枯れかけの薔薇
「僕はこの時間帯が好きなんだ」
阿佐ヶ谷知良は椅子に座っている。一人暮らしの部屋には似つかわしくない、座面と背凭れが黒い色をしたメッシュで作られている、外資系のオフィスかアートがらみで働いている人たちが座っているような椅子、チェアと呼んだほうがしっくりとくるような椅子だ。座る人の姿勢に合わせて、普通の椅子よりも多くの部位を可動させることが出来る。しかし、この椅子を阿佐ヶ谷が中野坂上にある中古のオフィス用品販売店から買ってきて一年半以上経っているが、彼が動かした部位はせいぜい高さ調整をする部位だけである。それ以外の部位を阿佐ヶ谷が動かしたことはない。
彼は椅子に座り、目の前のテーブルに対して、分度器の四分の一くらいの角度で向かい合っている。部屋の明かりは消されている。だが、窓からは月明かりと、アパートの前にまるで難破船を探している船の灯りみたいにして据えられている街路灯と、線路の反対側にある小児科内科専門病院の病院名を照らし出すための灯り、それらが空気中の暗闇よりは明るい、焦げ目のないパンケーキくらいの明るさを部屋の中にもたらしてくれるために、部屋の灯りを点けなくても置かれている物の輪郭を描き出させてくれる。
「たぶん、あなたは、どうしてこの時間帯が好きなのか? っていう質問を期待してる。期待というよりも望んでる。いえ、もっと正確な表現をしようと心がけるとするなら、あなたは、わたしがそういった類の質問をするだろうと推理してる。推理? 推測? わたしにとってみれば憶測だけれども」
北千住ユリの輪郭はベッドの輪郭に埋もれてしまい、全てを把握することが出来ない。しかし声は、ベッドの方向から聞こえてくる。目を凝らせば彼女の姿としての輪郭を捉えることが出来るかもしれない。しかし阿佐ヶ谷はあえて目を凝らすことはせず、いったんベッドへ差し向けた視線を窓外へ転じた。テーブルに置かれているビール缶を手に持ち、半分くらいになったビールをさらに減らす。全体的な量から現在の量を現すと四分の一。五百ミリリットルの缶であるから、いままでに阿佐ヶ谷が摂取したビールは三百七十五ミリリットルだ。アルコール分までを計算しようとして、阿佐ヶ谷は果たしてアルコール分が何百ミリリットルでのパーセンテージなのかを失念していたために諦めた。缶に記載されている文字を読むのには、パンケーキの灯りでは暗すぎた。ユリはベッドの上で身じろぎひとつしない。
「まあ、君のその、僕に対する偏見にはこだわらないことにするよ。とにかく、好きなものを好きと叫べない世の中じゃ、ない。嫌いなものを正直に打ち明けるには、少々息苦しい世の中ではあるけどね」
「わたしは、嫌いなら嫌いって言うよ。それが自分にとって、そしてさらに相手にとっても、発展的なことだと思うし、正直ってそういうことなんじゃないかな」
「多分、みんながみんな、正直に生きていたら世の中はとっくに猿の惑星のラストシーンみたいになってるはずだ。君は猿の惑星っていう映画、観たことある?」
「ないよ」
「打ち明けると、実は、僕も観たことなんか、ない」
「あきれた。観たことないのに、ラストシーンが、わかるわけ?」
「なんていったらいいかな。その場面だけは、テレビの何かしらの特集に映っていたのか、あるいは友達とくだらない話をしていたときに耳に入った言葉のひとつなのか、それとも夜中に部屋の窓を叩く音が聞こえて眠いのに無理やり起きてから窓を開けてみるとそこにマッコウクジラがいて僕に映画のラストシーンを耳打ちしてくれたのかどうか、情報の入手経路は忘れてしまったのだけれど。でも、僕にとってみれば猿の惑星っていう映画は、だだっ広い、鳥取砂丘の五百倍はありそうな砂漠の中にぽつんと自由の女神の先っぽが、まるで電車の中に忘れられた携帯電話がシートの上に行儀よく置かれているような恰好で、映し出されてるんだ。ただ、それだけの映画。あくまで僕にとってはね」
ベッドの中に埋もれていたユリの輪郭がわずかに揺れたように、阿佐ヶ谷は観察した。
