スーピワンバンコ
――獣だ。
否、より正確に言葉として表現してみるならば所謂、獣ではない。夕食時にテレビで放送される動物番組などで見る、呑気に食事をしている草食動物に草叢に隠れ肉薄し迫りやがて襲い掛かって、捕食する類の獣ではない。一連の動作を決して他者に見られることはない。獲物に近づく姿は誰にも見られない。捕食する様子でさえも確認されることはない。ただ、獲物を捕食していることだけは確かな何者かの臭い。
その臭いを、たった今すれ違った男から、敦賀不由は嗅いだ。
たぶんに動物的な、いわゆる勘に属するものだが、不由は自分のそれを信じている。信じているというよりも、いわゆる堪と称される感覚が有効に働くだけの訓練をしてきた自信がある。つまるところ、堪とはなにか。人間が感知できる情報と自身に蓄えられた情報を照らし合わせて行われる類推に、指向性と確実性を持たせた結果なのだと、彼女は規定している。つまり感覚ではなく情報処理の領域なのだと。情報を処理する能力なのであれば、訓練次第でどうにでもなる。ならば、自分にそれが出来ないわけがないのだろうと。
その、通称するところの「堪」が不由に告げた。
すれ違った男が、たったいまと言っていいほどの時間差で、人間を殺めてきたのだと。
東京都の豊島区、池袋。都内どころか日本でも有数の繁華街であろう。この街はなぜか特有の色彩を持ちたがる。銀座の華やかさがあるわけではない、渋谷の若者の余ったようなエネギーが流されているということでもない、新宿のあらゆるものが凝縮した結果として混沌のようなものがたゆたっているわけでもない。不由は思う、ここは気持ちの悪い所なのだと。定まっていないのだ、否、定まっていないということさえも「定まっていない」のだ。定まっていない、極めて不安定な場所に人が集まる。すると、人の意識というのは拡散するのだ。とどまらない、それでいて街からは決して出ていかない人々の思考。
だから、気持ちが悪い、不由にとってみればやりにくい。
そういったことを考えながら、不由は池袋東口の地下から上がった階段の先にある五差路の信号を渡っていた。左にファストフードのチェーン店、右にガラス張りで店内が見渡せる喫茶店があるサンシャイン通りをすすむ。土曜日の午後三時。人間が人間としての個体ではなく、群衆として認識されてしまうような量で道を塞いでいる。すこし目線を上げると、通りの先に首都高の高架があり、その手前には東急ハンズが目に入る。その向こうにサンシャイン60が往年の高さを誇示している。たしか、ビルとしての高さは横浜のランドマークタワーをはじめとした最近建てられた高層ビルに抜かされてしまったと記憶しているが、不由とってみれば興味がない。ただ、建物が高いだけだ。建物がどれだけ高くなろうともそれはビルであって、ビル以外の何物でもない。
そのサンシャイン通りの、映画館を抜けた先の昔は駐車場だった工事現場で、獣の匂いがする男とすれ違った。自分でも驚くほど、不由は自分に対して素直に行動した。この場合、刑事としては失格だろうか。
不由はすれ違った男の手首を、まだ手が届く範囲にいるうちに、勢いよく握った。当然、男はそれまでなんとはなしに前方に向けていた顔を不由へ向ける。しかし、その目は驚いているというよりも、ただ確認をしているだけのように不由には思えた。
「えっと」
「急にすまない」不由は断りを入れてから、スーツの胸ポケットから警察手帳を出す。「いま、とある事件でいろいろとね、調べていて。君と似た背格好の男を探しているところだった」
「うん、なるほど。それで僕はどうでしょう」
「たぶん、違うね。いや、迷惑をかけた」
不由は紳士的な危険度をあげながら答える。特徴のない、さっぱりとした顔立ち。やや細身の体系。床屋で任せっきりにしたら仕上がるような見本のような髪型。意図していないのに、このようなスタイルになる人間が居るのだということは知っている。だが、それにしてもこの場合。
「君、怪しいね」
「ずいぶんな言いがかりですね」
「そうだな、それなら」不由は目を細める。「せめてそのポケットに突っ込んだままの手を見せてもらえると嬉しい」
「ああ、なんというか、こういう場面じゃなくて、あなたの職業が警察じゃなかったら喜んで答えるんですけど、しょうがない、しぶしぶ」
男は不由に視線を合わせながあら、ポケットから手をだす。そこには、なにも無かった。
「ありがという、もういいよ」
「少し強引過ぎやしません? ちょっと怒ってもよいかなと思ってるんですけど」
「怒ってもいいよ、慣れてる」
「まあ、いいか、では、お仕事頑張ってください」
男は不由は一瞥した後、通りを左折して豊島区役所方面へ歩いていった。
あの男は、いつ、誰を殺したのだろうかと、思案していた不由の携帯電話が振動した。不由の着信音は一番初めに携帯電話を買って以来「イッツ・ア・スモール・ワールド」なのだが、それを知っている知人は少ない。不由の着信音を知っていた警察を退職した昔の同僚からは「不由さんの携帯電話から聞こえると地獄マーチですね」とからかわれた。からかった彼が向かった先が地獄なのかどうか、不由は考えることをいつのまにかやめていた。
通話ボタンを押して不由は電話にでる。
「なに?」
「五件目です。ずいぶんと短期間、いやはや、すでに夏日まっさかり、節電に協力して汗にまみれて仕事をしている公僕を横目にまあ、まことに仕事熱心なことです」
電話口から無駄口をたたいているのは部下の男だった。
「場所は」
「東池袋の三丁目」一息おいて、男、山木という刑事は続ける。「恐らく不由さんがいる場所の近くだと思います」
「なんで私が居る場所知ってる? まあいいいや、細かい場所教えて」と話ながら不由は先ほどの男が進んでいった先を追いかけはじめた。馬鹿馬鹿しいことながら、と自分でも彼女は思う。自分は鬼ごっこの鬼を追いかけるだけで、決して鬼になることははないのだと。そして鬼というのは、当初は自由の身なのだとも。




