量れるものだろうか。仮に推し量れるものだとしたら、それは人間関係に対する冒涜のような気がしてならない。
それに過去に恋人がいたとして、それが、その期間が彼女にどんな影響を与えると言うのだろう。彼女は彼女なのだし、僕にとってはそれも不変なものだし、僕は彼女の過去に何があっても、いまの彼女が彼女であれば何ら気に咎めることなんてないっていうのに。
「二年、半、くらい」
「舌足らず」
「うん、まあ、それくらいじゃないかな、って」
ふうん、と彼女は口先を尖らせた。そのときに漏れた吐息を、彼女に近すぎる僕の肌は敏感に感じた。少しくすぐったかった。
「それはいつ」
「君に出会う、すぐ前の話だ」
「節操が無いのね」返すべき言葉を捜して困っている僕を尻目に、彼女は言葉を続けた。「それで、一番短かったのは、どうなの」
「一年くらいだと思うよ」
僕は放心したように答えた。よし恋人と付き合った年月が、恋人との仲の深さを表す指標となるのならば、僕と彼女はまだ四ヶ月しか経っていないわけだから、僕がいままで付き合ってきた恋人たちの中ではもっとも軽い関係になってしまう。彼女がそのように思惟しているのではないかという恐れが僕の胸を襲った。しかし、僕を問い詰め、僕を困窮させ、挙句彼女が抱いたかもしれないことへの不安を掻き立てられた僕を眺め遣り、彼女は皮相な笑みを浮かべていた。子供が母親の調理器具を隠してしまい、それを探している母親の姿を陰から覗いて笑っているような、そんな笑みだった。僕は安心してしまってよかったのだろうか。多分、よかったのだと思う。
7.恋人を色にたとえるなら何色?
その日は空に雲が見当たらない、視線を巡らせてようやく探しあててみたら海の水平線上に、うっすらと白い綿飴が浮かんでいるような天気だった。その日も彼女は午前中に郵便ポストへ葉書を投函した。晴れた日の彼女の黒髪は、日光をそのまま黒髪の上で躍らせているかのように、髪の黒色が踊るようだった。僕は彼女の黒髪を知って、黒という色の奥深さと鮮やかさとをはじめて認めるようになった。
「髪の毛を染めたことは無いの」
「染めて欲しいの」
「いや、そのままでいいよ」
なら言わないで、と言いたげな表情で僕を見た彼女の服装は、いつもと同じで、黒髪と合わせたように仕立てられた黒いワンピースと、灰色に近い黒色のカーディガンだった。
「紫外線でも吸収したいのかと思ってた」
「色は不安になるから」
「不安、黒以外の色を身に付けることが」
「カタチはいつだって同じだし変わらない、そのカタチを選べばいいのだけど、色って違うわ。わたしが色をその色として見せたいって選んでも、見る人によって、光線の加減によって変わってしまうもの。それが、厭だわ」
その時はどうして彼女がそこまで色への嫌悪を示したのか判らなかったが、後になって思い当たることがあった。彼女は自分を隠したいのではないかということ。誰にって、それは僕以外の他人からだ。もちろん黒髪のままだから黒い洋服を着ているからって僕以外の他人の目に付かないなんてことはないのだけれど、そうすることで精神的な防御を張っていたのではないかと思う。そうした受動性を持った意識的なものこそが、そうであるが故に彼女自身の意思的な表現だったということは言えないだろうか。
8.恋人との思い出があればどうぞ!
僕はアルバムを持っていない。それどころか、昔の写真を持ってさえいない。写真も、デジタルのデータも、僕というものを写したものは何一つとして無いのだった。よく言われる、思い出というものが、そういった画像としての記録、媒体を通じてでしか想起されないのは心象風景が乏しい、もっと言えば心が貧しいからなのではないかとさえ確信している。
もし、思い出を取り出すのにそういった媒体が必要なのだとしたら、僕と彼女の思い出などというものは欠片も無いことになってしまうではないか。思い出というものは、媒体に左右されるものではないはずで、僕と彼女の思い出は、僕と彼女の中に連綿として流れ続ける時の刻印によって、僕らの中に刻まれているはずだった。そして思い出というものは何かしらの出来事があって初めて記憶に残るようなものは本質的な思い出とは言えないのだと思う。きっと日々の、日常性を多用に含んだもの、他愛の無い会話の端々に感じるべきもの、手を繋いで歩いたときの温もりだとか、ベッドで感じた体温だとか、彼女の寝顔であるとか、そういった諸事に由来するべきものではないのかと僕は夢想さえしているのだった。
だから、もし僕が彼女との特別な思い出があるかと訊ねられれば無いと答えるだろうし、でも僕は彼女との思い出を持ったままこれからも生きていくことになるのだろう。この二つは矛盾しているようで、僕の身体の中では融和しているものなのだった。
9.浮気願望はある?
