……ゆっくり休みなさい。……あなたの心が癒えるまで
――過去――
「やっと起きましたか?」
ふいに女性に声をかけられ、少女は意識を覚醒させる。どこであろうか、ここは。ベッドの上。なぜ。自分は、あの霧にまみれた森の中を走っていたのに。
「戸惑われているようですね。無理もないでしょう。あなた、言葉はしゃべれますか」
「……はい~。しゃべれます~。もしかして~、助けてくれたんですか~」
弱々しくありながらも、少女は、その表情に笑顔を浮かべて、彼女に話しかけた。姿勢のよく、なんだかかっこいい人だった。彼女は、そんな少女の様子を見て、胸をなでおろしながら、言葉を返す。
「よかった。すっかり意識を取り戻した様子ですね。言葉もはっきりと話せています。心配したのですよ。迷いの森で、ああもボロボロな姿で倒れていたのですから。看病しても、意識が戻らないかと思いました」
「……迷いの森~?」
「ああ、もしかしてわからないのですか。この魔法界の入り口に位置する不思議な霧に覆われた森のことです。変ですね。エルフ族の民であれば、そのくらいの教育は受けているはずですが」
「……霧だらけですか~?」
ということは、自分はどうやら、あの森の中の外に出ることはできたようだ。そしてそのあとこの女性が自分を助けてくれたということだろう。ならばとにかく自分は逃げ出すことはできたわけだ。よかった。ひとまずこれで彼との約束を守れる。
少女はそのことに安堵感を抱きながらも、女性に対し、言葉をかけた。
「……でも~、ありがとうございました~。魔法界って~、み~んな戦っていて大変なのに
~。わざわざ看病までしてもらって~。優しい人に見つけてもらえてよかった~」
「……いつの話ですか?」
その女性は、戸惑った表情をしながら彼女の言葉に返した。少女は変なこと言ったかなと首をかしげて続ける。
「ふぇ? あれ? 魔法界ですよね? いろんな種族の人が戦ってた」
「それは種族がわかれたばかりで領土の境目もなかった大昔の話です。先ほどの迷いの森の件といい、ボロボロの姿で、倒れていた件と言い、あなたちゃんとした教育を受けてきましたか? ご両親は、どちらに?」
呆れ、怒り、そしてそれらを遥かに凌ぐ慈愛の心をもって彼女は自分にそう問いかける。優しい人なんだな。けれど、両親と言っても、そんな存在、自分には。
「……親は、いないんです~。だから、私は、いろんなことを知らなかったんですかね~」
「……そうですか。……それなら、名前は?」
「………え?」
「あなたの、名前は。誰かにつけてもらったでしょう」
「………」
--ポロ、ポロ。
その瞬間、笑顔を浮かべてばかりであった少女から、とめどなく涙があふれだした。名前、名前なら自分に確かにある。ただ、なぜだか、彼女はそれを他者にすぐに教える気にはなれなかった。
彼が自分につけてくれた、かけがえのない名前。けれど、彼は、自分のことを覚えていないかもしれない。それなのに彼以外の人に、その名前を簡単によばせていいのか。自分はその名前でいていいのか。彼が覚えてくれていて彼に呼ばれて、初めて自分はその名前を名乗れるんじゃないのか。少女はそう思ってしまった。
涙がにじみ、脳裏には彼が自分に見せた最後の笑顔が浮かぶ。少女は、声を震わせながら、言葉を紡ぐ。
「……名前、名前。……あるんです。ちゃんと、あったんです。……でも、色々なことがあって、本当に色々なことがあって。……私が、その名前でいいのかわからなくなってて」
「…………」
女性は、何も言葉を発することなくそっと少女の隣へと腰かけた。そして少女の震えた手を優しく握る。
「……エルフィア。そう名乗りなさい」
「………?」
「……何か辛いことがあったのですね。だったらこれ以上は何も言う必要はないわ。ただ、名前がないのは不便でしょう。だったら、あなたはエルフィアと、そう名乗りなさい。そして、あなたの気が済むまでここにいればいい」
「……………」
温かい。少女は、彼女に手を握られて、そのようなことを思った。こんなものは知らない。これほどまでに他者の、彼以外の者に優しく包まれたことなど、ない。
その女性は、わずかに少女の手の握る力を強めて、そっと言葉をつづけた。
「……私の名は、コウランです。これからは私が、わずかの間でも、あなたの母となりましょう。……ゆっくり休みなさい。……あなたの心が癒えるまで」




