第97話 百八夜の最初の日
ヴェルナーが帰ったあとも、食堂の扉はしばらく閉じたままだった。
誰も追わなかった。
見送る者もいなかった。
外では、衛兵が回収した金属棒や信号筒を運んでいる。硬いものが木箱へ触れる音が、壁越しに何度か響いた。
やがて、それも遠ざかった。
食堂には、空になった器と、焦げた豆が残った。
伊織は立ったまま、机を見ていた。
ヴェルナーが使った席。
木目の上に、器の丸い跡がある。熱でわずかに湿り、周囲より色が濃くなっていた。
百八夜。
その言葉が、机の上へ置かれたまま消えない。
ニコの筆が紙を擦った。
一度止まり、もう一度動く。
「今日を、一日目にしますか」
伊織は顔を上げた。
ニコは記録帳を開いている。
新しい頁。
上には日付だけが書かれていた。
「何のだ」
「百八夜の記録です」
声は静かだった。
「ヴェルナーの言葉が正しければ、今日から数えて百八夜後です。正しくなくても、記録しておけば確かめられます」
ヴェルナーと似たことを言う。
だが、同じには聞こえなかった。
ヴェルナーは世界を測るために記録する。
ニコは、忘れないために書く。
「一日目でいい」
伊織が言った。
ニコは頷いた。
紙の上へ、短く書く。
還り火まで、百八夜。
その下に、第一夜。
筆先が離れる。
「毎日つけます」
「無理はするな」
「日付を書くくらいです」
「忘れる日もある」
「その時は、次の日に書きます」
「それでいい」
ニコは記録帳を閉じなかった。
頁を見たまま、指で端を押さえている。
「伊織さん」
「何だ」
「帰るんですか」
食堂の空気が止まった。
誰もニコを責めなかった。
聞いてはいけないことではない。
ただ、誰も先に聞けなかった。
伊織は答えなかった。
答えがなかった。
帰りたいかと聞かれれば、帰りたいと思ったことはある。
何度もあった。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
自動販売機の明かり。
コンビニの棚。
夜明け前の道路。
味の薄い缶コーヒー。
南条の声。
あの店、また行こうな。
忘れたわけではない。
忘れられるほど、きれいには終わっていない。
だが、帰れると言われた瞬間に、何を失うかも見えた。
食堂。
クロ。
アリア。
ガルド。
エルナ。
ニコ。
リナ。
トト。
名前が浮かぶ。
一人ずつ。
ヴェルナーなら、人数として数えるのかもしれない。
伊織にはできなかった。
「まだ分からない」
ようやく言った。
ニコは、すぐに頷いた。
「はい」
それだけだった。
責めない。
引き止めない。
安心もしない。
記録帳の端へ、小さく何かを書き足した。
伊織には見えなかった。
「何を書いた」
「まだ決めていない、と」
「それも残すのか」
「はい」
「いらないだろ」
「あとで必要になるかもしれません」
「何に」
「伊織さんが、いつ決めたか分かるように」
伊織は何も言えなかった。
ニコは記録帳を閉じる。
その音が、妙に大きく響いた。
◆
クロの検査は、昼を過ぎてから始まった。
場所は食堂の奥。
厨房と倉庫の間にある、小さな部屋だった。
以前は酒樽を置いていたが、今はアリアの薬瓶や記録板、魔力測定用の細い鉱石が並んでいる。
部屋の中央に、毛布を敷く。
クロはその上へ座った。
不満そうだった。
「動かないでください」
アリアが言う。
クロは顔を背けた。
「聞いていませんね」
「聞いてる」
伊織は壁際に立っている。
「従っていません」
「そこはお前に似た」
「東さんにです」
クロの耳が動いた。
「今、否定しませんでしたね」
「面倒だからな」
「否定できないだけでは?」
「検査しろ」
「逃げましたね」
アリアは細い鉱石を一本持ち上げた。
透明に近い青色。
魔力が流れると、内部へ細い光が走る。
「クロ、失礼します」
鉱石を首元へ近づける。
触れる直前、クロが伊織を見る。
「大丈夫だ」
伊織が言う。
クロは視線を戻した。
鉱石が灰色の縞へ触れる。
淡い光が走った。
以前なら、一本。
今は違う。
青い光が途中で二つに分かれ、クロの首から肩へ広がっていく。一本は胸へ。もう一本は背中へ流れた。
鉱石の内部で、細い亀裂のような光が増える。
アリアの表情が変わった。
