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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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105/120

スケッチ

 気がつけば雨はあがっていた。そのことに奈月は階段を下りてから気がついた。二階にある喫茶店のドアから出てくる隼人の表情は、階下から見ることが出来なかった。

「雨、あがってる?」

 隼人は手洗いで使ったハンカチを、まるで紙くずのように丸めてポケットに突っ込みながら階段を下りてくると、奈月の傍らに並び空を見上げて話しかけてきた。奈月は隼人のポケットに手を入れてハンカチを取り出すと半分に折り、さらにもう一度半分に折ってからポケットに入れ直した。

「――やっと晴れたみたい」


 ビルを出ると駅前の雑踏だった。雨があがったばかりだからか、まだ所々に多様な色をした傘の花が咲いている。駅へ向かう流れとは逆へ、雨が歩道に作った飛び石のような水溜りを避けながら、隼人と奈月は歩く。自然と並んで歩くことは出来ず、隼人が奈月の先を歩く格好になった。見慣れている隼人の背中だったが、そこに何か表情が現れることがあるとするならば、今の隼人の背中は奈月の初めてみる表情をしていた。

 離れた場所に住んでいる奈月が駅に着いたころになって、雨は本格的に振り出した。そのまま病院へ行く前に喫茶店に入ろう、と提案したのは二人分の傘を持って迎えにきた隼人である。駅の構内にあるフラワーショップでお見舞い用の花を買ってから、奈月と隼人は雨宿りの客に混じって喫茶店で三十分ほど時間をつぶしたのだった。

 道沿いに煙草の自動販売機を見つけると、奈月は先ほどの喫茶店で隼人が煙草を切らしていたことを思い出した。しかし隼人は自動販売機の前をそのまま素通りして、無言のままで歩き続ける。

「ねえ、煙草。買わなくていいの?」

 奈月の問いかけに隼人は立ち止まる。そして、近づくに連れて大きく見えるようになった白い建物を、見上げるように顔を上げた。

 煙草はもう吸わない、と隼人は病院を見上げたまま答えて再び歩きだす。小高い岡の上に建っている病院へ近づくにつれて、歩道に水溜りは少なくなっていた。

 どうして、とは聞かずに奈月は隣に並んで歩く隼人の歩調に合わせて、少し速めに歩き始めた。

 夏はもう終わろうとしていた。


「よう、おめでとう、君らが友人見舞い客の第一号だ」

 篤朗は窓際のベッドで半身を起こしていた。入院患者用の白いゆったりとした服を着ている。隼人と奈月が入ってくるのを見ると、それまで外を眺めていた顔を室内に向けた。自分達が病室に入るまでは、どんな顔をして外を眺めていたのだろうかと奈月は思う。

「何が第一号だ、不謹慎だな」

「いいんだよ、不謹慎で」篤朗はお手上げのポーズをする。「あと半年の命しかないっていうのに、いまさら聖人君子面が出来ますかっての」

「また、そんなこと言って」

「いやあ、奈月ちゃん、相変わらず、いや一万年前から可愛いね」

「ありがと」窓際へ歩きながら奈月は答える。そして持ってきた花束を、窓際に置かれているテーブルにあった花瓶の横に置いた。花瓶に花は挿されておらず、あとで水を入れてこようと奈月は考える。

「いい眺めじゃない」

 篤朗の病室は六階にある。閉じられているカーテンの隙間から奈月が覗くと、ガラス窓の外には遠くの山々を一望することが出来た。奈月の背後でスツールがリノリウムの張られている床を擦る音が聞こえて振り返ると、隼人はベッドの脇に足を組んで座っていた。

「君らは偉いよ。それに比べて他の奴らときたら」

「まだ来てないんだろ」

「そうだ、一人も。やはり持つべきものは小学生からの腐れ縁で大学まで一緒になっちまった友人と……」そこまで言うと篤朗は、窓際の奈月を見た。「その可愛い可愛い彼女さんだ。ていうか、こっちがメイン」

