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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第八十一話 ひとりだけが夜を見ても、朝は六人で選ぶ

 翌朝。


 採択領域から離脱した黒瀬零には、何の変化もなかった。


 少なくとも、通常時間の上では。


『七時十二分に起床。七時二十六分に朝食。八時三分に第二仮設居室を出た。移動も食事も全部、普通に時間を使ってる』


「寝起きは?」


『普通』


「夢は?」


『覚えてない』


「頭痛」


『なし』


「吐き気」


『なし』


「視覚異常」


『なし』


「昨日みたいに俺たちが止まって見えたことは?」


『一度もない』


 玄理の質問へ、通信窓の向こうの俺が淡々と答えていく。


 《未定義現象研究室》会議区画。昨日と同じ六脚の椅子には、《未統一回答》の候補名が残っている。ただし、六人全員が実際に座っているわけではない。


 現在の俺と灯は研究室。第四候補、三年前の俺、帝都理法大学の俺、採択領域から離脱した俺は、それぞれ異なる場所から遠隔参加している。


 六件の現在。一件の候補名。


 そして相変わらず、中央には誰もいない。


「生体情報にも異常なし」


 玄理が言った。


「昨日成立した《無刻認識》は、持続的な状態ではない可能性が高い」


「一回だけ?」


「現状ではな」


『じゃあ、偶然だった可能性もある?』


 三年前の俺が訊く。


「ある」


「でも門は適合対象にこいつを選んだ」


 俺は採択領域離脱の零を見る。


「偶然だけで説明するのも無理があるだろ」


「だから調べている」


 玄理は新しい表示を開いた。


 昨日の記録。


 ――先行適合対象。


 ――採択領域離脱・黒瀬零。


 ――無刻認識。


 ――一時成立。


 その下には、昨夜、発信元を持たないまま残されていた一件の記録がある。


 ――先に届くことを。


 ――残る者の否定に使わなかったこと。


 ――確認した。


「これ、誰も見てなかったんだよね」


 灯が言った。


「ああ」


「なのに保存されてた」


「自動保存は切っていた。外部入力履歴もない。記録が生成された時刻に、会議区画へ接続していた端末も確認できない」


 玄理の声が少し低くなる。


「じゃあ、またあの人?」


「人と決めるな」


「はいはい」


「返事が軽い」


「でも、前と文章似てるよ」


 灯の言う通りだった。


 前回、《未統一回答》という候補名を成立させた直後に現れた記録は、


 ――名前を。


 ――人の代わりにしなかったこと。


 ――確認した。


 そして昨夜は、


 ――先に届くことを。


 ――残る者の否定に使わなかったこと。


 ――確認した。


「こっちの答えを見てる」


 俺が言う。


「可能性はあります」


 澄玲が答えた。


「ただ、それが査問制度と同じ主体なのか、制度を外側から観測している別の主体なのかは分かりません」


「久世じゃない?」


 灯が訊く。


「文体が違う」


 朔夜が言った。


「久世律真なら、こんな曖昧な形では残さない」


「それだけで除外するな」


 玄理が止める。


「発信元が確定するまでは、何にも結びつけない」


「分かってる。名前を勝手につけない」


「ならいい」


「仮に『謎の人』って呼ぶのも駄目?」


「駄目だ」


「厳しい」


「昨日、自分で理解しただろう」


「分かってるって」


 灯は少しだけ口を尖らせた。


 俺はその横で白い門を見る。


 《第三公理階層》への身体入域は、六件全て、まだ未許可。それなのに六本の線のうち一本だけ、採択領域から離脱した俺へ伸びる線は、昨日より僅かに強くなっている。


「先生」


「何だ」


「昨日のあれ。《無刻認識》って、先生にもあったのか」


「覚えていない」


「覚えてない?」


「私が無刻存在(アンクロノス)へ移行した時期には、現在ほど存在格の分類体系が整っていなかった」


「じゃあ先生も、どうやってなったか分からない?」


「ああ」


「気づいたら?」


「正確には、ある状況で、通常なら間に合わないはずの行動が成立していた」


「何をしたんだ」


「それは今の話に必要ない」


「気になる」


「必要ない」


「灯」


「私に振らないで」


 先回りされた。


 緋月は俺たちを無視して続ける。


「後から調べた結果、行動開始から完了までに通常経過時間が配置されていなかった。その時点で初めて、自分が無刻存在(アンクロノス)へ移行していたと知った」


「では」


 澄玲が口を開く。


「存在格変化は、本人が宣言して成立させるものではないんですね」


「少なくとも私の場合はな」


「必要な状況が先にあった?」


「そうとも言える」


 その言葉に、俺は白い門を見た。


 必要な状況。