「外してください」
「触ってない」
「東さんではなく、クロです」
クロは前脚を鉱石へ乗せていた。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
前脚が離れる。
光も弱くなった。
アリアは鉱石を顔の前へ持ち上げる。
割れてはいない。
だが、内部に白い筋が残っている。
「以前の測定値を超えています」
「どれくらいだ」
「正確には測れません。鉱石の上限を越えました」
「壊れたのか」
「壊れてはいません。ただ、測定器としてはもう使えません」
クロが鼻を鳴らした。
「自慢しないでください」
もう一度、鼻を鳴らす。
「それは反省ではありませんね」
アリアは別の記録板を取る。
黒い薄板。
表面へ指を滑らせ、簡単な図を描いた。
「変化は三つです」
「聞こう」
「一つ目。魔力経路が増えています。以前は背筋を中心に一本でしたが、今は胸部と前脚へ枝分かれしています」
「戦闘で使ったせいか」
「可能性はあります。ただし、単純な成長とは違います」
「二つ目は」
「東さんとの接触時だけ、流れの方向が変わります」
「俺へ来る?」
「いいえ」
アリアは少し考えた。
「東さんから奪うのではなく、東さんの魔力を一度受け取り、形を整えて返しているように見えます」
「濾してるのか」
「近いです」
「だから代償が減る」
「おそらく」
「クロの負担は」
「あります」
伊織の目が細くなる。
「どれくらい」
「今のところ、目立った消耗はありません」
「今のところ?」
「隠れて蓄積する可能性があります」
アリアは記録板へ線を書き足す。
「東さんの鋼鉄は、本来、記憶、魔力、身体の三つから代償を取っています。クロが間に入ることで、形を安定させるための無駄な消費が減っている。ですが、その調整をクロ自身が担っているなら、負担がゼロになるはずはありません」
「使わない方がいいか」
アリアはすぐに答えなかった。
クロを見る。
クロもアリアを見る。
「完全に使わないのは難しいと思います」
「なぜ」
「クロ自身が、役目として受け入れているからです」
「役目?」
「東さんを支えることを」
伊織はクロを見る。
クロは視線を逸らした。
「本人に聞いたのか」
「魔力の向きです」
「また顔みたいな話か」
「違います」
「似てる」
「違います」
アリアは少しだけ声を強くした。
「魔力には、流れやすい方向があります。嫌がっていれば、もっと乱れるはずです。ですがクロは、東さんへ触れた時だけ、自分から経路を開いている」
伊織は毛布の上へ片膝をついた。
クロの首へ手を置く。
温かい。
普通の獣と変わらない体温。
その奥に、何かがある。
灰色の縞が、伊織の指の下で薄く浮いた。
「勝手に背負うな」
伊織が言う。
クロは目を閉じた。
「聞いてないな」
耳だけが動く。
「聞いています」
アリアが言った。
「従わないだけです」
「やっぱり俺に似てるか」
「そこは否定しません」
伊織は手を離さなかった。
「三つ目は」
アリアが少し間を置く。
「東さんの記憶へ反応しています」
右手が、わずかに冷えた。
クロの瞼が開く。
「携帯端末の時か」
「はい」
「武器じゃない」
「だから問題です」
アリアは記録板を机へ置く。
「これまで、東さんの鋼鉄は、強く記憶している構造物を戦闘目的へ変換していました。拳銃、盾、車両。用途が明確で、形も固定されているものです」
「昨日は違った」
「はい。記憶そのものが形になろうとした」
「南条の」
「名前は出ていません」
「分かってる」
「ですが、東さんがそう思ったのなら、そうなのでしょう」
アリアは声音を少し落とした。
「ヴェルナーの言葉で、封じていた記憶が表面へ出た。クロはそれを止めようとしましたが、完全には止められなかった」
「還り火が近づけば、もっと出る」
「可能性があります」
「人まで?」
「分かりません」
「ヴェルナーは、失ったものと言った」
「彼の言葉を、そのまま信じないでください」
「信じてない」
「なら、顔に出さないでください」
伊織はアリアを見る。
「どんな顔だ」
「会いたいと思った顔です」
右手の冷えが強くなる。
クロが立ち上がった。
伊織の腕へ鼻先を押しつける。
冷えは手首で止まった。
