悪役令嬢の使いどころ
「……ああ」
俺は最後の客を見送り、深々と頭を下げながらつぶやいた。
怒りと喪失感が、胸の奥で渦巻いている。
「俺の……俺のアマトリチャーナが……」
失意のままダイニングへ戻ってきた俺は目を疑った。それは、あまりにも残酷な光景だった。
長テーブルの端で、メイドのノーラや数名の使用人たち、そして執事のオルドが、皿を囲んでウキウキとフォークを動かしていたのだ。
本来なら俺の胃袋に収まるはずだった、鮮やかな朱色のソースを纏った太めのパスタ。濃厚なトマトの酸味、カリカリに炒められたグアンチャーレの旨味、そして仕上げに削り落とされたペコリーノ・ロマーノの芳醇なコク。
「んふぅ〜……! 美味しい〜! トマトの甘みと酸味がパスタにすっごく絡んでて最高~。カリッと香ばしいお肉も噛むたびにジュワッて脂が広がりますぅ……!」
ノーラが頬を紅潮させ、肌をツヤツヤテカテカさせながら蕩けた声を上げている。その隣にいた別のメイドが、俺が帰って来たことを察したのか鋭く窘めた。
「ちょっと、ノーラ!」
「ひゃいっ!?」
そうだ、もっと叱ってやれ。主人が食べ損ねた料理を横取りするとは何事かと。 俺が内心で深く頷いていると、そのメイドはさっとパンの籠を差し出した。
「残ったソースがもったいないでしょ! ちゃんとお行儀よくパンで拭って、お皿がピカピカになるまで最後まで堪能しなさい。シェフへの礼儀よ?」
「あ、そっかー♪ えへへ、パンおかわりくださーい!」
「お前たち……」
確かに、前世でも「皿に残ったソースをパンで拭う行為」は「スカルペッタ」と呼ばれるシェフへの敬意を表す行為だった。さすが我がフォックスウッド家の人間だ。感謝と敬意を忘れないのは素晴らしい。だがお前らはシェフへの敬意の前に、主人に対する敬意を思い出さないのか。
俺が立ち尽くしていると、オルドが優雅にナプキンで口元を拭いながら歩み寄ってきた。おい……こいつの肌……。いつもよりツヤツヤしてねえか? 許しがたい。
「旦那様。パスタという料理は一秒を争うもの。廃棄の危機に瀕したデュカリエル様の芸術を救済するのも使用人の務めにございます」
「オルド、俺の皿は」
「旦那様。旦那様が貴族の務めとして客人を玄関までお見送りする時間が数分ございましたな。素晴らしい行いです。ただ、その間にパスタは――伸びてしまいます。僭越ながらこのオルバード、伸びた麺など、旦那様にお出しできるはずがございません」
「ぐぬ……ッ。そうかッ」
正論で殴られるのが一番痛い。そしてその髭についている赤いソースは何だ。
俺がギリギリと歯噛みしていると、ダイニングの扉が勢いよく開け放たれた。
「アッシュ! 大変だったんですってね!?」
飛び込んできたのは、赤髪をポニーテールに揺らしたアリスだった。父であるハートレイ伯爵から事の次第を聞き及んだのだろう、エメラルドの瞳を真剣に見開いて駆け寄ってくる。
「聖水が真っ赤に変色したって本当!? レオニール殿下になにか不吉な事態が起きる兆候じゃないかって、王宮じゅうが大騒ぎになるわよ」
「まったくだ。きっとそうなるだろうねえ」
アリスの背後から、軽やかな足取りでひょっこりと姿を現したのは、他ならぬ事件の当事者、第一王子レオニールだった。
平民のような簡素なジャケットを羽織り、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「で、殿下ぁ!? どうしてここにいらっしゃるんですか!? 自室での謹慎を命じられたと聞いておりますが!?」
アリスが素っ頓狂な声を上げる。レオは悪びれもせずヒラヒラと手を振った。
「その通り。母上と宰相殿に言われた通り自室に戻って、そして抜け出してきたよ。堅苦しいのはなしだよアリス。謹慎なんて退屈だし、何よりデュークのパスタを食べ損ねちゃったからね。アッシュなら、僕を匿って何か食べさせてくれるかなーって」
「帰れ」
俺は即座に指をドアに向けた。
「俺すら食えてないんだよ。この家にお前の皿など無い」
「つれないなあ。僕だって被害者なんだよ? あんな血のような水を出されて、すっかり『呪われた王子』扱いさ。まあ……立太子を阻止したい誰かさんの仕業なんだろうけどね」
レオは椅子を引いて勝手に腰掛け、顎に手を当てて小さく笑った。
「やっぱり、エルミナ様あたりかなあ。アドを次の王にしたい熱心な貴族は多いし、僕が不吉な存在として失脚してくれれば万々歳だろうし」
