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第96話 翻訳のいらない男

 食堂へ入ったヴェルナーは、入口から三歩のところで止まった。


 誰にも促されていない。


 それでも、それ以上は進まなかった。


 窓際の机。


 壁際の棚。


 奥にある厨房。


 欠けた皿を継ぎ合わせた飾り。


 人の配置。


 逃げ道。


 武器になりそうなもの。


 視線が静かに動く。


 観察している。


 伊織には分かった。


 ヴェルナーは町を見る時と同じ目で、食堂を測っていた。


「座れ」


 伊織が言った。


 ヴェルナーは中央の机を見た。


「指定はあるか」


「そこ以外なら」


 伊織は自分たちが普段使う机を指した。


 ヴェルナーは一度だけ頷き、入口に近い席へ座った。


 背中を壁へ向ける。


 正面には伊織。


 右にアリア。


 左にヴォルフ。


 クロは伊織の足元へ伏せた。


 ガルドは厨房との境に立っている。大斧は持っていないが、片腕だけでも机くらいは投げられる。


 エルナは少し離れた席で記録帳を開いた。


 ニコはその隣。


 リナとトトは厨房側にいる。


 全員が残った。


 ヴェルナーは、それを拒まなかった。


「豆のスープでいいか」


 ガルドが聞く。


「十分だ」


「毒見するぞ」


「聞いた」


「腹を壊しても知らん」


「毒より可能性が高そうだな」


「何だと」


「鍋の底が焦げている」


 ガルドの眉が動いた。


「匂いで分かるのか」


「分かる」


「食う前から文句を言う客は初めてだ」


「文句ではない。観測だ」


「同じだ」


 ガルドは厨房へ戻った。


 鍋を持ち上げる音が、少し乱暴だった。


 アリアはヴェルナーを見たまま、双剣を外さない。


「日本語で話してください」


 ヴェルナーが彼女を見る。


「君には分からない」


「東さんには分かります」


「そうだな」


「だからです」


 アリアの声は平らだった。


 だが、伊織には意図が分かった。


 翻訳を介した言葉と、介さない言葉。


 その違いを観察する。


 ヴェルナーは小さく息を吐いた。


 そして、日本語へ切り替えた。


「用心深いな」


 音が、そのまま届く。


 遅れがない。


 意味が後から流れ込む感覚もない。


 伊織の頭の奥で何かが働く前に、言葉が理解へ届く。


 日本にいた頃と同じだった。


「どうですか」


 アリアが聞く。


「遅れない」


「やはり」


「分かるのか」


「東さんの目が違います」


 アリアは伊織の顔を見た。


「普段は、言葉を聞いた直後に一瞬だけ焦点が遅れます。今はありません」


「そんなところまで見てたのか」


「見ています」


 即答だった。


 そのあとで、アリアの耳の先が赤くなる。


「研究のためです」


「聞いてない」


「顔に出ています」


「便利だな」


「何度目ですか、その言葉」


 ヴェルナーが二人を見る。


「関係は良好らしい」


「違います」


 アリアが即座に言った。


「そうか」


「そうです」


「訂正はしない」


「してください」


「必要がない」


「あります」


 伊織はヴェルナーを見る。


「話を進めろ」


「助かった」


 アリアが伊織へ顔を向ける。


「どちらを助けたんですか」


「両方だ」


「曖昧です」


「今はそれでいい」


 ガルドがスープを運んできた。


 木の器。


 豆。


 刻んだ根菜。


 薄い塩味。


 ヴェルナーは器を受け取ったが、すぐには口をつけなかった。


 湯気を見る。


 表面の油を見る。


 匂いを確かめる。


 ガルドが睨む。


「毒は入ってない」


「分かっている」


「なら食え」


「熱い」


「科学者は猫舌か」


「温度と職業に関係はない」


「面倒な奴だな」


「同感だ」


 ヴェルナーは木匙でスープを一度かき混ぜた。


 それから、少量を口へ運ぶ。


 飲み込む。


 目は閉じなかった。


 表情も変わらない。


「どうだ」


 ガルドが聞く。


「焦げている」


「帰れ」


「だが、悪くない」


「どっちだ」


「両立する」


「やっぱり面倒だ」


 ヴェルナーはもう一口飲んだ。


