迷えない迷路
「貴方の事が、貴方の考えている事が、よく解らないわ」
神保町の駅から、歩いて二、三分のビルにあるバーである。そのビルの一階には、東亜細亜の古書を専門に取り扱っている古書店がある。顔馴染みの店主は日中は店の奥で起きているのか、寝ているのかどっち付かずの態であるにも拘らず、自分が会社を早めに切り上げて希美とそのバーで待ち合わせをした時間には、既にシャッターが下りていた。
「そりゃあ解らないはずさ、何も考えていないのだからね」
「うそ、うそ、うそ」
と希美は手にしたウイスキィのグラスから、氷の優しいくらい冷ややかな音を奏でさせながら言う。自分も希美と同じウイスキィであったが、既に彼女の三倍は飲んでいたであろう。そのときの自分は、酩酊をしていたとも考えている。
そもそも、考えているというのは何なのであろうか。
自分の頭の中で、自分という一個の人間から生まれた、そんな靄のかかった山間の道を、進んでいる道の標識さえも分からずに進んでいくのが、人生ではないのであろうか。何かしら考えたとして、当初は靄であったソレを口に出して他人に伝えてしまえば、そのような物は、自分の考えとは言わないのではないか。それは自分の意見になってしまい、靄のように大きさが変わることは無く、絶えず変わっていくものではなくなっているのであれば、そんなものを自分の口から発するなどと言うことは、自分には到底出来ない事だと感じてしまうのだ。
いつも通り、希美を自分の家へ連れて帰ると、いつも通りに彼女は玄関を入って直ぐに自分へ抱きついてきた。重ねて接吻を求めてきたのに事には多少辟易としてしまったが、服を着たまま済し崩しに部屋の電気も点けずベッドへ向かい、希美を組み敷いた。
服を脱がすことも煩わしく愛撫を始めると、希美は息を荒げてきたようだった。ことさら、彼女の局部に直接口をつけて愛でているときには、その声は獣の発する咆哮かと思われた。またシャワーを浴びていない所為だろうか、彼女の局部は至極、青野菜の腐ったような味がして、心の底から自分は堪らなかった。
彼女の捩れた陰毛と、白濁している体液がついた自分の顔を上げると、希美は月明かりだけが差している暗闇の中で、その白い体を、ナメクジのようにうねらせていた。白い肌の表面には、全面に汗が浮かび上がっていたが、それはナメクジの粘液ではないかと自分は考えた。希美は自分が体の何処かに触るたびに、そんなナメクジから爬虫類の何モノかに変貌して四肢を痙攣させて「っげえ、げえげええ、げええ」と叫ぶのであった。
それを見ると自分は、吐きたくなった。胃の底から何か逆流してくるモノを、感じたのである。自分は希美への愛撫を止めた。情欲が目や体中から溢れてきそうな彼女の上半身を抱え上げてから突き飛ばすと、彼女は壁に頭をぶつけたようだった。自分は急いで便所へ駆け込んだ。
便所で自分は便器に両手をかけて、顔を半分は突っ込みながら、口から吐瀉物を吐き出していた。今日の夜に飲んだ洋酒も、肴も、昼食に食べたスパゲッティも原型を殆ど留めない、乳白色と肌色の中途半端な中間位の色合いで、自分の口から出て便器の中へ溜まっていた。時折に自分は、レバーをひねって水を流した。
自分は、まだ何か出ないか、まだ何か出ないか、いっそうの事、自分の臓腑まで出てしまえば良いと、そのとき考えた。
とりあえず自分の右手の人差し指を、いつも通りに口から入れ、咽の奥まで差し込んだが、出てくるのは苦々しい若干の胃液だけで他には何も出てこなかった。更に中指を併せて入れても、何も出てこないので、自分は仕様が無いと思い、口の中の下あごに左手をかけて下へ引っ張り、右手で自分の脇腹を何度も、何度も殴ってみた。しかし、それ以上は何も、自分の中から出てくることは無かった。
不図気付くと、希美が便所の扉を開けて立っており、
「……帰りますね」
と言った。脱いだばかりの服を着て髪型も一通りは整えてあるようであったが、化粧は直しておらず涙の痕が容易に見て取れた。何を、泣いていたのであろうか。自分が不思議に思って、吐瀉物を口元から垂らしながら希美に何かを言いかけた。然しながらかける言葉が、そのときの自分には浮かんで来なかった。
暫くそんな自分を希美は見下ろしていたが、少し鼻を啜り何かを堪えるために「帰りますね、帰りますね」と繰り返して自分に向けて言うと、玄関で靴を履き、出て行った。
終電車には間に合うのであろう、未だ零時を少し過ぎたあたりの時間だった。自分は、希美が何か残していった物は無いのだろうかと部屋の中を物色していたが、結局何も見つからなかった。自分は、腹が立った。困らせてやろう、彼女を困らせてやるのだと決然とした自分は、あり合わせの服を着てから、急いでサンダル履きで外に出た。
幸い、自分の部屋から駅は近く、駅に向かう道からホームも見渡す事ができた。疎らながらも人が居るところを見ると、終電車も未だ来ていないようだった。自分は階段を駆け上がり、切符売場までを走り、一番近い駅までの切符を買うと自動改札を出てホームに向かった。いつも煙草を買う売店は閉まっていた。ホームへ向かって階段を下りている途中で、電車が入ってきた。恐らく希美はその電車に乗る筈であった。
自分がホームに降りたときに丁度、電車のドアは閉まってしまった。
なんという、許し難い間の悪さか。自分は勢いをつけると、一番手近な扉に向かって体当たりをした。中に居る乗客は、自分が扉へ当たった音に驚き、一斉に自分の方を見た。その後自分は、ガラス窓を目一杯の力で殴りつけた。次第に手が痺れてきたが、その車両には、希美は居なかった。
自分は希美の居る車両を探さねばならない、そう思って歩き始めたときには両脇を駅員に挟まれ、肩を押さえつけられ、気付けばホームにうつ伏せになっていた。
うつ伏せになりながらも顔を上げてみると二両先の車両から、ガラス越しに希美の顔が自分を見ていた。それは、希美の表情は、明らかに自分を馬鹿にしていた。一、二秒ほど自分を見た後、希美は窓際から離れて、自分の視界から消えてしまった。彼女は、嘲っていたのだと自分は気付いた。そう思ってから、その最終電車に乗っている全ての乗客の顔を念入りに見回してみると、全ての乗客が自分を笑っていた。自分は全身が、沸騰した熱湯に入れられたのだと思った。
「笑うな、笑うな、馬鹿にするんじゃあ無い」
そう、駅員に押さえつけられながら自分はホームに響く大声で叫んだが、その叫びを消す最終電車の発車を告げるアナウンスでさえ、自分を嘲弄していた。発車のベルでさえ、自分を愚弄していたのだ。