「それで、観た気分になってるのかな。もしくは自分の記憶の中で観たということに、記憶の一部分を改竄してしまったとか。よく、あるよね、そういうの。つまり、自分で自分を騙すために、自分の記憶を書き換えちゃうっていうの」
「うーん、それとは違うような気がするけど?」
「たとえば、そうねえ。ある一人の、ちょっとだけプライドが高くて、他人が検分しても気がつかないくらいに髪の毛が捩れてる男がいるとしてよ。たとえば」
「たとえば」
「そう、たとえばの、お話。その男はね、ある難しい試験を受けて、不合格になるのね。彼は、不合格を確認したとき、一緒にいた友人に、こう言うの。自分は、いままでの人生で試験や面接で不合格だったことなんて一度もなかった。だから、今回の試験で、はじめて不合格になった。そう友人に話すわけね。友人としては、まあ、優秀な人間であることは前から知っていたけど、そんなストレートな人生もあるものか、ってそれほど気にすることもなかったし、その会話もそれっきりで、蒸し返されることも友人が思い出すこともなかった。だけど、その、男が家にひとりで帰って、自分が友人に話した内容を思い出す。試験や面接で不合格だったことが無いだって? それは本当か? 彼はあらためて自分の記憶とか個人史みたいなものを遡る。すると、男の人生にだって不合格のひとつやふたつ、あったわけ。高校と大学の試験は、確かに落ちたことがなかったけど、大学四年生のときの就職活動では能力試験が不合格だったから面接すらさせてもらえなかったし、就職が決まらないまま大学を卒業して半年して、さすがに実家に住んでいて無職のままだと気が咎めたのか、面接に臨んだ地元の零細企業では、面接中も目の前の面接官に煙草を吸われて面接官から履歴書の書いた自分の長所と短所の間にある辻褄の合わない場所を指摘されて相手にされなかったり、大学時代にホテルの深夜受付のバイトを面接して採用連絡が全く来なかったり。まあ、その他諸々、いろんなところで不合格な経験をしていたのよ。彼はそれらに後から思い至って、自分で自分の中に蓄積された記憶に対する信用をなくしてしまったの」
「ふうん、だけど、どうしてその男は自分の記憶を改竄なんてする必要があったんだあろう。聞いてる分には、別に改竄しなくても都合が悪い記憶、ってわけじゃなさそうなのに」
「それはね」また、ベッドの輪郭がうごめいた。いや、それは既にもうベッドの輪郭ではない。ベッドの輪郭に支えられたユリの輪郭だ。「彼にとっては、試験や面接で不合格であったことが無い、という一点だけが、人生における唯一の誇れるものだったからよ。彼はそれ以外にはなにもすることが出来なかった。ううん、違う、当然、仕事はしていたわけだしなにかしら実務的な能力はあったはずなんだけど、それでも彼は自分でなにも出来ないと考えていた、規定していた、自分を縛っていた、動かさないでいた。その彼が他人から自分に出来ること誇れることはなにかと問われたときに、その未不合格的な自分、という虚像しか答えられたなったの。なぜ? うん、決まりきって誰だってそう疑問に思う。だけど、彼にとってみれば、自分の価値を、他人が枠に当てはめて認めてくれること以外に、見出すことが出来なかったのよね」
阿佐ヶ谷とユリの輪郭同士が、輪郭同士らしい会話を薄暗闇の中でしていたのと同時刻。国立真幌は阿佐ヶ谷の部屋から百メートルと離れていないセブンイレブンの前に置かれている灰皿の隣で煙草を吸っていた。口から吐き出される煙と、寒さからくる息の白さの見分けがつかないくらいの気温だった。彼女が立っている道は、駅前から公園へ向かう道であることから、公園通りと名づけられている。これはおそらくオフィシャルなものだろう。電柱などにも、公園通りと記された案内板をよく見かけることがある。しかしこの公園通りをまっすぐ進んだところで、公園にはたどり着くことがない。突き当たりには民家の壁があって、T字路になっていて、左右どちらからか迂回しなくてはならない。そのT字路がある方向から一台のトラックが狭い公園通りに進入してきて、セブンイレブンの前で停車した。トラックの後部が国立の立っている傍になる。車体にはセブンイレブンのマークが描かれている。早朝入荷のトラックだろう。緑色の服を着た運転手が、国立を一瞥してから後部のハッチを下げて、納品物を下ろす準備を始めた。