 今度は先ほどより早い。


 伊織はそれを見ていた。


 口では焦げていると言う。


 だが、匙は止まらない。


 五十年この世界にいた男が、豆のスープをどんな味だと思っているのか。


 伊織には分からない。


 分からないままでいいとも思った。


「翻訳について話せ」


 伊織が言った。


 ヴェルナーの匙が止まる。


「直截だな」


「手紙で振ったのはお前だ」


「そうだった」


 ヴェルナーは器を机へ置いた。


 日本語のまま続ける。


「こちらへ来た直後、私にも同じ現象があった」


「言葉が分かった?」


「ああ。話せもした。読み書きは少し違ったが、会話には困らなかった」


「違ったとは」


「文字は、意味だけが先に来た」


 伊織は黙る。


 自分にも覚えがある。


 看板。


 依頼書。


 契約書。


 この世界の文字を見た時、読んでいるというより、意味を渡されている感覚があった。


「音は」


「君と同じだろう。聞こえたあと、半拍遅れて意味になる」


「いつまで続いた」


「正確には、十一年と四ヶ月」


 食堂が静かになった。


 伊織は聞き返す。


「消えたのか」


「ある朝、突然」


「原因は」


「当時は分からなかった」


「今は分かる?」


「仮説はある」


 アリアが口を挟む。


「先ほどから仮説ばかりですね」


 ヴェルナーが共通語へ戻る。


 半拍遅れて、伊織へ意味が届く。


「科学は、仮説を積み上げる」


「仮説で人を動かす時は、失敗した場合も考えるべきです」


「考えた」


「足りなかったのでは」


「そうだろうな」


 アリアの言葉が止まった。


 反論されると思っていたのかもしれない。


 ヴェルナーは日本語へ戻す。


「翻訳は技能ではない」


「なら何だ」


「接続の残滓だ」


「接続?」


「元の世界と、こちらの世界を結んだもの。その糸が完全には切れていない」


 伊織は眉を寄せる。


「言葉が分かるのは、その糸のせいか」


「そう考えている」


「なぜ」


「転移直後の者は、こちらの言語体系を持たない。それでも生存させる必要がある」


「誰が必要だと思った」


「そこは分からない」


「世界か」


「機構かもしれない。意志かもしれない。装置かもしれない」


「便利だな」


「不明なものを一つに決めつけるよりはましだ」


 ヴェルナーは机へ指を置いた。


 木目をなぞる。


「こちらへ来た人間は、最初からこの世界の一部ではない。だから一時的に補助される」


「補助」


「言葉。魔力への適応。環境への順応。場合によっては、記憶の一部」


「記憶?」


「失った者もいる」


 伊織の目が細くなる。


「誰だ」


「記録に残る転移者だ」


「他にもいたのか」


「いた」


 その一言で、食堂の空気が変わった。


 ガルドが腕を組み直す。


 ヴォルフの杖が、床へわずかに沈む。


 ニコの筆先が止まった。


「何人」


 伊織が聞く。


「確認できた記録だけで七人」


「五十年で?」


「もっと古い」


「どれくらい」


「最古は、千二百年前」


 誰もすぐには話さなかった。


 千二百年。


 町の歴史より長い。


 国がいくつも生まれ、消える時間。


 その間にも、別の世界から人間が落ちていた。


「生き残った者は」


「少ない」


「帰った者は」


 ヴェルナーは答えなかった。


 沈黙が先に答えていた。


「いないのか」


「記録上は」


「お前も帰れなかった」


「ああ」


「帰ろうとした?」


「した」


 返事は早かった。


 感情はない。


 だが、匙を持つ指に力が入っている。


 木の柄が軋んだ。


 ヴェルナーはそれに気づき、手を離す。


「何年」


 伊織が聞く。


「二十年」


「長いな」


「短かった」


 その言葉だけは、伊織の予想と違った。


「二十年が?」


「帰れると思っていた時間は、短い」


 ヴェルナーは窓を見る。


 外にはダストヘイブンの通りがある。


 薄い砂埃。


 閉めた店を開き直す音。


 鐘が鳴らないことを確かめ、窓を開ける者。


「最初の十年は、方法を探した。次の十年は、方法を作ろうとした」


「それで」


「作れなかった」


「諦めたか」


「違う」


 ヴェルナーは伊織へ視線を戻した。


