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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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心まで白く

 国道脇の歩道には一昨日に降っていた雪の名残がまだあって、ひとつひとつが結晶だったはずの雪たちは、手をつなぎ寄り添って、何かから身を守るようにして氷になっている。わたしは彼らが日の当たらない道の端にぽつりぽつりと残っているのを目にしながら、彼らと同じ日の当たらない場所をゆるゆると歩いていた。それは隠微な感情だったかもしれないし、少しでも雪の名残を感じていたい幼稚な感傷だったのかもしれない。


 都会って良いでしょう、そう聞かれることが多いのだけれど、それでもわたしには都会だろうが、雪深いわたしの実家がある地元であろうと、何にも変わらない。少なくとも、そこに人がいて、それぞれの人生を営んでいるという意味においては。だから、その日の当たらない場所に咲いている雪だった氷たちが飛び石のように連なって、道の脇にうずくまっている姿は、わたしたちが同じ世界に住んでいたことを証明するような気がしてならない。たとえ見上げればビルがあって、太陽の光を遮る高さで見上げるわたしを逆に見下ろしていたとしても、振り返れば行き交う車の群れが熱帯魚のような色とりどりの姿を、わたしの視界から数秒で消えていく風景としてモノクロームにしてしまうように。


 昨夜遅くに実家からかかってきた電話で知ったのは、わたしの夫だった男の死。死って何だろう、死ぬってどういう意味なの、実感が無いの、電話口で取り乱した、或いは電話からの言葉で心だけを持っていかれたわたしは、母親にそう尋ねたらしい。覚えていない、そのとき何を喋っていたのか、記憶にない。子供の頃に海岸で綺麗な砂を見つけたわたしは、母親にその砂を見せようとして、家族がいる場所まで歩くあいだ、手のひらからこぼれる砂を気にしながら、歩いた。母親のもとに着いたとき、手のひらに残っていたのは数えられるくらいの砂粒だった。多分その砂と同じように、わたしの心が一粒一粒、落ちていってしまって、それで無くなってしまったのだと思う。

「交通事故だって……相手のダンプカーが凍ってた路面で滑って、慎二さんが走ってた反対車線に進入してきたらしいのよ」

 そんなことじゃない。

「どうして」

 わたしが言いたいのも、そんなことじゃない。

「お通夜は明日の夜らしいから、あんたもう一回、帰ってらっしゃい。そっちに戻ったばかりだろうけど」

 違う、わたしが知りたいのはそんな事じゃない。

「どうして」

 どうして、どうしてよ。彼がそのとき車を走らせていたのは昨日、わたしを送った帰りだったはずだ。年末年始の帰省で地元に戻ってきた半年前に別れた妻の、ちょっとした女らしい我儘に付き合って、駅前のホテルで食事をして、もしかしたらやり直せるかもしれないねなんて、もう見飽きたくらいの淋しい笑顔でわたしに言って、その後によく分からない独り言を言って、心なしか困った表情で窓ガラスの外を眺めた顔はいったい何を見ていたのだろうかと思うし、きっと何も見ていなかったのだろうとも思う。駅のロータリィでウインドウを下げて「じゃあまた、元気で」と言った彼に、わたしは何て言葉を返したのだろう。それが彼への最後の言葉になったはずなのに、何も思い出せない、そのことが許せない。


 気が付けば、さっきよりも少しだけ駅に近づいたみたいだった。いつもと同じ風景があって、知らない間にわたしは日陰を歩いている。国道の大通りを歩道橋で渡って、水に湿ったコンクリートの階段を降りて、ところどころの飾りがまだ新年の残滓として漂っている商店街の中を抜ける。ときどき人とすれ違う、彼ら彼女らにも、わたしと同じ風景が見えているのだ、それが耐え難かった。同じ風景でも、目に映る光景だけじゃなくて、そこに何かの意味合いが付いて見えることに、わたしは生まれてから初めて気付いた。どうして今まで気付くことが無かったのだろうか、世界は同じじゃない、世界はひとつじゃないんだ。


 駅前にでる道の途中にある高架の下をくぐる、そのとき電車が通った振動のせいだろうか、高架の天井から冷たい滴がわたしの襟元に落ちてきた。冷たい、と感じたのか、それとも何も感じなかったのか。少なくとも、その滴がわたしに落ちてきて、そして思い出した、彼へ最後にかけた言葉を。

「じゃあまた、元気で」

 そう言った彼に、元の夫にわたしは、

「……やりなおせると思う」

 と言ったのだ、わたしは微笑んでいたのだろうと思う。そのまま、彼の嬉しそうな顔を残して、それからの展開を楽しみに残すようにして足早に改札へ歩いて、わたしは地元の駅から、新しい生活を過ごしている東京へ向かったのだ。


 駅の前にある三メートルくらいの鉄塔の上には、丸い時計が時を刻んでいた。その鉄塔の根元に、日に当たりながらも残っている少しばかりの雪の残り香が、透明な木の根のように地面へ根を張っていた。時計塔の時間を見る、そしてわたしの腕時計を見る。左手にある腕時計は、わたしが大学を卒業してからの一年間という短い結婚生活の間で、彼がわたしへくれた唯一の贈り物。時計塔の時間と比べてみると、腕時計の時間は三分も遅れている。彼と別れてから、時間を合わせていないせいだ。わたしはそのまま駅の構内には入らず、時計塔へ向かって歩く。そして根を張っている雪の名残りの近くに屈みこんだ。

 いつの間にか頬を涙が伝っている。涙はわたしが屈みこんだとき、スローモーションのように頬から離れて落ちて、雪だった氷に降っていた。わたしの涙も、一緒に氷となって、そして時が来れば日の光を浴びて、空気に還ってしまえばいいのに。ううん、涙だけじゃない、わたしがここで溶けていく氷たちと一緒になって、そのまま何気ない透明な空気になって、青空にたゆたう雲になって、そしていつの日かまた雪になって、この世界のどこかに、白い結晶となったわたしが降り積もるようになれば、いいのに。

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