己と対話せよ
ととのう、という言葉がある。
前世のサウナ愛好家たちが好んで使っていた言葉だ。ある人が言った。サウナとは、魂を研ぎ澄まし、自分と対話する神聖な調律である、と。
汗を流して体内の余分な水分を放出し、体の隅々まで血流を行き渡らせ、毛穴のひとつひとつまで清め上げる。熱と向き合っているうちに余分な雑念は自然と捨て去られ、体だけでなく頭の中まで限りなくクリアになる。そして人は自然と向き合うのだ。――己の胃袋と。
全身の細胞と感覚が研ぎ澄まされ、胃袋が猛烈な空白を訴え始めるこの感覚。この後に控える冷水浴と休憩、そして帰宅後のディナー。完璧な流れだ。今夜は、デュークが前々から「アッシュ坊の言っていた、あの黄金の料理を作ってみよう」と予告していた大切な日なのだから。
サウナとは、そう、これから胃袋へと迎え入れる極上の料理に対し、全身全霊をもって五感――特に味覚を研ぎ澄ませ、「空腹」という最高の敬意を払うために不可欠な儀式なのだ。
ヴァレンタイン王都の威容を象徴するランドマーク「王立セレスティア蒸気塔」。その巨大な魔導ボイラーから供給される純粋な蒸気を利用した温浴施設「王立ルーメン蒸気院」。俺はその個室で1人、自分(の消化器官)と向き合っていた。
石造りの小さなパーソナルサウナの中では、そよぐ熱波が肌を心地よく撫でる。風魔法だろうか。室温およそ90℃。部屋の隅には魔導ストーブと、その上の熱せられたサウナストーン。床には汗を流すための排水溝が備え付けられている。
そして、壁には魔導式の非常通報ボタンがあり、前室へと続く扉にはカギはなく、単に押せば開くようになっている。そのうえ、耐熱ガラス製の窓まで付いている。万が一の体調不良時や不測の事態にも対応可能な万全の設計だ。さすが王立施設。
「ふう……完璧だ。これ以上入れば脱水で舌の感覚が鈍る」
既に神経は研ぎ澄まされ、味覚もビンビンだ。俺は立ち上がり、サウナ室の木製扉を押し開けた。
併設された冷水風呂に首まで浸かり、息を吐き出す。皮膚の表面に薄い「水の羽衣」が形成され、脈拍が穏やかに落ち着いていく。
極楽だ。この後は屋敷へ戻り、この日のために新調したディナージャケットに着替え、デュークが腕によりをかけた絶品を迎えるだけだ。あのデュークが数日前から「極上の熟成チェダーが手に入った」と嬉々としていた。あいつの喜ぶ姿を見るだけで主人としては飯が美味い。いや失礼、俺も嬉しい。
バスローブを羽織り、脱衣場へと向かおうとした、まさにその時だった。
ドタバタと、湿った石畳を乱暴に踏み鳴らす足音が響いた。
「おい、開けろ! 中から返事がないぞ!」
「扉は開くぞ! ……ひっ、だ、誰か呼んでこい! 息をしていない!」
けたたましい叫び声が、湯気煙る通路に反響する。
どうやら数部屋隣の個室サウナで、客が倒れたらしい。従業員たちが青ざめた顔で右往左往し、騒然とした空気が広がっていく。
俺は濡れた前髪をタオルで拭いながら、ドライにその光景を一瞥した。
「……大変だなあ」
誰かが水分補給を怠ったまま入って脱水症状でも起こしたのだろうか。それとも、飲酒後にいい気分のまま入って頭に血が上ったか。どちらにせよ、気の毒だが、俺は医者でもなければ救急隊員でもない。
何より、ディナーの約束の時間は19時。あと40分で屋敷に戻り、身支度を整えねばならないのだ。サウナ上がりの完璧なコンディションを、他人のトラブルで冷ましてたまるか。
俺は何食わぬ顔で蒸気院を後にし、待たせてあった馬車へと乗り込んだ。
――そのトラブルが、我が家の食卓まで土足で追いかけてくることなど、微塵も疑わずに。