「帰る必要がある自分を、作り替えた」


 アリアが共通語で聞く。


「それは、どういう意味ですか」


 ヴェルナーも共通語で答えた。


「帰りたい人間のままでは、生きられなかった」


 今度は半拍遅れた。


 それでも、意味は重かった。


「だから、この世界を自分の世界にしようとした?」


 伊織が日本語で言う。


「そうだ」


「人を部品にして」


「そうだ」


「町を作り」


「組織を作った」


「国もか」


「作ろうとした」


「失敗した?」


「まだ判断していない」


「五十年経ってもか」


「五十年程度で、世界の変化は測れない」


「人間は死ぬ」


「知っている」


「なら、そいつらには五十年は長い」


「知っている」


「知っていてやった」


「そうだ」


 ヴェルナーは逃げなかった。


 言い訳もしない。


 伊織は、その答えを嫌った。


 だが、嘘よりはましだった。


「翻訳が消えた時、何が起きた」


「元の世界との接続が切れた」


「どうして分かる」


「同時に、日本の夢を見なくなった」


 伊織は黙った。


 ヴェルナーは続ける。


「それまでは、眠るたびに見た。研究所。雨の駅。コンビニの光。自動販売機。意味のないものばかりだ」


「意味はある」


「今なら、そう思う」


「当時は?」


「帰還経路の残像だと思った」


「全部測ろうとしたか」


「当然だ」


「夢まで」


「ああ」


 ヴェルナーの口元がわずかに歪む。


「測定器を作った。睡眠中の魔力変動を記録した。脳波に似た揺らぎも追った。何千夜分も」


「結果は」


「接続は少しずつ細くなっていた」


「消えた日には」


「何もなかった」


「何も?」


「朝、目を覚ました。共通語が、ただの音になっていた」


 伊織の頭の奥に、冷たいものが落ちた。


 今まで、当たり前に使っていた。


 人の声が分かる。


 文字が読める。


 こちらの言葉を話せる。


 それが突然なくなる。


 町にいても。


 食堂にいても。


 アリアが隣にいても。


 声が意味を持たなくなる。


 想像しただけで、胸の奥が狭くなった。


 クロが頭を上げる。


 伊織の膝へ鼻先をつけた。


「東さん」


 アリアが呼ぶ。


 伊織は彼女を見る。


 意味は半拍遅れて届く。


 いつもの遅れ。


 今までは気にしていなかった。


 今は、その半拍が糸に見えた。


 いつか切れる糸。


「いつ消える」


 伊織が聞く。


「個人差がある」


「俺の場合は」


「分からない」


「何のために来た」


「警告するためだ」


「それだけか」


「確認もある」


「何を」


 ヴェルナーはクロを見る。


「君の接続は、細くなっていない」


「なぜ分かる」


「翻訳の遅れが一定だからだ」


「見ただけで?」


「私も十一年使った」


 ヴェルナーはアリアへ目を向ける。


「彼女が言った通り、視線に出る」


 アリアの耳が少し動いた。


「東さんは分かりやすいんです」


「お前まで言うな」


「事実だ」


「似た者同士ですね」


 アリアが言った。


「違う」


 伊織とヴェルナーの声が重なった。


 食堂が一瞬、静かになる。


 ガルドが吹き出した。


「似てるじゃねえか」


「違う」


 二人の声がもう一度重なる。


 今度はリナまで笑った。


 ヴェルナーは笑わない。


 だが、口元の硬さが少しだけ緩んだ。


 伊織は気づかないふりをした。


「俺の接続が切れていない理由は」


「クロだ」


 ヴェルナーは即答した。


 アリアの表情が変わる。


「断定できるんですか」


「断定はしない」


「今、言い切りました」


「最有力だ」


「言い直しましたね」


「必要だった」


「便利です」


「君は本当に厳しいな」


「あなたが曖昧なんです」


 クロはヴェルナーを見ている。


 唸らない。


 だが、尻尾も動かさない。


「クロが何をしている」


 伊織が聞く。


「接続を支えている」


「どうやって」


「分からない」


「またか」


「分からないものを、分かったふりはしない」


「そこだけは信用する」


「十分だ」


 ヴェルナーは机の上へ手を置いた。


 掌の銀色の線が、袖口から少し見える。