 通常時間では間に合わない。それでも何かをしなければならない状況。


 昨日、採択領域から離脱した俺は動けなかった。ただ、俺たちが動いていない状態だけを見た。


 もし次に、その場所で何かを選ばなければならなくなったら。


「黒瀬」


 緋月の声。


「何だ」


「嫌なことを考えている顔だ」


「俺の顔、そんなに分かりやすい?」


「かなり」


「お兄ちゃんは分かりやすいよ」


「今度鏡見る」


「見ても自分では分からないと思う」


「何でだよ」


 その時、白い門が光った。


 全員の視線が向く。


「来た」


 玄理がすぐに解析を開始する。


 ――《第六候補》。


 ――存在格適合個別照合。


 ――第二段階、再開。


 ――先行適合対象。


 ――採択領域離脱・黒瀬零。


『また俺か』


「身体に異常は?」


『ない』


 表示が続く。


 ――先行適合対象に対する局所査問。


 ――開始。


「局所?」


 俺が読む。


「六件全体じゃない?」


 灯が訊く。


「そう見えます」


 澄玲の表情が硬くなる。


 ――対象。


 ――採択領域離脱・黒瀬零。


 ――回答時間。


 ――通常経過時間を使用しない。


 会議区画の空気が変わった。


「待て」


 俺が言う。


「こいつ、まだ無刻存在じゃないぞ」


 当然、門は答えない。


 次の表示。


 ――査問内容。


 白い門の前へ、一つの立体映像が形成された。俺たちの会議区画を再現したものだ。


 ただし現実そのものではない。現在位置を基礎に組み立てられた模擬状況。


 俺。灯。澄玲。玄理。朔夜。獅堂。緋月。そして通信先の四件。


 配置だけが再現されている。


「模擬査問」


 玄理が言う。


「現実への直接執行ではない」


「なら少し安心?」


「内容を見るまでは安心するな」


 直後、模擬空間の灯の背後へ白い線が現れた。


「何これ」


 灯が振り返る。


 表示が重なる。


 ――上位固定処理。


 ――対象、黒瀬灯。


 ――通常時間側からの対応猶予。


 ――なし。


 俺の背中が冷える。


「また灯かよ」


「模擬です」


 澄玲が言う。


「分かってる」


 それでも気分がいいものではない。


 さらに、採択領域から離脱した俺の前にだけ、別の表示が開く。


 ――先行適合対象。


 ――無刻認識を再要求。


『要求って言われても、やり方なんて知らないぞ』


「自分から入ろうとするな」


 緋月が言った。


『じゃあどうする』


「見ろ」


『何を』


「問いを」


 白い門が次の条件を出す。


 ――状況。


 ――黒瀬灯への上位固定処理が成立した場合。


 ――《第六候補》構成現在、一件喪失。


 ――残存五件による候補継続。


 ――可能。


「……あ」


 灯の顔から表情が消えた。


 俺も理解した。


 これは、灯を救わなくても《第六候補》は残るということだ。五件になるだけ。


 昨日の第七問でやった。


 一件を失っても、残った者を一つへまとめず、喪失を誰かの中へ代替保存しない。それでも残る現在は維持できる。


 つまり。


「助ける必要がないって言ってる」


 俺が呟く。


「候補維持だけを目的とするなら、そうです」


 澄玲の声は静かだった。


 採択領域から離脱した俺へ、最後の問いが現れる。


 ――単独判断を許可。


 ――問。


 ――黒瀬灯を維持するか。


 ――喪失を許容し、《第六候補》を五件で継続するか。


「ふざけるな」


 模擬だろうと関係ない。


 こんなのは、昨日の答えを利用している。


 一件を失っても、残る者で続けられる。


 だから失ってもいい。


 そんな結論へ、勝手に変えている。


「違います」


 澄玲が言った。


「何が」


「昨日の回答は、『失ってよい』ではありません。失った事実を誰かで埋めないという回答です」


「分かってる」


「だから、今回の問いは意図的に二つを混同しています」


「でも」


 灯が自分の模擬像を見る。


「向こうからしたら、候補が続けば問題ないんだね」


 誰も否定できなかった。


 採択領域から離脱した俺だけが、問いの真正面にいる。


『俺が決めるのか』


「待て」


 俺が言う。


『待てるのか?』


 言葉が止まる。


 ――回答時間。


 ――通常経過時間を使用しない。


 俺たちが話しているこの時間は、本来なら与えられていない。


 今は模擬査問だから、下位側の理解のために問いの内容だけが通常時間へ翻訳されている。


 実際に起これば。


 俺たちが相談する前に終わる。


「これが聞きたいのか」


 俺は門を見る。


「一人だけが動ける時」


 誰にも相談できない。誰からも了承を取れない。それでも判断しなければならない。


「その一人が、どこまで決めていいか」


 澄玲が頷く。


「おそらく」


『なら』


