夜のテラスと訪問者
夜の帳が降り、フォックスウッド邸のテラスには涼やかな夜風が吹き抜けていた。 庭園の梢が擦れ合う音が、静かに響いている。いい夜だ。
「フォックスウッド公、お飲み物をお持ちしました」
現れたデュークの手には、細長いフルートグラスが2つ載った銀のトレイがあった。その澄ました顔が、俺を見てニヤリと崩れる。
「今日はお疲れさん。アッシュ坊。ほら、面白いものを作ってきたぞ。カクテルじゃなくてノンアルのモクテルだ」
グラスの中に満たされていたのは、3つの層を持つ幻想的な液体だった。
底に沈む濃密なグレナデンの深紅。中央を満たす鮮やかな柑橘の黄金色。そして最上層に浮かぶ、夜空を溶かし込んだような紫紺のハーブエキス。成分ごとの比重の違いを利用し、見事なグラデーションを描いている。
「遠心分離機で糖度と比重を調整いたしました。『三層の夕暮れ』でございます」
デュークがおどけてお辞儀をする。
「美しい。お前の作るものは、いつも飲むのが惜しくなるなあ。これは最初にかき混ぜる方がいいのか?」
「どうぞ、ご自由に」
俺はグラスを受け取り、テラスの手すりに寄りかかった。
冷たい液体を口に含むと、ザクロの甘み、柑橘の鮮烈な酸味、そしてハーブの清涼感が、時間差でグラデーションを描きながら舌の上を滑っていく。
「昼間の件、見事な看破だったな」
デュークが静かな声で言った。
「酸と色素の変色。私の長い長い時間でも似たような経験はあったけれど、それを『理屈』として説明できるアッシュ坊には、いつも驚かされるよ」
「大したことじゃない。前世じゃ中学生でも知っている理科の実験だ」
「ふふ。イセカイテンセイという奴だったか。本当に不思議な奴だ。おかげで私は退屈しないですむよ」
俺はモクテルを傾け、夜空の月を見上げた。
その瞬間だった。
――ザッ
テラスの手すりの外、闇に沈む中庭の樹上から、音もなく黒い人影が滑り込んできた。
身長は2mに達しようかという大男。夜陰に紛れる漆黒の装束に身を包み、手には月光を反射して青白く光る抜き身の短剣を握りしめている。足音一つ立てずにテラスの床に着地した男は、迷うことなく俺の喉元めがけて切っ先を突き出してきた。
無言の、必殺の刺突。
常人であれば、悲鳴を上げる間もなく喉笛を裂かれていたことだろう。
だが。
「……なんだよ。無作法な奴だ」
俺はグラスを持った左手を微動だにさせず、傍らにあった重厚な銀のアイアンチェアの背もたれを、右手一本で無造作に掴み上げた。
こう見えて、俺は毎日無心で剣を振り続けている。理由はもちろん、我が偉大なるシェフの料理を最高のコンディションで迎えるためだ。剣の扱いや捌き方にはあまり興味はない。
日々、ただただ他の連中が嫌がる基礎鍛錬を繰り返してきた。あれが一番効率よく腹が減る。そのおまけとして、体幹は人並み以上に鍛えられた。この程度の動き、前菜のサラダにもならない。
ガッ!!
「ぐふッ!?」
短剣の刃が届くよりも早く、振るわれた鉄の椅子の脚が、暴漢の鳩尾へとめり込んだ。肺胞の空気をすべて吐き出させる強烈な一撃。男の目が白目を剥きかける。流れるような動作で、俺は椅子の軌道を反転させ、男の側頭部へと叩きつけた。
ゴッ! という鈍い音と共に、暴漢の巨体がテラスの石畳の上に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
モクテルの水面は、一滴たりとも揺れていなかった。
「……ふう。せっかくのドリンクに埃が入るところだった」
俺は椅子を静かに元の位置に戻し、モクテルを一口すすった。
「相変わらず、見事な体の捌きでございますな」
デュークは眉一つ動かさず、氷のようなアイスブルーの瞳で倒れた暴漢を見下ろしていた。
「屋敷の防護結界を潜り抜けてくるとは、それなりの腕利きなのだろうか」
「かもな。それか、昼間に入った皆様方の誰かが侵入経路を作っていたか」
「こいつの目的は何なんだ。こんな若造が当主の家に、盗むものなんてないだろう」
俺はデュークの軽口に応じた。
「まあ、《あれ》だろうな。王子たちにふるまわれたグラスの回収だ」
俺はテラスの隅の小机に置いてあった、あの『血に染まったグラス』を顎で指した。
「……昼間、俺はレオたちには『あれはただの色素の手品だ』と言った。実際、水が赤くなったトリックはその通りだ。おそらく、レオかアド殿下かは知らんが、どっちかを廃嫡へと追い込みたい勢力が仕組んだ、誰も死なない安全な茶番劇だったのだろう」
「『しかし』と続くのかな?」
「ああ」
俺はグラスの縁を指先でなぞった。
「しかし、あのグラスの『縁』――口をつける部分にだけ、別の無色透明の液体が塗られていたよ。微量でも皮膚から吸収され、数日後に心臓を麻痺させる、極めて遅効性の猛毒がな」
デュークの細い眉が、微かにピクリと動いた。
「……なんと」
「誰かが無害な茶番に便乗し、別の誰かが密かに『本物の殺意』を紛れ込ませたのか、あるいはその逆だったのか。とにかく、レオがあのグラスで聖水を口にしていれば、毒殺は完了していた。そしてその死は、神の怒りか、あるいは誰かの責任に転嫁されていたはずだ」
しかし、水が突如として血の赤色に染まったことで、警戒した周囲が昼食会を中止し、レオは水を飲むことなく命拾いした。
毒を塗った真犯人にしてみれば、証拠の残るグラスがフォックスウッド家に押収されたことは、誤算だったはずだ。
「だからこそ、こうして夜陰に乗じて回収に来たわけだ。……俺が毒の存在に気づく前にな」
「犯人の見当は?」
「まだ確証はない」
俺は目を細め、夜の闇の向こう――王宮の方角を見つめた。
「だが、いるんだろうな。影に隠れ、人を消そうとしている奴が。……2年前、父上と母上の馬車に『事故』を装った細工を施した奴みたいな誰かがな」
胸の奥が、ゆら、と低温調理の湯のように低い温度の熱を帯びていくのを感じた。
「アッシュ坊……」
「ああ、悪い悪い。やめだ、やめ。俺はそういうドロドロしたのは興味ない。オルドを呼んで、この転がっているゴミを片付けてもらおう」
「かしこまりました、フォックスウッド公」
デュークが笑って恭しく頭を垂れる。
俺はグラスに残った最後のモクテルを一気に煽り、空になったグラスをトレイに戻した。
「さて、デューク。夜風で体が冷えたな」
「では、何か温かいものでもお作りしましょうか?」
「ああ。最高に美味い夜食を頼む。……陰謀の臭いなんぞで、せっかくのお前の料理が穢されないような香り高いやつをな」
「かしこまりました」
王家を揺るがす暗殺計画などどうでもいい。そんなもの、我がシェフの作る夜食の美味さに比べれば、オイル1滴分ほどの価値もありはしないのだから。




