目覚まし時計のない世界の朝と厳格な老執事
人間がベッドを愛する気持ちは、いつの時代でもどの世界でも変わらない。そして二度寝という至高のおかわりタイムも。いや、むしろ就寝後の8時間睡眠は前菜。その後に控える15分の二度寝こそがメインディッシュだ。このゴールデンタイムを満喫しよう。
そんな今朝の俺――アシュレイ・フォックスウッドの意識を引きずり戻したのは、耳元で容赦なく鳴り響いた銀のスプーンとソーサーを打ち鳴らす甲高い音だった。
「旦那様。おはようございます。朝の紅茶をお持ちしました。起き上がらなければ、このダージリンの蒸気で寝癖を直していただくことになりますが?」
「……あと5分待て」
「生憎と極上のファーストフラッシュをむざむざと冷めさせる時間はございません。ほら、両手をお出しください」
羽毛布団を頭までかぶろうとした俺の指先から、無慈悲にも掛け布団が剥ぎ取られた。
薄眼を開けると、そこには糊の効いた純白のシャツと寸分の隙もない燕尾服を身に纏った見事な白髪の紳士が立っていた。柔和な顔に銀縁眼鏡。我がフォックスウッド家歴代の当主に仕え、国中の貴族たちから「フォックスウッドの鼎」と畏敬を込めて呼ばれる、オルバート・ハイロンド。
一点の曇りもなく非の打ち所がない我が家の筆頭執事である。――主に対する敬意が著しく欠如している点を除けば。
「……オルド、お前はもう少し主というものに憐憫の情を抱けないのか? 俺は昨日、領地から届いた退屈極まりない麦の収支報告書を夜半まで読んでいたんだぞ」
俺は文句を垂れ流しながらも、観念してベッドの上に上半身を起こした。
手渡された白磁のカップから、ゆるりとほどけた熱気と共に、花のようなかぐわしい香りが立ち上る。一口含むと、心地よい渋みとほのかな甘みが舌の上に広がり、我が灰色の脳細胞が一つずつ点灯していくのがわかった。美味い。流石はオルドの淹れる茶だ。
俺がこの中世ヨーロッパめいた見知らぬ異世界に「転生」してきたことに気づいてから、およそ10年が経つ。
前世の俺は、日本のしがない食品メーカーの研究員だった。食材の物性や加熱によるタンパク質の変性をデータ化し、ひたすら厨房と研究室の往復に青春を捧げていた、いわゆる「調理科学オタク」だ。
過労死なのか事故死なのかは定かではないが、気がついたときには、このカーター=フェルド連合王国の一角、ヴァレンタイン王国の名門貴族「フォックスウッド公爵家」の跡取り息子として新しい生を得、のびのびと育てられていた。
公爵家、といえば聞こえはいい。だが我が家は代々、王家のもめ事を陰に日向に処理をする、「探偵」としての役割を押しつけられてきた家系だった。宮廷内のいざこざや不可解な変死事件、国家間の密書盗難から貴族間のささいなもめ事まで。やんごとなき方々のあれやこれやを解決するための便利な雑用係。それがフォックスウッドの役割だ。
この役割を得ているのは、フォックスウッド家固有の「時魔法」によるところが大きい。が、残念ながら俺には時魔法はおろか、この世界では初歩的な生活魔法すら授けられなかった。貴族の子息としては珍しい「無色」の子供だ。ちなみに、転生者にありがちなチート能力も特に授かっていないようだ。
おまけに2年前、両親が不慮の馬車事故で急逝し、俺は20歳という若さでこの厄介な公爵家を継ぐ羽目になった。世間からは「実力不足のまま当主になった、(カモにしやすい)気の毒な若者」と憐憫と侮蔑の混ざった目で見られているが、俺に言わせれば他人の思惑などどうでもいい。公爵家の退屈な責務などできる限りオルドに押し付け、美味いものを食って静かに暮らせるなら、いくらでも無能な若殿を演じてやるつもりだ。
――美味いものが、食いたい。
ただ豪華なだけの食事ではない。前世の調理科学の知見と、この世界の豊穣な食材と魔法による調理が融合した、極限の美食を食いたい。この世界に俺が望む事はそれだけだ。
「あー、それでオルド。今夜の予定はどうなっている」
俺はカップをソーサーに戻しながら、極めて事務的に、あくまでも事務的にみじんも期待を滲ませぬ調子で尋ねた。
「はい。今夜は珍しく、外部からの陳情も、王宮からの予定も入っておりません。よって、デュカリエル様が腕を振るうことになっております。……コースのディナーを」
その瞬間、俺の全身の血の巡りが、ダージリンのカフェインの効果とは比較にならないほど跳ね上がった。期待以上ではないか。
「コース……だと? デュークが?」
「はい。今朝方、冒険者のリサンドラ様から、鮮度・放血状態ともに完璧な『角魔牛』の上質なランプ肉が届いたとのことです。デュカリエル様はたいそう上機嫌で、厨房の調理器具を全て銀磨きで磨き上げておられました」
「角魔牛のランプ肉……! あの、赤身の繊維が細かく、噛み締めるほどに澄んだ肉汁が溢れ出すという、幻の……!」
俺は勢いよくベッドから跳ね起きた。気だるさは霧散し、胃袋が猛烈な歓声を上げ始めている。
俺は先ほど、何もチート能力を授からなかったと言った。あれはある意味正しい。が、ある意味正しくないとも言える。
確かに俺自身には特に秀でた能力は授からなかった。だが、この世界に俺をいざなった神は、チート能力以上の極上の加護を2つも授けてくれたのだ。1つは言うまでもない。我が執事オルバートだ。
そしてもう1つの加護が、我が家の専属シェフにして「ヴァレンティアの秘宝」、デュークことデュカリエル・グレイリーフだ。
オルドとデューク、この2人がいる家へと転生してきた事こそが、俺にとっての最大の神の加護と言っても過言ではない。ありがとう、神よ。でもできれば家系に伝わる魔法は使えるようにして欲しかったです。
だが、そんな事は些細なことだ。今一番大事なことは、今夜、デュークがコースディナーを作る気になっていることだ。
「オルド、すぐに着替えの手伝いを。今日の夕方以降の予定は何があっても入れないように。それと、ディナージャケットの用意をしておいてくれ。あいつが本気でコースを組む時に、部屋着同然の服で食卓につくなど、料理とシェフに対する冒涜以外の何物でもないからな」
「かしこまりました。旦那様がそのように貴族としての体裁に前向きになってくださると、天国の先代様も草葉の陰で胸を撫で下ろしていることでしょう。……それが単なる食欲に起因するものであっても。馬子にも衣裳といいますし、形の上では立派な当主に見えますからな」
「余計な一言を飲み込めば、お前は世界一の執事になれるんだがな」
俺は軽やかに笑いながら、足早に浴室へと向かった。
さあ、忙しくなるぞ。公務などさっさと終わらせてやる。最低2時間は剣を振らなければ。至高の食事を食べるためには、また、自分の体調も至高に整えておくべきだ。体を動かし、腹を空かせるのが貴族の嗜みというもの。
「昼飯はスコーンにジャムだけでいいな」
完璧な一日になる……はずだった。この時の俺は、運命の女神――特に当家の女神が、至高のディナーの直前に限って最悪のスパイスを投げ込んでくる悪癖を持っていることを、すっかり失念していたのである。