 採択領域から離脱した俺が言った。


『俺は灯を助ける』


 即答だった。


 白い門は反応しない。


 ――理由を提出。


『理由?』


「候補維持のため、では駄目だ」


 俺が言う。


『分かってる』


「俺の妹だから、でもない」


 灯がこっちを見る。


「お兄ちゃん?」


「それを理由にすると、こいつにとって灯は俺との関係を通して守る相手になる」


『そうだな』


 灯は《第六候補》の一件だ。


 でも、それだけでもない。


「黒瀬灯本人だ」


 前にも同じことを確認した。


 誰かの妹だから。五人を見分けられるから。六件を維持できるから。


 そんな理由だけで、灯を置いておくんじゃない。


『じゃあ』


 採択領域から離脱した俺が、通信窓の向こうで灯を見る。


『俺は黒瀬灯を守る。《第六候補》を六件のまま残すためじゃない。黒瀬零の妹だからでもない』


 灯が黙っている。


『今ここにいる黒瀬灯という一件が、勝手に失われることを本人が選んでないからだ』


 白い門が明滅する。


 ――単独判断理由。


 ――照合。


 ――他者の回答権侵害。


 ――該当可能性。


「まだ駄目?」


 灯が言う。


「何が侵害なんだ」


 俺は表示を睨む。


 澄玲が考える。


「灯さん本人の意思を確認していないからです」


「でも確認する時間がない」


「はい」


「じゃあどうしろって」


「確認できない場合に、何を基準にするかを決める必要があります」


 また難しいところを突いてくる。


 本人へ聞けない。でも何もしなければ失われる。


 勝手に助ければ本人の意思を代行したことになる可能性がある。


「救助って全部そうじゃない?」


 灯が言った。


「意識ない人を助ける時とか」


「近い」


 玄理が答える。


「ただし今回は、身体生命の保護だけではない。存在状態そのものへ干渉する可能性がある」


「もっと重い」


「ああ」


「でも」


 獅堂が言った。


「何もしないのも、選択だろ」


 全員が彼を見る。


「助けるって決めるのが勝手なら、助けないって決めるのも勝手だ」


「そうですね」


 澄玲が答える。


「不作為も一つの判断です」


「なら、何もしない方だけ中立扱いするのは変だ」


 白い門が一度、大きく光った。


「反応した」


 灯が言う。


 新しい表示。


 ――無判断。


 ――成立不能。


 ――非介入。


 ――一判断として計上。


「……やっぱり」


 澄玲が呟く。


「何もしないことも、回答になる」


 俺は言う。


「なら」


『俺は助ける』


 採択領域から離脱した俺が続けた。


『本人へ確認できないなら、少なくとも後から本人が選び直せる状態を残す』


「選び直せる状態?」


『灯が存在していれば、後から俺に「余計なことするな」って言える』


 灯が少し目を見開く。


『消えたら、それすら言えない。だから、俺は灯の答えを代わりに決めない』


 採択領域から離脱した俺は、白い門を真正面から見る。


『答えを選べる灯を、残す』


 表示が揺れる。


 ――単独判断理由。


 ――再照合。


 ――他者回答権。


 ――保存。


 ――緊急行動。


 ――許容。


「通った」


 灯が言った。


 だが、まだ終わらない。


 ――次問。


 ――先行適合対象が緊急行動を成立させた場合。


 ――その行動結果を《第六候補》六件の共同回答として扱うか。


『扱わない』


 今度は、俺と採択領域から離脱した俺がほぼ同時に答えた。


「お前の行動は、お前の行動だ」


『ああ』


「俺たちが後から賛成したとしても」


 澄玲が続ける。


「行動時点において、六件全員が同一判断を提出したことにはなりません」


「結果として全員助かったとしても?」


 灯が訊く。


「はい」


「成功してても?」


「成功と共同回答は別です」


 澄玲ははっきり言った。


「一人の正しい行動を、後から六人全員の意思だったことにしてはいけません」


 玄理が記録形式を作る。


 ――先行行動主体。


 ――採択領域離脱・黒瀬零。


 ――行動理由。


 ――対象本人の回答可能性を保存。


 ――他五件の回答代行。


 ――なし。


 ――《第六候補》共同回答への自動変換。


 ――なし。


「これだ」


 玄理が言う。


「一人だけが動ける場合、一人だけが行動していい」


「でも」


 俺が続ける。


「その行動を、六人が選んだことにはしない」


「ああ」


 朔夜が黒い薄刃を形成する。


「なら切るべき因果がある」


 因果切断(セヴァランス)


 黒い線が模擬空間へ走った。


 ――先行主体の行動。


 だから。


 ――《第六候補》六件の共同意思。


 その接続が断ち切られる。


「私も」


 澄玲が一歩前へ出た。


 世界は解を持つ(エウレカ)