「馬鹿か、お前は」

 奈月は知っている。大学三年生の篤朗が白血病で余命半年と告げられ入院してから、友人達は彼に何と声をかければ良いのか分からなかったのだ。もっと言うと、自分達と同じ若さで死に直面している篤朗に会うのが怖かった、その現実を突きつけられるのが厭だったのだ。

「あまり皆を責めるなよ、色々あんのさ」

「ほお、色々かい。そうかそうか、じゃあ俺が死んだら、一番遅れて見舞いに来た奴から順に取り憑いていって、遅れた理由を聞いてやるかな」

 笑いながら言っても怖くないよ、と奈月は呆れたように溜息をつきながら言う。隼人と付き合い始めて三年。その間に隼人の親友である篤朗とは、毎日と言っても良いほど顔を合わせてきた奈月は、篤朗が何かにつけて偽悪を気取ろうとする性分があることを分かっていた。

「でも、良かった。思ったより元気そうで」

「違う違う、さっきまで悶え苦しんでたんだけどさ。奈月ちゃんの顔を見たら治った」

「お前さ、彼氏がいる前で人の彼女に良くそういうこと平気で言えるよな」

「どうせあと半年しか生きられないんだ、少しくらいの我侭は受け入れるのが人の道ってもんよ、なあ奈月ちゃん」

 奈月は窓枠に手をかけたまま、少しだけ顔を傾けて微笑む。

「あ、もしかしたら、ずっとここに居てくれたら直っちゃうかもな。ね、どうよ」

「さあ、どうしようかな」

 微笑んだままで奈月は少しだけ窓を開けた。ベージュのカーテンが風に揺れる、奈月は篤朗から視線を逸らした。

 視線を逸らしているのは、奈月だけではなかった。隼人も腕を組みながら横を向いている。その気持ちは奈月にも分かった。カーテンが揺れて差し込んだ日光のせいで、入院して二週間しか経っていない篤朗の頬が削げて影をつくっていることに、気がついたからだ。視線を逸らした奈月の顔を隠すように、夏の終わりを告げる涼やかな風に栗色の髪が揺れた。

「ああ、そうそう。二人に買ってきて貰いたいもんがあるんだけどさ」


「篤朗くん、絵を描く趣味とかあったの?」

 隼人と奈月、そして篤朗が通っている大学は八王子の山の中にある。周囲が山ばかりで市街地が無いせいか、普通の大学と比較すると品揃えが豊富な大学生協の文具売り場で、奈月はどのスケッチブックが良いかを選んでいた。その隣では隼人が水彩絵の具を手にとって、何色が入っているのか調べている。

「初耳」

「そう……だよね、急にどうしたんだろ」

 もともと奈月を含めて三人とも、経済学部経済学科の学生だ。趣味で絵を描くのでない限り、画材など必要になろうはずがなかった。

「……駄目だ。片仮名ばっかりで、さっぱり分からない」隼人は手に取った絵の具ケースを棚に戻すと、全種類が入っていそうな一番大きなものを取り出して奈月に渡した。そして少し離れた場所にある沢山の絵筆がアクリルのボックスへ縦に刺さっている売り場へ向かうと、一本一本取り出しながら鹿爪らしい顔をして絵筆を物色している。上に引っ張り出しては、手を放して落とすので、絵筆がアクリルの底に当たる無機質な音が間断なく売り場に響いた。

「これから死んじまう奴の気持ちなんて、分かるもんか」

 奈月は物色している隼人にゆっくり近づくと、隼人の背中に自分の背中をあずけた。こうやって、わたし達は倒れそうになれば支いあえる。支えあわないと、ここから先に進めないのかもしれない。ならば、今いる場所から進むことが叶わないと知った篤朗はどうなのだろうか、と奈月は思った。


「はい、これ。でもなに書くの?」

 奈月は画材の入った紙袋を篤朗に渡した。二週間前に篤朗を見舞いに訪れてから、既に月が変わっている。

「そりゃあ、ねえ」

「なに? なに? 教えてよ」

「奈月ちゃんの、ヌードでも描こうかな。そこにある林檎使っていいからさ」

「返せ」

 ベッドの上に紙袋を置いて中身を見ている篤朗の手を勢いよく掴んで、隼人は紙袋を取り上げた。奈月には篤朗が大人しく手を放したように見えた。所在無く右手に持った紙袋を見ると、隼人はそれを篤朗の手が届く近さの床に置く。