黒い粒子は出ない。
「違うとは言わないんですね」
アリアが言う。
「会いたくないわけがない」
声に出したあとで、部屋が狭くなったように感じた。
南条。
あの店。
また行こうな。
次があると思っていた男。
次の飯を食えなかった男。
もし形になったら。
声が聞こえたら。
本物ではないと分かっていても。
「具現されたものは、本人ではありません」
アリアが言った。
「分かってる」
「記憶です」
「分かってる」
「東さんの中にあるものが、外へ出るだけです」
「分かってる」
「なら」
「分かっていても、会いたい」
アリアが黙った。
伊織も黙る。
クロの鼻先が、腕へ触れたまま動かない。
部屋の外では、食器を洗う音がする。
ガルドが何か落とした。
エルナが叱る。
トトの木札が鳴る。
日常の音だった。
南条と行くはずだった店にも、こんな音があったのかもしれない。
皿。
鍋。
椅子。
誰かの声。
「会いたいと思うことまで、否定しません」
アリアが言った。
薄紫の瞳が、伊織を見ている。
「ですが、その人が東さんへ何を言うかを、東さん自身が決めてしまうことになります」
「俺の記憶だからな」
「はい」
「都合のいいことを言わせるかもしれない」
「逆もあります」
「逆?」
「東さんが、自分を責めるための言葉を言わせるかもしれません」
伊織は答えなかった。
その可能性の方が高かった。
南条が責めるとは思わない。
だからこそ、自分が責めさせる。
なぜ生き残った。
なぜ助けられなかった。
なぜ別の世界で飯を食っている。
自分では言えない言葉を、死んだ男の口から言わせる。
それは、会うことではない。
「出さない方がいいか」
伊織が聞いた。
「今は」
アリアは即答した。
「出せるようになってから考えろ、ではなく?」
「今は、です」
アリアはクロの前へしゃがむ。
灰色の縞を指先で追う。
「東さんの記憶も、クロの力も、まだ安定していません。何が出るか分からない状態で触れるべきではありません」
「研究者らしいな」
「それだけではありません」
「何だ」
アリアは手を止めた。
視線はクロへ向けたままだった。
「東さんが壊れるのを見たくありません」
声は小さかった。
だが、聞き間違える距離ではない。
伊織は返事を探した。
見つからない。
アリアは続けなかった。
代わりに、立ち上がる。
記録板を片づける。
薬瓶を棚へ戻す。
背中を向けたまま、淡々と動く。
「検査は終わりか」
「まだです」
「何が残ってる」
「東さんです」
「俺?」
「右手を出してください」
「問題ない」
「出してください」
「平気だ」
「三回言わせますか」
伊織は右手を差し出した。
アリアが取る。
昨日と同じように、手首へ指を当てる。
脈。
皮膚温。
魔力経路。
ただし、昨日より長い。
「冷えは浅いです」
「ああ」
「経路も安定しています」
「なら問題ない」
「問題はあります」
「何だ」
「脈が少し速い」
「さっきの話のせいだ」
「分かっています」
「なら測る必要ないだろ」
「あります」
アリアは手を離さない。
「身体の反応も記録です」
「研究のためか」
「はい」
返事が少し遅れた。
伊織は薄紫の瞳を見る。
アリアは目を逸らさない。
だが、耳の先は赤い。
「他には」
伊織が聞く。
「何がですか」
「研究以外」
「ありません」
「そうか」
「ありません」
「二回言ったな」
「必要だからです」
「便利だな」
「その言葉は禁止します」
「いつから」
「今からです」
クロが鼻を鳴らした。
伊織には、笑ったように聞こえた。
◆
夕方、食堂はいつも通り開いた。
鐘は鳴らない。
客は来た。
鍛冶屋の男が二人。
荷運びの女が一人。
子供を連れた母親。
北門の衛兵。
誰も、ヴェルナーの名を大声では出さなかった。
だが、全員が知っている顔をしていた。
灰色の外套の男が来た。
門前で戦いがあった。
食堂へ入った。
豆のスープを食べた。
町では、それだけで話になる。
ガルドは忙しかった。
焦げた鍋を使うのをやめ、新しい鍋でスープを作り直している。
「焦げてないな」
伊織が言う。
「当たり前だ」
「昼のは焦げてた」
「少しだ」
「ヴェルナーも言ってた」
「その名を出すな」
「気にしてるのか」
「してない」