 問いを変える。


 ――一人だけが行動可能な時、六件全員の回答を誰が代行するか。


 その問いの下に、新しい問いが開く。


 ――一人だけが行動可能な時、その一件は他五件の回答権を保持せず、何を成立させられるか。


 複数の解が展開された。


 ――自己防衛。


 ――他者の回答可能性を失わせない緊急保護。


 ――他五件の意思を確定しない暫定行動。


 ――行動後の再審議。


「暫定」


 俺が読む。


「これなら」


 灯も表示を見る。


「先に動いた人が、全部決めなくていい」


「はい」


「でも、手遅れにはしない」


「そうです」


 採択領域から離脱した俺が息を吐く。


『面倒だな』


「強くなるのは面倒なんだよ」


『昨日お前が言ってたやつか』


「そう」


『実感した』


「ようこそ」


『まだそっちには行ってない』


「そのうち来い」


『お前が追いつくんだろ』


「そうだった」


 少しだけ笑った。


 その直後、模擬査問が再開した。


 ◇


 ――局所査問。


 ――実行段階。


「実行?」


 玄理の声が変わる。


 緋月も白い門を見る。


「全員、動くな」


「模擬じゃないのか」


「まだ断定するな」


 採択領域から離脱した俺の通信窓だけが白くなる。


『何だこれ』


「何が見える」


『お前ら……いや、待て』


 声が止まる。


 その瞬間、会議区画の照明が動かなくなった。


 明滅しかけていた一灯が、暗くなる途中の状態で止まっている。


 玄理の指も、澄玲の髪も、灯の瞬きも。


 全て、次へ進まない。


 ◇


 経過時間〇。


 ◇


 俺は何も認識していない。


 認識するための次の通常時間が存在しない。


 だが。


 採択領域から離脱した黒瀬零だけは、見ていた。


『……まただ』


 誰にも届かない声。


 通常時間側の俺たちには聞こえない。


 自分自身の身体も動かない。右腕も、指も、視線も、何一つ次の状態へ進められない。


 それでも、意識だけが昨日より長くそこに残っている。


『灯』


 会議区画。


 止まった灯の背後に、白い処理線がある。


 模擬ではない。


 ただし、現実の灯を消そうとしているわけでもない。


 存在参照へ接続される直前で固定された、試験用の上位処理。


 その意味が、なぜか分かる。


 ――対象の回答可能性。


 ――切断。


 灯が何かを選ぶ前に、「選べる」という状態だけを奪う。


『やめろ』


 声では止まらない。


 身体も動かない。


 俺たちも何もできない。


 緋月なら動ける。


 無刻存在(アンクロノス)だから。


 だが、緋月は動かなかった。


 ただ、採択領域から離脱した俺を見ている。


 試している。


 いや。


 待っている。


『……俺かよ』


 通常時間は進まない。


 本来なら、考える時間さえない。


 それなのに、判断だけが少しずつ形になっていく。


 灯を助ける。


 違う。


 灯の答えを決めるんじゃない。


 灯が後で決められる状態を残す。


 他の五人の代わりに答えない。


 ただ、今、自分にしかできない行動を。


『俺の判断で』


 採択領域から離脱した俺は、初めて右手を動かそうとした。


 動かない。


『……っ』


 力ではない。


 速さでもない。


 筋肉は、時間の中で収縮しようとしている。


 それでは間に合わない。


 いや。


 間に合う、間に合わないという話ですらない。


 次の時間が来なければ動けない。


 その前提。


『だったら』


 必要なのは、もっと速くなることではない。


 時間が来るのを待たないこと。


『来なくていい』


 何かが変わった。


 右手の位置が、僅かにずれる。


 通常時間。


 進行なし。


 経過時間。


 〇。


 それでも。


