ハイゼンベルクの完全
「昨日なんていらない」
言ってから、わたしはウインドウを下げた。流れていく景色から空気が手を伸ばして車内に入ってきた。郊外の山中に作られた造成地を走っているせいか、心なしか都会よりも涼しく感じられるのは、気のせいだと思う。下げきらなかったウインドウの間から外を見た。それから運転席でハンドルを握っている竜也に視線を投げた。
「どうして。昨日のこと覚えてなかったら困るだろ」
彼は当たり前のことを言った。
「困らない」
「可笑しなこと、言うね」
「いいの、いらないの。昔のことばっかり覚えてたって、いま、わたしが、すべきことには、関係あるわけないんだ」
「ほらほら、それは昨日がいらないってことにはならないよ」
深海にいるウツボが笑ったような、感じがした。
そして、わたしと竜也を乗せた車はわたしの住む家に着いた。わたしはドアを開けて車から出る。竜也も降りて、車をまわって、わたしに近づいてきた。どうして世界はこんな矛盾を許すのか。
「乗ったままでいい」
「どうもね、こういうのは、さ」
「こういうのは?」
わたしが問い返しても竜也は微笑んだままの表情を変えなかった。
そんな彼を置き去りにして、わたしは家に入った。
外から車のエンジンの音が聞こえて、遠ざかって、やがて聞こえなくなった。やがて、わたしの耳には、わたしが歩く音も空気の話し声も、わたしの心臓が動く音も聞こえなくなった。わたしは手首を切って自殺した。




