今夜のメインディッシュ
目の前に現れたその一皿は、もはや料理というよりは、異端のエルフの美意識が結実した一個の芸術作品だった。
白い大皿の中央に鎮座する、極厚に切り分けられた赤身肉のステーキ。
外側は、まるで漆黒の甲冑のように香ばしく、濃密な濃褐色の焼き目が全体を覆っている。その上には武骨な黒胡椒と岩塩の粒しか載っていない。
俺は導かれるようにナイフとフォークを手に取り、その甲冑に刃を入れた。カツッ、と一瞬手ごたえを感じたが、表面を通り過ぎると抵抗がまるでない。上質なバターに温めたナイフを沈めるかのように、スッと吸い込まれるように刃が通る。
黒鎧に守られた肉のその断面は――息を呑むほどに鮮やかな、均一なルビー色だった。
表面のカリッとした極薄の焼き目の直後から、中心部と全く同じ、薔薇色の火入れが施されたレアが広がっている。
肉汁は一滴たりとも皿に漏れ出しておらず、肉の繊維の奥深くに、ゼリーのように完全に閉じ込められている。
「……おお」
俺は無意識に両手を合わせた。
「ア、アッシュ……? 人の話、聞いてる……? 私、今すごく重大な話を――」
「アリス」
「え、はい」
俺はアリスの顎をクイっと持ち上げて微笑んだ。
「え!? あの……? ちょ……」
「肉が冷める」
固まっているアリスを放っておき、切り分けた一口を、口中へと運ぶ。
刹那――口の中で、味覚の爆発が起きた。
カリッとした表面の焼き目から香ばしさが立ち上る。アミノ酸と糖が熱によって結合し、数百種類もの芳香成分を生み出す「メイラード反応」の極致。ナッツのような、焙煎した麦のような、本能を直撃する圧倒的な香りだ。
そして、歯が肉の繊維を捉えた瞬間。
ジュワリ、と。信じがたい量の肉汁が、決壊したダムのように溢れ出した。
柔らかい。だが、決して生肉のグニャリとした不快な柔らかさではない。適度な弾力を残しながら、繊維の一本一本が解きほぐれるように噛み切れ、噛むごとに澄んだ旨味と、濃厚な肉の甘みが津波のように押し寄せてくる。
「美味すぎる……ッ! なんだこれは。肉の水分が一切抜けていない。タンパク質のアクチンが変性する限界ギリギリの温度で、ミオシンだけが完全に凝固している。静かに肉汁を抱きかかえ、咀嚼されるのをじっと待っている牛肉。まさに58℃の静寂。だがその静寂の主は、決して静かな淑女ではない。むしろ暴力的な肉汁を胸に抱える、情熱的な女傑だ!」
俺が恍惚のあまり天を仰ぐと、デュークが満足げに顎を引いた。
「左様でございます、フォックスウッド公。お教えいただいた通り、水温を保つ魔法陣を起動した大鍋の中で、食材を包んだ魔法の耐熱袋を沈め、58℃を寸分の狂いもなく4時間維持いたしました。ご教示いただいた『真空低温調理』の手法でございます。
そのままでも十分美味しいかとは思いますが、ステーキの醍醐味と言えば焼けた鉄板が肉の表面を焦がすあの焦げ。あの焦げを得るためにどうするか。そこで私は熱した牛脂のオイルの中に肉を入れ、表面だけを強火で揚げ焼きにして焦がして仕上げました」
俺が教えた前世の調理法だけに留まらず、自らの知識と照らし合わせ、さらに一歩進めた調理を行うこの探求心。これこそが「ヴァレンティアの秘宝」、偉大なるシェフ、デュカリエル・グレイリーフだ。
「外側のメイラード反応による芳香と、内部のタンパク質を破壊しない低温加熱! この2つの完璧な分離と融合。デューク、今夜もお前は素晴らしいな」
「ありがとうございます」
「あのう……。二人とも、さっきから何を言ってるの!?」
完全に置いてけぼりを食らったアリスが顔を真っ赤にさせて立ち上がった。
「58℃って何よ! メイラードって誰なのよ! 魔牛の肉を袋に入れてお湯に沈めるなんて、そんなの料理じゃないわ、ただの魔術実験じゃないの!」
俺はモグモグと肉を咀嚼しながら、哀れな子羊を見るような目でアリスを見つめた。
「……やれやれ。アリス、お前には料理というものの本質がこれっぽっちも分かっていないようだな」
「な、なんですって!?」
「いいか? 料理とは科学であり、物理であり、そしてアートだ。肉を美味しく焼くために必要なのは、料理人の気合でもなければ、豪快な炎の魔導でもない。正確な『温度』と『時間』と『水分』の管理だ。……それを今から、お前のその硬い脳味噌に直接叩き込んでやる」
俺はナイフで、ステーキの最も美しく火が通った一口大の肉片を丁寧に切り分けた。
そして、フォークに刺すと、そのままアリスの口元へと突き出した。
「ほら、食ってみろ」
「えっ……? あ、アッシュ……? ちょ……? 何?」
「何って、肉だ。真空低温調理で火を入れたこの肉の内部温度が、どれほど完璧か、舌で理解しろと言っているんだ。この肉は調理に4時間以上かかってるからな、今さらお前の分の皿など用意できない。俺のを分けてやるから、感謝して食え」
「ちょ、ちょっと待って! わ、私に、あなたが……『あーん』って、食べさせる気……!?」
アリスの顔が、瞬く間に髪の毛と同じような鮮烈な赤色に染まった。
エメラルドの瞳が激しく動揺し、両手を胸の前でパタパタと泳がせている。
「そ、そんな……! 幼馴染とはいえ、貴族の令嬢が殿方から直接口に運んでもらうなんて、そんな破廉恥なこと……! で、でも、アッシュがそこまで言うなら……う、受け取らないのも失礼だし……」
アリスは恥じらいに身を震わせながら、おずおずと目を閉じ、桜色の唇を小さく開いた。
背後で控えていたメイドたちから「きゃっ」と歓声が上がった気がした。横目で見ると執事のオルドが、誰にも見えないような素早さで、懐のあたりでグッと小さくガッツポーズを作ったのを俺は見逃さなかった。何をやってるんだあいつらは。
「ほら、早くしろ。肉汁が垂れる」
俺は躊躇なく、アリスの口の中に肉片を放り込んだ。
「んむッ……!?」
アリスの咀嚼が止まる。
次の瞬間、彼女の大きな瞳が見開かれた。
「……な、に……これ……? 信じられないくらい、柔らかい……? それに、中が全然熱くないのに、冷たくもない……焼きたての熱々じゃないのに、中までじんわり温かい……。なのに生焼けの臭みが全くなくて、旨味だけが……!」
「理解したか。それが、58℃という『低温』でじっくり時間をかけて加熱した肉の食感だ。……そして、外側はどうだ?」
「外側は……すごくカリッとしてて、香ばしいわ。まるで強い炎で一気に焼き上げたみたいに……」
「そうだ」
俺はワイングラスを傾け、冷徹な探偵の顔へと戻った。
「外側は強火の短時間で焦がし、内側は低温の長時間でじっくり温める。この2つは、全く別の工程であり、別々の熱源で行われている。……そしてそれは、――お前が持ってきたその『炎封の箱』の謎を解く鍵でもあるんだよ」