「過去の記録に、似た例が一つある」


「千二百年前の転移者か」


「ああ」


「そいつにも犬がいた?」


「犬ではない」


「何だ」


「黒い獣だ」


 クロの耳が動いた。


「記録では、夜渡りと呼ばれていた」


 アリアが眉を寄せる。


「聞いたことがありません」


「呼び名は地方によって違う。記録を書いた者も、正体を知らなかった」


「何をした獣ですか」


「転移者のそばにいた」


「それだけ?」


「転移者が死ぬまで、翻訳が消えなかった」


 伊織はクロを見る。


 クロは目を逸らさない。


 黒い毛。


 灰色の縞。


 時折、金色に変わる瞳。


 鋼鉄の具現を支える力。


「その転移者は帰ったのか」


「死んだ」


「どうして」


「記録には、扉を拒んだとある」


「扉?」


 ヴェルナーは黙った。


 そこだけ、言葉を選んだ。


「帰るためのものか」


 伊織が聞く。


「そう考えられている」


「いつ開く」


「条件がある」


「何だ」


「還り火だ」


 聞き慣れない言葉だった。


 日本語なのに、意味が分からない。


 翻訳されないからこそ、音だけが残る。


「何だ、それは」


「こちらの呼び名を、私がそう訳した」


「元の言葉は」


 ヴェルナーが共通語で一語を告げた。


 半拍遅れて、伊織の中へ意味が届く。


 帰還。


 炎。


 門。


 どれにも完全にはならない。


 複数の意味が重なっていた。


「一定の周期で、世界の境界が薄くなる」


 ヴェルナーは日本語へ戻す。


「その期間だけ、元の世界へ続く扉が現れる可能性がある」


「次はいつだ」


「百八夜後」


 アリアが息を止めた。


 伊織は、すぐには答えなかった。


 百八夜。


 長い。


 だが、五十年に比べれば短い。


 季節が一つ変わる程度。


 食堂の修理。


 町の仕事。


 アリアとの約束。


 クロの成長。


 その全部に、期限がついた。


「確実なのか」


「周期は確実だ」


「扉が出るかは」


「分からない」


「出たとして、帰れるか」


「分からない」


「何も分からないな」


「だから来た」


「どういう意味だ」


「分からないものを、君に隠すべきではないと思った」


「急に良心が生えたか」


「遅すぎるか」


「ああ」


「同意する」


 ヴェルナーはスープを一口飲んだ。


 もう冷めている。


 それでも、焦げた味は消えていないはずだった。


「お前は帰らなかった」


「帰れなかった」


「扉は見たのか」


「一度だけ」


 食堂の空気が固まる。


「なぜ通らなかった」


 伊織が聞く。


「通れなかった」


「何があった」


「私は、その時すでにこちらへ固定されすぎていた」


 ヴェルナーは自分の手を見る。


 皮膚の下を走る銀色の線。


「身体を保つために、この世界の魔力へ肉体を結びつけた。接続は切れ、代わりにこちらへ根を張った」


「だから老いない」


「老いにくいだけだ」


「扉は」


「私を異物として弾いた」


「試したのか」


「右腕を失いかけた」


 ヴェルナーは右手を握る。


 動く。


 だが、掌の銀線は左より濃い。


「その時、帰るのを諦めた?」


「違う」


「まだ違うと言うのか」


「帰れないことを、受け入れた」


「同じだ」


「違う」


 ヴェルナーの声が、初めて少し強くなった。


 器の表面が揺れる。


「諦めるのは、望みを捨てることだ。受け入れるのは、望みが残ったまま進むことだ」


 誰も言葉を挟まなかった。


 ヴェルナーは自分で気づいたように、息を整える。


「少なくとも、私はそう定義した」


「定義か」


「必要だった」


「生きるために?」


「そうだ」


 伊織は男を見る。


 科学者。


 設計者。


 人を部品として扱った男。


 帰れない自分を作り替え、この世界を自分の世界にしようとした男。


 完全な怪物ではない。


 だから厄介だった。


「俺に帰れと言いに来たのか」


「違う」


「残れと?」


「それも違う」


「なら何だ」


「選べと言いに来た」


「簡単に言うな」


「簡単ではないから、期限を伝えた」


「百八夜」


「ああ」


「その間に決めろと」


「決めなくても、扉は開くかもしれない」


