前菜、スープ、そして不吉なノック
夜の帳が降りる頃、フォックスウッド邸の広大なダイニングルームには、蜜蝋のキャンドルの仄かな灯りと、食欲を優しく刺激する芳醇なアロマが満ちていた。
20人が一堂に会せるマホガニーの長大なテーブルの中央に、俺は一人、仕立ての良い濃紺のディナージャケットを羽織って着席していた。襟元には我が親愛なるシェフの瞳と同じ、淡いアイスブルーのタイを締めている。これは我が家において、専属シェフの至高のコースを迎えるための最上級の礼儀だ。
準備は万端だ。公務を1時間で片付け、剣を振って十分に汗をかいた。既に風呂とサウナを済ませ、身も心もととのっている。
「――お待たせいたしました、フォックスウッド公」
厨房の重厚なオークの扉が開き、音もなく現れたのは、一人のすらりとした長身の美青年だった。
銀白の長髪にアイスブルーの瞳の青年。だがそこは長命のエルフ。実年齢は200歳を超えているらしい。
食卓ではその銀白の長い髪をひとつに結び、純白のコック帽の奥に収めている。長命種であるエルフ特有の、陶器のように滑らかな白い肌と、長く尖った耳。氷を削り出したかのような冷涼な美貌の持ち主――デュカリエル・グレイリーフ。我がフォックスウッド家の専属シェフであり、齢200年を超えるエルフの料理人。
エルフにしては非常に珍しく料理に興味を持ち、その長い長い知見と経験、そして多彩な精霊の加護や魔法を駆使して他には無い調理方法で極上の料理を提供する唯一無二のシェフだ。
何代か前のフォックスウッド家の当主に振る舞われた料理に興味を持ち、気まぐれなエルフはいつしか屋敷に住み着き、そのままフォックスウッド家の専属シェフの座に収まった。以来、当主は何代か変わったがデュークは変わることなく厨房に立ち、日々、飽くなき料理への情熱を発揮し続けている。
「本日の前菜でございます。『霜降り赤鱒の瞬間スモーク、柑橘のジュレと香草のソースを添えて』」
銀のドーム型の蓋が開けられた瞬間、閉じ込められていたリンゴのチップの芳しい燻香が、ふわりと俺の鼻腔をくすぐった。
皿の上に現れたのは、淡い桜色をした鱒の切り身。外側には微かに熱が通り、身の内部はまるで宝石のように透き通ったレアのグラデーションを描いている。
「……素晴らしいな。氷の魔術で魚を低温に保ちつつ脱水し、炎の精霊の力を借りて表面だけを瞬間的に燻製にしたのか?」
「ええ。火入れはアッシュ坊……失礼。フォックスウッド公が以前おっしゃっていた『不飽和脂肪酸の融点』とやらを意識してみました。脂が溶け出す手前、舌の熱だけで溶ける火の入れ具合を狙っております」
「完璧だ。いただきます」
フォークで切り分け、口に運ぶ。
とたんに上品な燻煙の香りが鼻腔を抜ける。舌の上に身を置いた瞬間、皮と身の間に溜め込まれた魚の脂がとろりと融解した。噛み締めるまでもなく、繊維が優しくほどけていく。柑橘のジュレの鮮烈な酸味が脂のくどさを綺麗に洗い流し、香草オイルが舌に残り、時間差で口腔全体に広がっていく。完全な乳化が生み出す、圧倒的な舌触りの滑らかさ。
「……美味い。美味すぎるぞ、デューク。これなら一皿と言わず、鍋ごと胃袋に流し込める」
「お気に召されたようで光栄です。ですが、胃袋はメインの皿のために空けておいていただかねば困りますよ」
デュークは涼しげにアイスブルーの瞳を細め、微かに口元を綻ばせた。
この男の恐ろしいところは、俺が前世の記憶から語る「タンパク質の熱変性」だの「オイルの役割」だのといった小難しい調理の理論を、自身の持つ卓越したエルフの魔術と、200年の経験則による勘だけで、やすやすと皿の上に再現してしまう点にある。しかも、実に軽やかに、楽し気に。
脇で控えていたオルドが、銀のトングでパンをサーブしながら、どこか遠い目をして呟いた。
「それにしても、旦那様が自ら厨房に立たないのは賢明なご判断ですな。私めにはその昔、理屈だけはいっちょまえな旦那様が、目玉焼きを真っ黒な炭へと昇華させたあの朝の光景が今も目に浮かびますぞ」
「オルド、いつまでその話をする気だ。あの頃の俺はまだ子供だった。知識だけは先行していたが、身体の出力が追いつかなかっただけだ」
「では、今は」
「俺も成人した。あのころとは違う」
俺はナイフとフォークを皿に置き、オルドを見やる。
「今なら的確にデュークに指示を行い、極上の料理をサーブして貰えるだろう」
「さすが旦那様」
「ああ。知識と実技は別のスキルだ。料理の知識は俺。実技はデューク。これ以上ない完璧な役割分担だ」