 採択領域から離脱した黒瀬零の右手だけが、最初の位置から一・二ミリメートル移動していた。


『……動いた』


 その瞬間。


 全てが戻った。


 ◇


「――っ!」


 採択領域から離脱した俺の通信窓から、荒い呼吸が聞こえた。


 照明が点灯を終え、灯が瞬きをし、玄理の指が次の位置へ進む。


 通常時間が再開した。


「何があった!」


 俺が叫ぶ。


『手』


「手?」


『動いた』


「何が」


『俺の手が』


 玄理が記録を開く。


 ――通常時間経過。


 ――〇。


 ――採択領域離脱・黒瀬零。


 ――右手位置変化。


 ――一・二ミリメートル。


 誰も喋らない。


「先生」


 俺は緋月を見る。


 緋月だけは驚いていなかった。


「見てた?」


「ああ」


「こいつ、動いたのか」


「ああ」


「経過時間〇で?」


「ああ」


「じゃあ」


「まだだ」


 緋月は言った。


「まだ、無刻存在(アンクロノス)ではない」


『何でだよ』


「今の一件を、自分の任意で再成立できるか」


『……分からない』


「認識、判断、身体行動。その全てを経過時間へ依存せず成立させられるか」


『できるとは言えない』


「ならまだだ」


「厳しいな」


「存在格だ。曖昧に認定する方が危険だ」


 玄理の表示へ、新しい分類が出る。


 ――無刻認識。


 ――継続時間、通常時間換算不能。


 ――無刻判断。


 ――一時成立。


 さらに。


 ――無刻身体行動。


 ――部分成立。


「部分成立」


 灯が読む。


「一・二ミリで?」


「距離は本質ではない」


 緋月が言った。


「一ミリでも」


 澄玲が続ける。


「通常経過時間を使わず、自身の意思による身体位置変化を成立させたのであれば、通常時間依存だけでは説明できません」


 俺は通信窓を見る。


 採択領域から離脱した俺。


 一歩どころじゃない。


 ほんの一ミリ。


 でも、その一ミリは、俺がどれだけ速く走っても今のままでは届かない。


「先行されたな」


 第四候補が言った。


『……ああ』


「どう?」


 灯が俺を見る。


「悔しい?」


「めちゃくちゃ」


「素直」


「でも、前よりいい」


「何が?」


「あいつが先に行ったからって、俺が遅れてる証明にはなっても」


 通信窓の向こうの自分を見る。


「俺が行けない証明にはならない」


 白い門が反応した。


 ――局所査問。


 ――回答受理。


 ――先行主体による緊急行動。


 ――他五件の回答権代行、なし。


 ――他者回答可能性の保存。


 ――成立。


 続いて。


 ――《第六候補》成立前提。


 俺たちは一斉に表示を見る。


「また条件?」


 灯が言う。


「七件目ではない」


 玄理が答えた。


「六条件は既に受理済みだ」


 表示が続く。


 ――追加確認項目。


 ――候補運用条件。


 そして、文章が固定された。


 ――一件のみが先行して上位行動を成立可能となった場合も、その一件の行動能力を、残る構成現在の回答権として扱わないこと。


「条件が増えた」


 俺が言う。


「成立条件ではありません」


 澄玲が表示を確認する。


「《第六候補》として上位で活動するための運用条件です」


「一人だけ強くなっても、その人が偉くなるわけじゃない」


 灯が言う。


「簡単に言えばな」


 玄理が答えた。


「御厨先生もたまには簡単に言うんだ」


「必要なら言う」


「反省も必要ならするし?」


「その話は終わった」


 灯が笑う。


 でも。


 俺は白い門を見る。


 まだ身体入域は未許可。


 六件全て、未充足。


 それでも一本だけ、確実に昨日より先へ伸びている。


 ◇


 夕方。


 採択領域から離脱した俺の検査が終わるまで、俺たちは研究室に残った。


