表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いまは緑色の芝生  作者: 三号


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

115/120

向上心欠落症候群

 何事も始まりなんて些細なもので、それを見逃したって、その直後になにかが変わるわけなんかじゃない。でも、結局のところ何がしかのことは始まってしまっていて、気がつけば取り巻く環境であるとか自分の中にある自身でも把握しきれていない僕を形作る固形化されたもののような、つまり僕にとっての僕だけの世界が変容してしまっているのだ。

 実のところ、僕に起こった変化について、その始まりを僕が感ずいたなんてことはない。皮肉なことに、もしかしたら健康診断を、学校にいる間に雨が降り始めて他にすることもないし傘も無いしキャンパスから出るのが億劫だっていう理由だけで受診しなければ始まったことすら気がつかなかったかもしれない。

 そもそも僕は健康診断なんて受けるつもりで大学へ行ったわけではなくて、試験前に友達から講義内容をコピーさせてもらう用事があったのと、僕が気にかけている女の子と他愛もないお喋りをするためだけに行ったのだった。僕がめずらしく一コマ目の講義を取っていたものだから早く大学へ着いてしまい、コピーさせてもらう予定だった友達もお気に入りの女の子も、月曜日の一コマ目の授業なんて取るほど奇特で真面目な大学生じゃなかったから、雨が降って大学へ来るのが遅くなったとしても僕が愚痴を言う立場なんかじゃない。

 だから雨が降らなければ僕は健康診断を受けなかっただろうし、そうしなければ何も起こらなかったはずなのだ。


 大学の学部棟の教室で講義に使われていないところをいくつか使って健康診断は行われていた。僕は受付を済ませて、そこの項目が埋まればきっと僕の健康がどのようなものなのか判るはずの用紙を片手に順路をただ歩いていった。そして身長や体重や、そして視力や聴診だとか、いままでの人生で幾度となく体験してきたものを工場で流れ作業をしている工員みたいにして済ませていった。

 いったい、身長や体重をいまさら判ったところで何が愉しいんだろう、と思う。僕らは、とうに成長期なんか過ぎていて、身長が伸びることも体重が年毎に多くなっていくことなんかあるわけないんだ。ただ確認するだけの作業。暇つぶしとしては良いけど、嬉々として用紙を見せ合っている同じ学部の学生を横目で軽蔑しながら僕は最後の受付場所へと向かっていたのだ。

 すんなり判子だとかチェックだとかを貰って終わるのだと思っていた僕の予想に反して、「古森さん、古森努さん、ちょっとこちらへ」とパーティションで仕切られた教室の一角へ連れて行かれた。

 僕が連れて来られた教室にはパイプ椅子が二脚とテーブルがあった。椅子のひとつには先ほど聴診をしたときの医者らしき人物が座っていた。特に空いている椅子に座れ、とは指示されなかったけれど空いている椅子がひとつあるということはそこへ座れということなのだろうと推測して僕は椅子に座った。するとそれが合図であったかのようにして、それまでテーブルの上に広げられた書類に目を落としていた医者は顔を上げて僕を見た。見た、なんてものではなくて、凝視した。しばらく何も言葉を発する事もなく、なおかつ視線を逸らしもしなかった医者の態度の腹を立てた僕は、

「どうしてこんなところに連れてこられなくちゃいけないんですか?」

 と訊いた。そうすると医者は視線を僕の頭の上からつま先まで、まるでスキーの初心者が山頂から少しずつ恐る恐る降りてくるみたいにして、滑らせて行った。医者はそれからため息をついた。どうしてため息なんてつくんだろうと僕は思った。もしかしたら良くない病気でも見つかったのだろうか、と健康診断のときにこんな状況になれば当たり前に頭に浮かぶはずの不安が僕を襲ってきた。

 しかし、と自分の中で考える。

 こんな簡単な確認だけの健康診断で何がわかるというのだろう。そんな重大な病気の場合には何度も検査をして、医者だって何人かに確認を取ってから病名を確定するのではなかっただろうか。確かテレビドラマでそんなシーンを見た事があった。

「詳しくは精密検査を受けなくてはなりませんが」医者は僕の考えていたことを読み取ったエスパーみたいに断りをしてから言った。「聴診だけである程度はわかるのです。おそらく貴方はアスピレーションブロークンシンドロームであります」