一度、僕が街中で他の女性に目を遣ったときに、彼女が僕のわき腹を小突いたことがある。
「なに、痛いよ」
「判らないなら、いいよ、別に、勝手にすれば」
いま思い返せば、あのとき彼女は僕が他の女性に一時でも、しかも彼女と歩いているときに気を配ったことが許せなかったのだろう。僕も男であり、審美眼的に女性を見る、観察する、そして結果として心動かされるといった欲求は人並みに蔵しているのかもしれない。ただ、これは無意識下にあるときの事象であってのことで、仮に僕が少しでも現実性に目を向けていたとするならば、そのような事はするはずもないのだ。
そして、無意識下に僕を押し下げることが出来るのは彼女だけだといことを、言明しておく必要があるのかもしれない。彼女といることによってはじめて安堵し、そして自らの意識を放逐してしまう僕にとってみれば、残ったものがよし男性的本能に基づいた行動をとったとしても、それは決して僕の企図に基づいたものではないと、強調しすぎて強調し過ぎることはない事を、ここに記しておきたい。でも、そうだな、これは、言い訳に取られたとしても、致し方ない部類に属する、妄言だろう。
ただ、僕が彼女といるときには、彼女以外を愛したことなどなかった。これは、いるかどうか判然としないけれど、もし存在するのならば、神にだって悪魔にだって誓ってもいい。況や、浮気の事実も、あまつさえ浮気をしたいなどと願望したことは一切ない。これだけは、ここに記しておかなくてはいけないことであり、彼女に伝わることを僕は念じざるを得ないのだった。
10.今の恋人に一言
こうして、僕は彼女に手紙を書いている。まだ彼女はベンチに座っている僕の隣に確たる存在として、そこに居る。ただ僕の胸に去来する、漠とした震えをともなってやってくる不安が、僕にこの手紙を書かせているのだ。
風が吹いた、海からの風だ。彼女の黒髪がたなびく。僕は彼女の髪型を整えるようにして、つややかな黒髪に触れてみる。そこには、髪を通して彼女が居て、いや髪でさえも彼女なのだとしたら、彼女は厳然としてここに居るというのに、僕の予感は彼女との別離を矢鱈に訴えかけてくる。彼女は僕の知らない誰かに、いつも葉書を出していた。葉書を受け取っている誰かが、僕らの仲を引き裂くのだろうか。彼女の行動の中で僕が知らないことと言えば、それくらいしかない、思い当たらない。果たしてあの郵便ポストから届けられている葉書は、誰の元へと向かっているのだろうか。
ただベンチに座っているだけで、眼前を時が流れていくのを認識さえ出来そうな、幸せな時間が少しでも長く続けばいいと僕は切に願う。もし彼女がいま目を覚ましたのなら、僕はきっとこう言うだろう、「何処かへ行って消えてしまわないで、変わらないで」と。多分に女々しい、言葉だ。きっと彼女に伝えることは無いだろう。この言葉を伝えること、それこそが彼女が何処かへ行ってしまう要因になるような疑念があるし、出来れば僕と彼女に齎される如何なる試練さえも超えて僕らは一緒に居るべきだという、予感とは別の決意が僕にあるからだ。
僕と彼女が住んでいるこの街には、一応と言うべきか、商店街がある。雨に濡れないためのアーケードが設えられているけれど、実際のところアーケードの下を通っている人は少ない。そもそも、街自体に人が少ないのだから、仕方のないことなのかもしれない。こうして彼女と商店街を歩いていても、開店している店を探す方が難しいくらいだ。過疎化の波を受けて人口が目減りしていくしかない街には、自ずと必要とされる店すらも無くなっていく運命なのだろう。
その寂れた商店街の中でも、唯一と言っていいほど人が入っている喫茶店がある。まだ日中にも拘らず暗い店内に人が入っているのは、この街では珍しい。大方、人が集まる店と言えばクラブだとかスナックだとか、或いは焼肉屋といった風情なのだ。港が近いことが多少なりとも影響しているのだろう。喫茶店の名前は忘れてしまった。確認しようにも店先に出ている看板は色褪せてしまって読めたものではなかったのだ。
まだ来ない将来の彼女へ向けた手紙を書き終わった僕は、彼女を起こし、店名すら分らない喫茶店の店内に連れ立って入った。この喫茶店の店長は四十絡みの男性で、ウェイトレスをしている二十台後半と思しき女性は店長夫人なのだと以前から憶測していた。きっと店に来ていた常連の客を体よく手篭めにしたに違いないというのが僕の推理だった。これには彼女も同意してくれていた。恐らく街の誰かに訊けば噂話の断片くらいは耳にすることが出来るだろう。アナログな、人口を膾炙する情報伝達が、都会と比べて驚くほど発達しているのが田舎町の恐いところなのだ。この、僕らの中で曰くありげな存在となっているウェイトレスは、僕と彼女が店内に入ってくるのを見て、カウンタの席から気だるそうにして腰を上げた。
「いらっしゃいませ、お一人様っと……カウンタで宜しいですかね」
人が疎らに散見出来る店内を見渡した後、そう言い放ったままカウンタの内側へ入って行ったウェイトレスを、僕は睨んだ。お一人様とは、失礼にもほどがあるじゃないか、あのウェイトレスは以前から僕と彼女を滅多矢鱈とカウンタの席へ案内したがっている。これは人間関係が閉鎖されている田舎町特有の外部因子の排除傾向の結果なのだろうか。兎に角、僕はウェイトレスの案内を毅然とした態度で無視をして、いつもどおり窓際にある四人掛けのテーブル席のソファに腰をおろした。僕の隣に彼女は座った。ウェイトレスがやって来た。やや僕を咎めるような顔をして「混んできたらカウンタに移ってくださいよ」と言いながら、御冷が入っているコップをテーブルに置いて去っていく。テーブルの上にコップは一つしか置かれていない。