「ご自分の不器用さにあえて触れない点が気にかかりますが、公爵家の主人の差配としては、先代様に追いついてきましたな」
俺が執事と軽口を叩き合っている間に、続いての皿――スープが静かに運ばれてきた。
白磁の深皿に注がれているのは、まるで黄金の雫のように透き通った液体。立ち上る湯気は、野性味あふれる森の香りと、熟成された野鳥の旨味を凝縮させたような力強さを湛えている。
「『森の鳩と干し茸のダブルコンソメ』でございます。一度引いたブイヨンに、さらに鳩の挽肉と香味野菜、そして卵白を加えて極弱火で2時間。不純物をすべて卵白の網に吸着させ、澄み切った旨味だけを抽出いたしました」
「……ああ、これだ。これだよ」
黄金のスープの向こうには、皿の底まで透き通って見える。美しい。俺はスプーンを沈め、一口すする。
喉を通った瞬間、熱い滋味が染み渡るように胃壁を温めていく。雑味が一切ない。澄み渡るような透明感の奥に、圧倒的なアミノ酸の厚みが潜んでいる。舌の上に重層的な旨味の余韻を残しながら、後味は驚くほど軽やかだ。
「素晴らしい……。これほどのコンソメを引くには、長い長い時間がかかったことだろう」
「ええ。炎の精霊を宥めすかし、鍋肌が微かに震える程度の火加減――アッシュ坊のいう温度で言うと、85℃から90℃の間を保ち続けたぞ」
調理方法の話題になり、テンションの上がって来たデュークの口調が少し砕ける。"アッシュ坊"とは子供の頃の俺の愛称だ。懐かしい呼び名に俺も思わず笑った。
「素晴らしいな。いつ見てもお前の魔術の無駄遣いには惚れ惚れするよ」
そして、『温度』。この世界には温度という概念が無かった。「火加減」という感覚的な火の強弱の概念はあったが、物の暖かさを数値化する考え方が無かったのだ。当然、温度計も無かった。
そこで俺がデュークに温度について説明すると、デュークは魔石とエルフの魔法を駆使してあっという間にこの世界初の「温度計」を作り出した。以来、自分の経験と照らし合わせ、様々な料理の「温度」を数値化し、活用している。大した探求心だ。
「さて、いよいよ次が角魔牛の――」
俺が恍惚とした表情でスプーンを置いた、まさにその瞬間だった。
ダイニングルームの重厚な扉が、ドタバタという、貴族の館にはおよそ似つかわしくない無作法な音を立てて叩かれたのは。
バン! と扉が開き、息を切らしたメイドのノーラが飛び込んできた。……いや、飛び込んできたのはノーラだけではない。
「だ、旦那様! ただ今こちらのハートレイ伯爵家のご令嬢のアリスステラ様が――」
「アッシュ! お願い、助けて! もうあなたしか頼れる人がいないのよ……っ!」
ノーラの制止を振り切り、燃えるような赤い髪を振り乱して部屋に雪崩れ込んできたのは、豪奢なドレスの裾を泥で汚した少女だった。
アリスステラ・ハートレイ。俺の幼馴染であり、由緒ある火炎魔導の家系、ハートレイ伯爵家の息女である。エメラルドのような碧眼には大粒の涙が溜まり、白い頬を紅潮させて、今にも倒れ込まんばかりに俺のテーブルへと突進してきた。
俺は、手に持っていたナプキンを静かにテーブルに置いた。
そして、冷え切った眼差しをアリスに向け、深いため息を一つ吐き出した。
「……オルド」
「はっ」
「俺は確か、今夜は外部からの予定を一切受け付けるなと言ったはずだが?」
「申し訳ございません旦那様。ですがアリスステラ様が。いえ、”執事が未来の公爵夫人に推したい令嬢ランキングナンバーワン”のアリス様がお困りのようですが……」
「どさくさ紛れに妙なランキングを発表するな」
「ちょっとアッシュ! 私の話を聞いて!」
アリスはテーブルに両手を突き、涙目で俺に詰め寄った。
どうやら、その迫真の表情から察するに、彼女自身や彼女の家名に関わる致命的な危機が起きたらしい。だが、俺の心を満たしていたのは、同情でも焦燥でもない。ただ純粋な、底知れぬめんどくささだった。
「……なあ、アリス」
「な、なに……?」
「厨房を見ろ。あの中では、デュークが今まさに、角魔牛のランプ肉の塊を手に持ち、仕上げの火入れを行っている。今夜、この世界で最も神聖な儀式なのは間違いないだろう。その儀式が、お前の空気の読めない闖入のせいで失敗したら……肉の火入れが失敗したら、俺はお前を生涯許さないぞ」
「人の命がかかってるかもしれない時に、肉の話をしてるんじゃないわよこの馬鹿ーーっ!!」
耳をつんざく令嬢にあるまじき絶叫が、防音魔法の施された豪奢なダイニングルームに響き渡った。