「アスピレーションブロークンシンドローム?」

 僕は口に出して繰り返してみた。この医者は何を言っているのだろうといぶかしんだ。わけのわからない横文字を言えば、相手が混乱するのをわかっていて愉しんでいる軽度のサディストなんじゃないかとすら邪推してしまった。僕はもう一度「アスピレーションブロークンシンドローム」とつぶやいた。医者は僕のつぶやきに対して首肯することで答えた。そしてテーブルの上に身を乗り出すようにして僕へ身体を寄せ、親鳥に餌をせがむ小鳥みたいにして口をすぼめた。

「難病なのです。国から難病指定もされている病気であります。この難病というのは発病理由も決定的な治療方法も見つかっていない病気のことなのであります。難しい病気、であるから難病なのであります。特にアスピレーションブロークンシンドロームは数百万人に一人、あるいは数千万人に一人という、発症事例も国内では珍しい難病でありまいして。や、いやいやいや、そのような不安な顔をなされぬように。決して今すぐに命のかかわるというものではないのであります」

 敬語だか謙譲語だか、軍隊口調なのかよくわかりもしない医者の話し方が気に入らなかった。だけど、それ以上に医者の言っていることが理解出来ないことが気に入らなかった。大体、病名だって片仮名では解り難いし医者が言っているのはただ僕の不安を煽るようなことだけで具体的なことは何一つとして伝わってこないのだ。難病? 僕が? 数百万とか数千万人に一人だなんて宝くじの一等前後賞よりもありえない確立の病気だって? そんなことわるわけないじゃないか。それに僕は、いま普通に生活しているし、身体的に不自由だとか不都合なことなんて何もない。そりゃちょっと体調が悪いな、なんて日はあったかもしれないけど、難病だなんて仰々しい病気を抱えているだなんて誰が信じられるものだろうか。きっとこの怪しげな医者はやぶ医者なのだろう。こうして精密検査を進めておいて、自分の病院を紹介して、そして健康体の患者から不当に料金をせしめるのだ。

「難病だなんて、信じられませんよ。僕は健康だし、どこだって悪いところなんてないです。勘違いじゃないんですか? 精密検査なんてする気はありませんから。じゃ、これで」

 肩をすくめて席を立ち上がろうとした僕の腕を医者は掴んだ。そこまでされたことに僕は驚いたし、医者が身を乗り出した所為でテーブルと椅子が大きな音を立てたので、パーティションに向こう側にいた人たちがこちら側を覗きに来た。僕は恥ずかしくなったのでとりあえず椅子に座り、何でもないんですよ、と彼らに弁解をした。どうして医者じゃなくて僕が弁解をしなくちゃいけないんだ、と不満だったけど当の医者はそれどころじゃなくて、必死に僕の腕を掴んだまま「話を聞いてくだされ話を聞いてくだされ」と例の変てこな口調で独り言を繰り返しているのだった。僕はひと息吐いて「大丈夫です、とりあえず出て行かないですから手を離してください」と医者に言った。同じ台詞を三回言って医者はようやく僕の腕を放した。

「えっと、なんでしたっけ、エスプレションブロッケンシンドローム?」

「アスピレーションブロークンシンドロームであります」

 椅子に腰を落としてしばらく医者が落ち着くまで待った。ともかく判らないことは訊いておこう、という気持ちにもなった。

「それが判らないんですよね、横文字で言われてもどういった病気なのか苦しい症状があるのかとか、身体のどこが悪いのかとかそんなの全然判らないじゃないですか」

「向上心欠落症候群なのでございます」

「向上心……が欠落? なんですかそれ?」

 僕は思わず、というよりも僕の意思どおりに笑ってしまった。向上心という言葉に聞き覚えがなかった。そんな単語はいつ教えてくれたのだろう。小学校でも中高でも教わったことないし、教科書やドリルでも目にしたことがない。きっと、難解な病名なのだろう。僕は席を立つと相変わらず僕を凝視している医者に背を向けて教室を出た。後ろから医者が呼び止める声が聞こえたが無視することにした。腕時計を見ると、そろそろコピーさせてくれる友人が来る頃合いだった。友人にいまの病名を伝えてみたい欲求にかられ、僕は足取りも軽く歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