「知るか。そこから先はお前たちの家で勝手にやれ。俺は探偵でもなければ王室の揉め事の調停役でもない。ただの、腹を空かせた公爵だ」
俺が冷たく突き放すと、レオは面白そうに目を細めた。
「でもさアッシュ、僕としてはこのまま廃嫡されるのも悪くないんだよね。ほら、王様なんて激務だし、僕はのんびり絵を描いたりだらだら本を読んで暮らしたいんだよ。僕から見てもアドは優秀だ。今回の事件をいい口実にして、綺麗に身を引けないかなあ?」
コイツは本気で言っている。権力への野心は文字通りゼロ。王立学園時代、身分を隠して通っていたが、王家の威光を微塵も感じさせない自然体と人当たりの良さで学園全ての生徒や教師と仲良くなったコミュ強の権化。成績はいたって普通。やる気はゼロ。廃嫡して悠々自適となれば、もろ手を挙げて喜ぶだろう。
だが、政治の世界はそう甘くはない。
「お前のその異常なコミュ力をドブに捨てるような発言は聞かなかったことにしてやるが……」
俺はため息をつき、前世の記憶の片隅に眠っていた、ある定番のプロットを口走っていた。
「どうしても廃嫡されたいんなら、もっと手っ取り早い手段があるぞ」
「えっ、本当かい?」
「ああ。――お前、悪役令嬢と婚約破棄しろ」
「「は……?」」
レオとアリスが同時に間抜けな声を上げた。
俺は腕を組み、滔々《とうとう》と講義を始める。
「まず、適当な高位貴族の気の強そうな令嬢と婚約を結ぶ。そうだな、そこに丁度いい奴がいる。アリスだ」
「わ、私!?」
「そうだ。で、舞踏会のど真ん中で大勢の貴族が見ている前で宣言するんだ。『アリスステラ! 俺はお前との婚約を破棄し、こちらの心優しい平民の少女と結婚する! お前の悪事は全て暴かれたぞ!』とな。そうすりゃお前は不義理と暴走の責任を問われて一発で王位継承権を剥奪される。おめでとう、晴れて自由の身だ」
「ちょっとアッシュ! 何よそれ! なんで私が冤罪で断罪されなきゃいけないのよ! 冗談じゃないわ!」
アリスが猛抗議する。だが、レオは「ポン」と手を打った。
「ふむ? なるほどなるほど。案外悪くないかもね」
「殿下まで何言ってるんですか!」
「ねえアリス、頼まれてくれないかな?」
「嫌ですよ! 私、何もしてないのに傷物になるんですよ!? そ、それに私……」
アリスがちらりとこちらを見た。なんだ。助け舟なら出さんぞ。何か背中の方の空気が変わった気がするが気のせいだろう。
「ふむ? ああ、あー。なるほど。アリス、キミは婚約破棄された後の事を心配しているわけだね」
「そ……そういうわけじゃ」
「皆まで言うな。じゃあこうしよう。もし悪役令嬢を引き受けてくれたら、婚約破棄後に僕が王家の権限を使って、ハートレイ家とフォックスウッド家の婚姻を全力で王家に認めさせるよ」
「……っ!?」
アリスの動きがピタリと止まった。
顔がカッと林檎のように赤くなり、エメラルドの瞳が激しく左右に揺れ始める。
「えっ……? ウチとフォックスウッド家って……。ア、アッシュと……結婚……? え、でも……悪役令嬢……? でも、公認……? そ、それなら……多少の泥を被るくらい……やぶさかではない……かも……?」
背後に不穏な空気を感じて振り返ってみると、部屋の隅で、メイドたちがどこからともなく謎のうちわを取り出し無言で振っている。うちわには『アリアシュ尊』『成婚して』などとわけのわからない事がデカデカと書いてある。
オルドに至っては、燕尾服の内ポケットから羊皮紙の婚姻届と羽ペンをチラ見せし、眼鏡をキラリと光らせて『いつでもいけますぞ』的な雰囲気を滲ませている。いかないからな?
アリスの方に向き直ると、真っ赤な顔でまだブツブツ言っている。やれやれだ。
「おいアリス、冷静になれ。レオが廃嫡されたらただの雑魚だ。公爵家の婚姻をどうこうする権限残ってるわけないだろ」
「あ」
正気に戻ったアリスがハッと我に返り、未練がましそうに唇を尖らせた。念のため振り返ってみると、我が使用人たちが何か言いたげにこちらをジトっと見たまま、スン……と済まして姿勢正しく控えていた。こいつら……。
この屋敷の人間は、全員一度頭を冷やした方がいい。と、その時、厨房の扉が開いた。
「皆様、騒がしいところ失礼いたします」
デュークは涼やかなアイスブルーの瞳を細め、トレイをテーブルへと置いた。
「フォックスウッド公。昼食を召し上がれなかった皆さまのために、ちょっとした趣向の軽食をご用意いたしました」
「……軽食?」
俺の視線が、トレイの上の皿へと吸い寄せられた。