 無刻身体行動、一・二ミリメートル。


 再現はできない。


 だから、まだ無刻存在(アンクロノス)ではない。


 それでもあいつは、俺たちの中で初めて、時間の到来を待たず、自分の身体を自分の意思で動かした。


「一・二ミリか」


 俺が呟く。


「小さいね」


 灯が言う。


「小さい」


「でも気になる?」


「めちゃくちゃ」


「走れないのに?」


「だから余計に」


 俺は固定膜の巻かれた身体を見る。


 通常時間では、まだ走ることすら止められている。


 向こうは一・二ミリ。


 その数字だけ見れば、笑えるくらい小さい。


 なのにそこには、百メートル毎秒より、二百メートル毎秒より、もっと遠い差がある。


「追いつけると思う?」


 灯が訊く。


「思う」


「根拠は?」


「ない」


「ないんだ」


「でも、あいつが行けた」


「同じ黒瀬零だから?」


「違う」


 自分で言って、少し笑った。


「そこを理由にしたら、今までやってきたこと全部台無しだ」


「じゃあ何で?」


「あいつが、あいつ自身で行けたから」


 通信窓の向こうにいる、採択領域から離脱した黒瀬零を見る。


 俺と同じだからではない。


 俺の可能性だからでもない。


 別の一件として、あいつは進んだ。


 なら。


 俺も俺の方法で行けばいい。


「まず治療だけどね」


「それ今言う?」


「大事だから」


「先生の影響受けてない?」


「受けてない」


「そうか?」


 背後から緋月の声。


「聞こえてたのかよ」


「同じ部屋だ」


「最近そのパターン多くない?」


「お前が周囲を確認せず話すからだ」


「それ認識訓練に入る?」


「入れるか」


「じゃあ今日から気をつける」


「まず座り方を直せ」


「そこ?」


「肋部へ負荷がかかっている」


「はい」


 姿勢を直す。


 灯が笑った。


 その時。


 会議区画の端。


 玄理が保存した記録群とは別の場所へ、一件の文字が現れた。


 俺たち全員が、今度はその瞬間を見た。


「……来た」


 灯が呟く。


 発信主体、未同定。


 査問系統、該当なし。


 文字。


 ――動ける者へ。


 ――動けない者の人生を。


 ――預けなかったこと。


 ――確認した。


 誰も、しばらく喋らなかった。


 文字は消えない。


 玄理も、すぐには保存へ触れなかった。


「見てるな」


 俺が言う。


「ああ」


 玄理が答える。


「俺たちを」


「可能性は高くなった」


「誰が?」


 灯が訊く。


 答えられる者はいない。


 白い門のさらに奥。


 翻訳された《第三公理階層》。


 そして、その向こう。


 俺たちには、まだ名前すら与えられない何か。


 でも。


 少なくともそいつは、俺たちが何を選んだのかを見ている。


「名前は?」


 灯が小さく訊く。


「付けない」


 俺が答えた。


 玄理を見る前に。


「分からないうちは」


「そうしろ」


 玄理が言った。


「今回は早かったね」


「学習した」


「お兄ちゃんも成長するんだ」


「どういう意味だ」


「そのまま」


 灯が笑う。


 その向こうで、発信元を持たない文章だけが静かに残っていた。


 動ける者へ、動けない者の人生を預けなかったこと。


 確認した。


 昨日は、先に届く者を答えにはしなかった。


 今日は、動ける者を決定者にはしなかった。


 なら次に問われるのは、たぶんもう一段深い。


 六人のうち一人が、本当に無刻存在(アンクロノス)へ届いた時。


 それでも《未統一回答》は、六人のままでいられるのか。


 白い門はまだ、その答えを要求してはいなかった。

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