「冗談の通じない男だねえ」

 篤朗が口元を緩ませて皮相な笑みを浮かべつつ、隼人から奈月へ視線を移す。つまらなくて結構だ、と隼人が大人気なく言うのを聞いた奈月は、篤朗から紙袋を取り上げたときに隼人が一瞬、顔を歪ませたのを見逃さなかった。ほんの瞬きの間に現れて消えた表情に、切なさの匂いがしたのではなかったか、と奈月は感じた。それから病室の空気が冷たくなり、時が止まったような数秒が続いた。

「……足りなくなったら、言ってね。買ってくるから」

 取り繕うように奈月は言う。

「うんうん、また奈月ちゃんに会いたいから、使い終わるまでは死なないようにするよ……って、こいつ本当に怒ってやんの」

 憮然とした顔で病室の角を睨みつけるようにして座っている隼人を見て、篤朗は声をたてて笑う。奈月が今までに見慣れた、本当に何百回となく見てきた、いつも通りの風景だった。場所が病室であること、そして残り半年しか生きられないと知ってしまった篤朗、という違いさえなければ。

 どうして、こんなに笑っていることが出来るのだろうと奈月は思う。

 苦しいのだったら、悲しいのならば、何故わたし達に言ってくれないのだろうかと奈月は思う。

 二週間前に来たときと同じように、窓際に佇んで二人のやり取りを見ながら微笑んでいた奈月の頬には、いつの間にか暖かい雫が瞳からつたわっていた。奈月がそのことに気付いたのは、隼人と篤朗が自分を凝視していたからだった。

「……ごめん」

 奈月は二人から顔を避けるようにして、病室から駆け足で出て行った。


 奈月が洗面所で気持ちを落ち着かせて、涙で崩れた目元の化粧を直してから篤朗の病室へ戻ろうとすると、ちょうど隼人が病室の扉を閉めて出てきたところだった。

「帰ろう」

 隼人は持っていた奈月のバッグを、押し付けるように奈月へ渡す。

「え、どうして。わたしまだ……」

「いいから、帰るぞ」

 隼人の剣幕に驚いた奈月は、病室を振り返りながらも隼人に手首を掴まれて、無機質な廊下をエレベータホールへ進んでいった。下りのボタンを押してから、ようやく隼人は奈月から手を放した。聞きたいこと、問い詰めたいことは奈月の中で今にも溢れそうだったが、隼人の顔を見ると奈月から話しかけられる様子ではなかった。

 二基あるエレベータは両方とも一階で留まっていて、奈月たちが居る六階まで上がってくるのには時間がかかる様子だった。病人を乗せる病院のエレベータは、タイミングを逃すと長い間待たされることを奈月は知っている。しかし、せめて今日は早く来て欲しいと願わずにはいられなかった。

 一階から二階、そして三階へランプの点滅が移動する。

 あいつの手が、と隼人が唐突に呟いた。病院の静けさがなかったならば、とても聞き取れるはずもない小さな囁きだった。

「……あいつの手がさ、奈月の手より細かったんだよ」

 思わず奈月は、自分の右の手首を少し持ち上げて、左手を添えた。

「紙袋を取り上げたとき、あいつの力が全然感じられなかったんだよ」

 エレベータのランプが六階を示して点滅すると、場違いに乾いた電子音がホールに響いて扉が開いた。移動式のベッドが入れるほど広いエレベータの中には、誰も乗っていなかった。奈月は隼人にかける言葉が見つからないまま、隼人も口をきつく結んでそれ以上は何も言わないままで、二人は中に入った。一階のスイッチを押そうと奈月が隼人から少し離れると、壁を叩く大きな音がエレベータの室内に響いた。驚いた奈月が隼人を振り返ると、もう一度低い音が響く。

