最大の調味料は己の準備
「――旦那様。お帰りなさいませ。完璧な時間配分でございますな」
屋敷の玄関をくぐると、非の打ち所のない礼服を着た老執事オルドが、冷えたタオルを差し出してきた。
「ああ。完璧――完璧なんだ。オルド、今夜の胃袋の受け入れ態勢は過去最高かもしれない。俺の消化器官は今、濃厚なチーズの海へとダイブする準備を完了している」
「結構なことでございます。デュカリエル様も厨房にて、調理を進めております。お召し替えになり、ダイニングへとお越しください」
俺は鼻歌交じりに深いネイビーのディナージャケットに着替え、ダイニングルームへと向かった。
20人が座れる長テーブルの端に腰を下ろすと、厨房の扉の隙間から、えも言われぬ芳醇なアロマが漂ってきた。
熟成されたチーズ特有の酸味を含んだ濃厚な香り、そして何かを炒めるパチパチという音。水分を飛ばしている時のジュゥゥ……という音ではない。脱水しきってうま味を凝縮した食材にさらに火を入れている時のこのサウンド。さすがの俺の胃袋も紳士のままではいられずに声を上げ、口内には洪水のように唾液が溢れ出す。
厨房の奥から「チリリリリ……」と、キッチンタイマーの澄んだベルが響いた。パスタか。パスタなのか? ショートか? ロングなのか? 茹で上がったのか!? おいどうなんだデューク。
完璧だ。あとは熱々の皿が運ばれてくるのを待つばかり――
ダンッ!!
「アッシュ! お願い、力を貸して!」
「やあアッシュ、また来ちゃったよ」
蝶番が悲鳴を上げる勢いでダイニングの扉が跳ね飛ばされ、二人の闖入者が転がり込んできた。
一人は、燃えるような赤髪を振り乱し、エメラルドの瞳に必死の色を宿した幼馴染のアリス。
もう一人は、その後ろで飄々と人の良さそうな笑みを浮かべている第一王子レオニール。
俺は手に持っていたカトラリーを、静かにテーブルに置いた。
「……オルド」
「はい」
「我が家の門の閂は、豆腐か何かでできているのか?」
「頑丈な魔導鋼でございます。ただ、レオニール殿下がお持ちの『王家の紋章』の威光の前には、いかなる閂も自然と道を開けてしまうようでございまして」
「融通の利かない閂だな。今度から丸太でも噛ませておけ」
「ちょっとアッシュ! そんなこと言ってる場合じゃないのよ!」
アリスがテーブルに手をついて身を乗り出してきた。
「人が亡くなったの! 今日の夕方、王立ルーメン蒸気院で!」
「何? あの騒ぎの当人は死んだのか?」
「騒ぎって……知ってたの?」
「ああ。俺がちょうどサウナに入っていた時、隣のブロックで騒ぎになっていた。ただの脱水症状かと思ってたが、死んだのか。そうか。残念だが、年寄りが無理して長湯でもしたんじゃないのか」
「違うのよ!」
アリスは悲痛な声を上げた。
「当初は王宮警察も『急激な脱水症状による事故死』として処理しようとしていたわ。でも、遺体を検分した医師官が異常に気づいたの。死因は脱水症状なんかじゃない。――『窒息死』だったのよ!」
「……窒息?」
俺は微かに眉をひそめた。
「サウナ室で窒息死だと? 火災が起きて煙を吸ったわけでもないのにか?」
「ええ。気道に火傷の跡はなく、煙を吸い込んだ形跡も一切ない。部屋の中に有毒ガスが発生した痕跡もなかったわ。それなのに、窒息死の兆候が見られるって……」
話を引き継いだのはレオだった。いつもの締まりのない笑みを消し、神妙な顔つきで顎に手を当てている。
「そしてね、現場のサウナ室の状況が極めて不可解だったんだ。サウナ室にはそもそもカギはついてないから、扉を押すだけでいつでも外に出られる状態だった。そして、緊急時に押せば外の魔導ベルが鳴るはずの『非常通報魔具』にも手が伸ばされた形跡がなかった」
「いつでも出られたのに、逃げ出さずに窒息した……? なら、誰かに無理やり押さえつけられたのか?」
「それがあり得ないのよ」アリスが首を振る。「被害者の体には、争ったり拘束されたりした外傷や打撲痕が一切なかったの。まるで……自分の意志で静かに座ったまま、空気だけを綺麗に抜き取られたみたいに」
レオがため息混じりに肩をすくめた。
「でね、王宮警察はこう結論づけたんだ。『窒息という事は、犯人は部屋の空気を魔法で抜き取り、一瞬で真空状態を作り出して窒息させたに違いない』ってね。そして――そのサウナの従業員のエラリオが、容疑者として拘束されちゃったんだよ。エラリオは僕の友人なんだ」
エラリオ。確か、風の魔法を操る家系の下級貴族で、確かに学園時代にレオの友人の一人だった男だ。……まあ、学園時代にこいつの友人じゃなかった奴なんて、校長と銅像くらいだけどな。銅像にまで話しかけてた可能性まである。