「鍋を変えた」
「偶然だ」
エルナが横から言う。
「三回洗っていました」
「言うな」
「底を削っていました」
「もういい」
ガルドは鍋をかき混ぜる。
耳まで赤くなっている。
食堂に、笑いが起きた。
大きくはない。
それでも、昼から初めての笑いだった。
伊織は端の席へ座っていた。
右にクロ。
向かいにアリア。
ニコは会計台の横で記録帳を書いている。
一日の客数。
使った豆。
残ったパン。
その下に、別の記録がある。
還り火まで、百七夜。
まだ一日目は終わっていない。
だが、夜が来れば一つ減る。
「数える必要はあるのか」
伊織が言った。
ニコが顔を上げる。
「あります」
「減るだけだぞ」
「増えるよりは分かりやすいです」
「そういう話か」
「違いますか」
「分からん」
ニコは少し笑った。
記録帳へ戻る。
伊織は窓の外を見る。
夕焼け。
砂煙。
帰っていく客。
いつもの町。
百八夜と聞く前と、何も変わっていない。
変わったのは、見ている側だった。
「東さん」
アリアが呼ぶ。
「何だ」
「昼の質問です」
「どれだ」
「ニコが聞いたこと」
帰るんですか。
伊織は答えなかった。
アリアは机の木目を見る。
「私は、答えを急がせるつもりはありません」
「ああ」
「百八夜あります」
「短い」
「長いです」
「どっちだ」
「どちらでもあります」
「ヴェルナーみたいだな」
アリアの顔が上がる。
「撤回してください」
「悪かった」
「早いですね」
「本気で嫌そうだった」
「嫌です」
少し間が空く。
アリアは手元の器へ視線を落とす。
まだスープは残っている。
匙で豆を一つ動かした。
「帰りたいですか」
今度は、はっきり聞いた。
ニコの時より近い。
逃げられない距離だった。
伊織は窓を見る。
日本の景色はない。
夕焼けは同じ色に見える。
だが、その下にある町は違う。
「帰りたいと思ったことはある」
「今は」
「分からない」
「そうですか」
アリアは、それ以上聞かなかった。
帰らないでとも言わない。
残ってとも言わない。
匙で豆をすくう。
口へ運ぶ。
少し熱かったのか、眉が動いた。
「お前は」
伊織が言う。
「何ですか」
「俺が帰ったら、困るか」
アリアの手が止まった。
薄紫の瞳が、ゆっくり上がる。
「困ります」
返事は早かった。
伊織は少し驚いた。
アリアも、自分の返事の早さに気づいたらしい。
「食堂の防衛力が落ちます」
「それだけか」
「クロの管理も必要です」
「クロは俺について行くとは限らない」
足元で、クロが伊織の靴へ前脚を乗せた。
「ついて行くそうです」
アリアが言う。
「まだ何も決めてない」
「クロは決めているようです」
「勝手だな」
「似ていますね」
「それは禁止じゃないのか」
「便利という言葉だけです」
伊織はクロの前脚を見る。
どかさない。
クロも動かさない。
「他には」
伊織が聞いた。
「何がですか」
「困る理由」
アリアは匙を器へ置いた。
小さな音。
食堂には客の声がある。
ガルドが鍋を運ぶ。
エルナが会計をする。
トトの木札が鳴る。
誰もこちらを見ていないようで、たぶん何人かは聞いている。
「今、言わなければいけませんか」
「いや」
「なら、言いません」
「そうか」
「はい」
アリアは少しだけ俯いた。
「ですが」
伊織は待った。
「帰ると決めた時は、私に先に言ってください」
「なぜ」
「他の人から聞くのは嫌です」
「決めたら言う」
「必ず?」
「ああ」
「約束です」
「科学者の方か、日本で覚えた方か」
アリアが眉を寄せる。
「東さんの約束です」
伊織は少し黙った。
「ああ」
それだけ答えた。
アリアは匙を持ち直す。
耳の先が赤い。
クロが靴から前脚を下ろした。
食堂の扉が開く。
新しい客が入ってくる。
「邪魔するよ」
共通語だった。
半拍遅れて、意味が届く。
伊織はその遅れを感じた。
昨日までなら気づかなかった程度の短さ。
今は、はっきり分かる。
まだ繋がっている。
いつまでかは分からない。
伊織は立ち上がった。
「空いてるぞ」
客へ言う。
声は、この世界の言葉へ変わった。
アリアには届く。
ガルドにも。
ニコにも。
クロにも、たぶん届いている。
百八夜の最初の日は、まだ終わっていなかった。