「ねえ、やめてっ」

 隼人は奈月に背を向けて、握り締めた自分の拳をエレベータの壁に打ちつけていた、何度も。

「……笑ってくれていいよ」

 隼人は背を向けたまま、奈月に言った。隼人はたぶん泣いているのだろう。自分が出て行ったあとの病室で、いったい何があったのだろうかと奈月は思う。途中で止まることなく、エレベータは二人だけを乗せて一階に着くころだった。

「馬鹿、笑えるわけないじゃない」


 それから奈月は、五冊のスケッチブックを篤朗に届けた。

 六冊目を届ける事は叶わず、篤朗は半年に数日足りない日に、死んだ。

 篤朗が死んだ日は、朝から雨が降り続いていた。

 結局、篤朗が何を描いていたのかを、奈月は知ることが出来なかった。

 奈月と隼人が聞いた最後の言葉は、「死にたくない、怖いよ」だった。


 鯨幕が張られた篤朗の家の門から出た奈月は、ふと、いま出てきたばかりの家を振り仰いだ。そこには、庭で芽吹いている桜が塀越しに見える。ひと月も経てば、例年通りに桃色の花を満開に咲かせるのだろう。しかし篤朗はもう見ることが出来なくなってしまった。間を置かず、玄関から隼人が出てくる姿も見えた。篤朗の母親と玄関先で挨拶をしている隼人の手には、五冊のスケッチブックが入った手提げ袋がある。

 門から出てきた隼人は、奈月を一瞥すると先に歩き出した。追いかけるように奈月も歩き出す。

「篤朗くんのお母さん、しっかりしてたね」

「半年間で心の準備が出来てたんだろうな」

 それが良かったのか、苦しみ悩む期間が長かっただけ辛いことだったのか、奈月には分からない。恐らく答えはないのだろう。

「ねえ、そのスケッチブック……」

 奈月が隼人の手元に目を向けてから隼人の顔を見ると、視線が合った。

「お母さんが渡してくれた、遺言だったらしい」

 少しの間だけ奈月を見つめていた隼人は、その言葉を口にすると未だ通りに見える篤朗の家を振り返った。

「見せてもらっても、いい?」

 篤朗と小学校からの同級生だった隼人の家は、篤朗の家から近いところにある。しかし家へは帰らずに、二人が初めて篤朗を見舞いに行く前に寄った喫茶店へ入った。店内に客は殆どおらず、二人は窓際のテーブルに腰をおろす。隼人はテーブルの上に五冊のスケッチブックを載せると、煙草に火を点けて窓の外を見ている。

「煙草、止めたんじゃなかったの?」

「今日だけだ」

 奈月はテーブルの上に出されたスケッチブックのうち一冊を手元に引き寄せると、表紙を開いた。

 そこには、篤朗が入院していたあの病室から見える山々と、そこから昇る朝日が描かれていた。絵心があるわけでもない篤朗が、拙いながらも丹念に絵の具を塗り重ねて描いていた様子が伝わってくる。

 ページを捲ると、全く同じ構図で朝日が描かれ続けている。晴れの日も、曇りの日も、太陽が見えていない日でも、篤朗は窓から見える景色を描いていたようだ。全てのページ右下には、描いた日の日付と「あしたもきっと」と鉛筆で書かれていた。

「毎朝、書いてたんだってさ」

 奈月は五冊、すべてに朝日が昇る絵が描かれているのを見た。最後の日付は、篤朗が息を引き取る三日前の日付だった。

 あしたも、その次のあしたも。

 あしたを失う日が来ることを間近に感じながらも、きっと必ずあしたは来ると祈り、切なく願い、篤朗はこの絵を描いていたのだろうと奈月は思う。

「わたし……篤朗くんが亡くなった日から、ずうっとね」奈月はスケッチブックを静かに閉じて、表紙にそっと手を触れた。「その日に降ってた雨が、降り続いてる気がしてたの」

 奈月の言葉で、隼人は意識を窓外から店内に戻した。篤朗が死んだ日から、奈月は隼人が笑っている表情を見たことが無い。その隼人を見つめながら「でもね」と奈月は続ける、いま自分は笑えているだろうか。

「――やっと晴れたみたい」

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