「エラリオは風魔法に長けているけれど、絶対にそんなことをする人じゃないわ!」
アリスが必死に訴える。
「エラリオのウィンドレイク家は代々、我がハートレイ家を支持してくれている誠実な家柄よ。レオニール殿下を推す派閥の末端でもあるわ」
「そうなんだよ。エラリオは僕の友人だし、アリスのハートレイ伯爵家が後見人を務める派閥の人間なんだ。王宮警察の上層部――特にアドを推している連中は、『第一王子派の貴族が、スパの中で不可解な殺人事件を起こした』って大騒ぎし始めているよ」
「……なるほどなあ」
俺は冷え切った目で天井を仰いだ。
「第一王子を支持する陣営には炎や風の魔導を継ぐ家が多く、第二王子を支持する陣営には水や土の魔導を継ぐ家が多い。……風魔法で部屋の空気を抜いて暗殺したとなれば、エラリオの単独犯行に見せかけて、レオ派全体に『卑劣な暗殺者の集団』という泥を塗ることができるわけだ」
「そうなの!」アリスが悲痛に叫ぶ。「エラリオがそんなことするはずがないわ! あの子は気が小さくて、人を傷つけるような真似ができる子じゃないのよ!」
俺は冷淡に紅茶を一口すすり、言った。
「なら、切り捨てればいいだろう」
「……え?」
アリスが息を呑んだ。
「ハートレイ伯爵家の力を使えば、下級貴族の一人の《《不始末》》くらい簡単にもみ消せるだろ。あるいは『個人の暴走』として先手を打って断罪してトカゲの尻尾切りでもすればいい。そうすればハートレイ家にもレオにも火の粉は飛ばない。大貴族の処世術としてはそれが一番安上がりだろ」
「……アッシュ。ううん。フォックスウッド公爵閣下、本気で言ってるの?」
アリスの瞳に、激しい怒りの光が宿った。彼女は拳を固く握りしめ、凛とした声で俺を睨み据えた。
「隠蔽なんて絶対にしないわ! もし彼が本当に罪を犯していたのであれば、それにふさわしい罰を受けるべきよ。それを隠すなんて間違っている。ましてや、我が家を守るために彼を切り捨てるような事は絶対にしないわ! そして、彼が潔白であるなら、見捨てることなんて絶対にしないわ。それを証明し、救うために手を貸す。それが上位貴族の矜持というものよ!」
真っ直ぐで、一点の濁りもない高潔な瞳。
貴族の矜持を絵に描いたようなその姿。損な生き方だと心底呆れるが――まあ、嫌いではない。
「アッシュ、お願い。あなたの知恵を貸して。エラリオの無実を証明してほしいの」
「……おいおい。俺はただの食い道楽だぞ。まあ、現場の状況を聞く限り、そのエラリオって奴に、サウナ室全体を真空にする力量があるかどうかは疑問だし、一瞬真空にしたくらいじゃ、自分で逃げる事も非常ボタンを押す事もできたんじゃないの。だいたい、本当に真空にして窒息死させたのなら、鼓膜の損傷くらいは起きているだろう、とは思うけどな」
「そ、そうなのよ! ろくに調べもせずに罪をなすりつけるつもりなんだわ」
「あとねアッシュ、ひとつ奇妙な点もあるんだよ」
今度はレオが身を乗り出した。
「現場のサウナ室の壁や床一面に、不自然な『ツルツルとした微細な油膜』が残されていたんだよ。水で洗い流しても簡単には落ちないような、薄い脂の膜がね。王宮警察は床に転がっていたアロマ水用の瓶を見て、『被害者が持ち込んだアロマ水のオイルがこびりついたんだろう』って無視しているけれど……」
「油膜……?」
俺は指先で顎を撫でた。
たとえサウナの熱気でオイルを使ったアロマが蒸発したとしても、その程度で、部屋全体に油膜がびっしり張り付くなどあり得るか? そもそも、蒸気浴するつもりで持ち込んだアロマ水であれば、水溶性のアロマを利用するはずだ。脂溶性のアロマは、香りの《《持ち》》は良いがサウナストーンの上で油が焦げる。普通は使わない。ならば脂が残るはずはないが……。
何か不自然だ。おそらく風魔法士の仕業ではない。別の何かがその密室で行われた。 だが、それが一体何なのか。鍵もかかっていないサウナ室で、外傷もなく、通報もさせずに人間を窒息死させる方法などあるのか――
俺が思考の淵に沈みかけた、その時だった。
チリリリリン。
澄んだベルの音が鳴り響き、厨房の扉が静かに押し開かれた。
「――お待たせいたしました、フォックスウッド公」
純白のコックコートを着たデュークが現れた。今の俺には後光すら見える。
銀のワゴンの上からは、もはや暴力としか言いようのない芳香が、ロウリュ時のアロマのように部屋の隅々まで広がっていく。
「本日のメインディッシュ『とこしえに蕩けるマカロニ・アンド・チーズ、チップスを添えて』でございます」