「ご苦労様な、ことだね。こんな朝早くから」
国立はひとりごちた。言葉とともに、息が白くもれた。手元の煙草は根元まで燃えてしまい、煙も出ていない。しばらく手に持ったままだったから、いまの白い息は、煙草の煙ではないだろう。国立は煙草を灰皿の網目でいちどだけ擦り、水がためられている灰皿の中へ落とす。蛙が池に飛び込むときの音を国立は知らない。そもそも国立は蛙を見たことがない。実物は、という意味においては。国立の地元には池なんてなかったし、あるとしたら大きな湖くらいなものだった。いまだに国立はこの世界に、池、なるものが存在するかどうかを疑ってかかっている。
人間の挙動を観察することに慣れているなら、先ほどから国立の挙動にやや不審な点があることに気がついただろう。国立はしきりと、左耳の部分に片手をやっている。そのショートヘアに隠された耳の辺りからは一本の黒いケーブルが国立が来ているハーフジャケットの胸元へと繋がっている。国立の胸元の、ハーフコートの内ポケットには、判りやすく言葉にすると盗聴器と呼ばれるものが隠されている。厳密には盗聴器が拾った音声情報を電波にしたものを受信する機械、だった。国立が煙草を捨ててから、セブンイレブンの前を離れる。トラックのエンジン音は止まっていた。運転手が店内に入るときに、入店をしらせる電子音が鳴り、「お疲れ様っす」とセブンイレブンの深夜アルバイトが運転手に声をかけたのが確認出来た。
「しっかし、まあ、猿の惑星だか合格だか不合格だかしらないけど、よくもまあ、くだらない話に花を咲かせるものねえ。男と女が、暗い部屋で二人きりになって、そんな話しか出来ないから、最近の若者はだらしがないとか、尊敬能うべからずなご老体に説教されるわけよ。どおんといきなさい、どおんと」
情けない、と国立が口にして、イヤホンにやっていた手をハーフコートのポケットへ差し込み、煙草をもう一本吸おうとしたそのとき。イヤホンから、音に色を持たせるのならば、黒としか言いようのない音が聞こえてきた。何かが倒れる音、何かが引き摺りまわされている音、また何かが倒れる音、女性の悲鳴、男性のうめき声、徘徊、ジャンベが打ち鳴らされるように床を踏み鳴らす音、悲鳴、悲鳴、そして女性か男性か判別をつけかねる絶叫、あるいは断末魔。それらは音、というよりも国立にとってみれば真っ暗なテレビのスピーカから流れてくる音声のように聞こえた。音声だけのラジオではなく、そこにはあくまで、目を凝らせば状況を映し出す映像があるのだった。国立は目を凝らす、中に向けて。そうして呟いた。呟きは、火をつけて、ひと口だけ吸った煙草の煙とともに、夜の静寂へ消えてしまった。離れたセブンイレブンの前からトラックが発車し、緩やかなスピードで国立を追い越していった。おそらく駅前の踏み切りを渡り、甲州街道へ出るのはずだ。この時間ならば狭い駅前の道も人通りを気にすることはそれほどない。
「ふうん、予想してたより、面白いことになってきたじゃない」国立は丸めた左手の拳を右手で包むようにして、それから右手で左手の指間接を鳴らした。小気味良い音がする。「面白い? いや、面白いっていうか、腕が鳴るわねえ。そう思わない? 恋ヶ窪? 聞こえてるんでしょ」国立の顔には、皮肉とも皮相とも捉えかねる笑みが張り付いている。「さあ、お手柄を立てるよ」公園通りを右に曲がり、時間貸し駐車場を過ぎ、そしてやがて世田谷線へ行き当たる。ここは左にしか曲がることが出来ない。前方には灯りの消えた下高井戸駅が視界に入る。国立が目指しているのは、駅へ向かう途中にある、安普請で安い青色で壁面を塗られたアパートの一室にある。線路をはさんで反対側、ファミリーマートの脇の影から、恋ヶ窪が出てくるのを視界の隅に捉えた。恋ヶ窪はスタジアムジャンパのポケットに両手を突っ込んでいる。もともとの猫背が寒さで過度に曲げられているようだ。国立はとっさに、猫科の動物を連想した。そのとき、宵闇のどかで猫が鳴いた。




