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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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ずっと、ここに居て

「駅員さん、駅員さあん」

 ウィークデイの九時過ぎ。新宿駅の改札に定期券を通して、人身事故による遅延の証明書を貰う人だかりを遠めに眺めていた宇藤の背後から、聞き慣れた声が聞こえた。

 息を切らして改札から出てきたのは、同僚の律子だった。

 彼女も同じ路線で出勤をしていたのは以前から知っていた。宇藤は新宿から程近い駅に住んでいるため、今朝起こった事故の影響も然程は受けていない。しかし、律子は同じ路線でも確か八王子の奥から通っているはずだった。いつもは業務開始の四十分より前には出勤しているらしい律子が、この時間に駅に居るというのは相当の遅れであったのか、と他人事のように宇藤は思った。


「あら、あんた遅刻ね」

 人込みに揉まれた駅員から、半ば奪うかのように取った遅延証明書を右手に握り締めた律子は、集団から離れて柱にもたれている宇藤に気が付くと小走りをして駆け寄ってきた。

「そう、参ったよ」

「参っているようには、全然見えないわ、相変わらずだわ」

 宇藤も柱から少し体を離し、律子の傍に寄った。律子は未だ肩で息をしながら、コートのポケットへ証明書を押し込んでいる。

「参ったのは、あたしよ。始発の駅からずうっと立ちっ放しだったのよ」

 と云いながら、律子は地下道へ向けて足早に歩き始めた。

「もう厭になって帰ろうと思ったわ、あんた思わなかったの」

「いや、僕は駅が近いから」

 宇藤は未だ証明書を貰っていなかったが、既にオフィスへ向かっている律子の後に続く事にして、それは諦めることにした。


「ああ、厭だ、疲れた」

 宇藤と律子が勤めているオフィスがあるビルまでは、新宿駅から都庁方面へ抜ける地下道を通る。宇藤が毎朝普通に歩けば、十分はかかる。然しながら、今日は律子の勢いに押されてか、その半分の時間でビルの下までたどり着くと、律子は途端に歩幅を緩めた。

「朝からね。年に何度かあるといっても、どうも慣れないね」

「どうかしら、こう遅れてしまっては、十分も三十分も同じだと思うわ」

「社会人とは思えない台詞じゃないか」

 宇藤が苦笑しながら答えると、その言葉を聞くまでもなく律子は地下道脇にある喫茶店へ入っていった。それは、当然に宇藤が後ろから付いて来る事が当たり前かのような、そんな振る舞いではあった。しかし、特別逆らう理由も無く、宇藤も喫茶店に入った。


「あたし、三月で会社を辞める。結婚するの」

 珈琲を一口だけ飲んでカップを置くと、唐突に律子は云った。店内は九時を過ぎているので、出勤前の客が掃けて多少は席が空いていた。地下道がウインドウ越しに見える位置にあるカウンタに二人は座っていた。宇藤は未だ口をつけておらず、テーブルに出したケースから煙草を取り出し、火を点けようとしているところで動きが一時、止まってしまった。しかし、それを気取られないように、続けて火を点けて肺に不健康な煙を吸い込む。

「まあ、辞める事だけは聞いていたよ。君からではないけどね」

 宇藤はいつも吸っている煙草のニコチンもタールも、その時は濃度が濃くなったのではないかと錯覚した。

「知っていたの、そうね、会社には報告していたわ」

「結婚というのは、聞いていなかったが」

「寿退社」

「おめでとう、と云ったほうが良いかな」

 もう一度、カップを口元に運ぶ途中の律子は、カップ越しに上目を宇藤に対して向ける。その目を宇藤は見れず、ウインドウから見える地下道を急ぐ人々に視線を転じた。

「ありがとう、って云って欲しいのかしら」

「おめでとう」と宇藤は視線を戻さずに云うと、「ありがとう」と宇藤が感じられる何処からか、その声は聞こえてきた。


「じゃあ、先に行くよ。やらなければいけない仕事があるからね」

 宇藤はテーブルに出した携帯電話、煙草とライタをしまうと席を立った。

「あんた真面目よね、そういうところあるわ」

「仕事に真面目も何も、無いじゃあないか、らしくないよ」

 宇藤はお祝いという口実で律子の支払いも済ませて店を出た。エレベータホールにいる警備員に毎朝欠かさない挨拶を、その日はせずに通り過ぎた。宇藤たちのオフィスはビルの八階にあるが、ボタンの手前まで指を持っていき、宇藤はそこでボタンを押す事をやめて、脇にある薄暗い階段を上って行くことにした。


 二階までは、一段づつ上がっていた宇藤ではあった。そして、三階を過ぎると一段を抜かして、五階を過ぎると二段を抜かして、傍から見たのであれば、まるで何かから逃げるように上がっていった。八階に着いた頃には、不断の運動不足の所為もあるだろうが、足は震えて、呼吸が苦しくなってしまった。宇藤はスーツの汚れも気にせずに壁にもたれたまま腰を下ろすと、顔を下に向けて全身で呼吸と、自分自身を整えていた。

 と、その時、エレベータが八階で丁度止まり中から律子が出てきたところであった。律子は降りると直ぐに宇藤に気付いた。

「あんたどうしたのよ」

 それほど急いだ様子も無く宇藤に近づくと、律子は中腰になり話し掛けてきた。律子が着ている白いドレスシャツの胸元から、先程は感じなかった寂しい香水の匂いが、宇藤の荒い呼吸の中に混じってきた。

「……階段、を、上がって、きた」

 それだけ聞くと律子は上体を戻し、オフィスの入り口へ歩きかけようとしたが、ニ三歩で引き返してきた。

「馬鹿、あんた馬鹿じゃないの」

「自分でも、そう思うよ」

 腰を浮かしながら、宇藤は呼吸で言葉を途切れさせないよう気を使いながら云った。律子と少しの間だけ視線が交わったが、それを今度は律子が逸らし、そのままオフィスの入り口へ向かっていった。

 宇藤はそれを見ながら、額に浮き出た汗を拭いたかったが、それさえせず暫らくその場に立ちつくしていた。それから、律子がオフィスに入ってから一分の間だけ、その場所で待って入る事にした。

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