「通る瞬間に決めればいい?」


「それでは遅い」


 ヴェルナーは伊織の背後を見る。


 厨房。


 皿。


 人。


 食堂。


「扉の前に立ってから、どちらが自分の世界かを考え始める者は、たいてい両方を失う」


 伊織の右手がわずかに動いた。


 クロが膝へ触れる。


 冷えは起きない。


「経験か」


「記録と、私の失敗だ」


「お前は両方失った?」


「一度は」


「今は」


 ヴェルナーは答えなかった。


 代わりに、冷めたスープを飲み干した。


 器を机へ置く。


「御馳走になった」


 ガルドが腕を組む。


「焦げてたんだろ」


「焦げていた」


「なら残せばよかった」


「残すほどではない」


「褒めてるのか」


「事実を言っている」


「やっぱり帰れ」


 ヴェルナーが立つ。


 アリアも立ち上がった。


「待ってください」


「何だ」


「東さんの翻訳が消える可能性は」


「ある」


「クロがいれば」


「遅れる可能性が高い」


「防げるとは言わないんですね」


「言えない」


「百八夜後、扉が開かなかった場合は」


「次の周期を待つ」


「何年ですか」


「三十三年」


 アリアの顔から色が消えた。


 伊織は彼女を見る。


 薄紫の瞳が揺れている。


 三十三年。


 アリアにとっては、人間より短く感じる時間かもしれない。


 だが、伊織にとっては違う。


 戻る可能性を残したまま待つには、長すぎる。


「三十三年後も、東さんが同じ状態でいる保証は」


「ない」


「クロは」


「ない」


「扉そのものは」


「ない」


「それで選べと?」


「そうだ」


 アリアの手が双剣へ近づく。


 怒りではない。


 何かを切らなければ耐えられないような動きだった。


 伊織がその手首を掴む。


「アリア」


「分かっています」


「なら離せ」


「東さんが先に離してください」


 伊織は掴んだままだった。


 アリアがそれを見る。


 耳がわずかに赤くなる。


「剣を抜かないなら離す」


「抜きません」


「本当に?」


「あなたに言われたくありません」


 伊織は手を離す。


 アリアは双剣から手を下ろした。


 その代わり、伊織の袖を指で掴んだ。


 すぐに気づき、離そうとする。


 伊織は何も言わなかった。


 アリアも離さなかった。


 ヴェルナーは見ていた。


 だが、今度は何も分析しなかった。


「俺が帰るかどうか、お前には関係ない」


 伊織が言う。


「ある」


「なぜ」


「還り火が開く時、こちら側にも影響が出る」


「何が起きる」


「境界が薄くなる」


「それは聞いた」


「君の鋼鉄が強くなる」


 クロが頭を上げた。


「代償も?」


「減る可能性がある」


「良いことじゃないか」


「制御できれば」


 ヴェルナーの目が、伊織の右手へ落ちる。


「鋼鉄は君の記憶を形にしている。境界が薄くなれば、記憶の解像度が上がる」


「強い武器が出る」


「武器だけとは限らない」


「何が出る」


「君が失ったものだ」


 伊織の呼吸が止まった。


 南条。


 雨。


 血。


 途切れた無線。


 あの店、また行こうな。


 記憶の底で、声がした。


 右手が冷える。


 今度はクロが触れても、完全には止まらない。


 黒い粒子が、指の隙間から漏れた。


 拳銃にはならない。


 盾にもならない。


 薄い板。


 四角い輪郭。


 見覚えのある形。


 携帯端末。


 ひび割れた画面。


 そこに表示されるはずだった名前。


 粒子は形を保てず、机の上へ崩れた。


 黒い砂になる。


「東さん!」


 アリアが伊織の右手を両手で包む。


 冷たい。


 だが、以前ほど深くない。


 クロの灰色の縞が濃くなる。


 金色の瞳が、一瞬だけヴェルナーを睨んだ。


 ヴェルナーは動かなかった。


「これか」


 伊織が低く言う。


「還り火が近づけば、もっと強くなる」


「知っていて言ったな」


「確認が必要だった」


 食堂の椅子が倒れた。


 伊織が立ち上がっていた。


 右手へ黒い粒子が集まる。


 拳銃の形。


 以前より速い。


 以前より正確。


 銃口がヴェルナーの額へ向く。


 アリアが止めない。


 ガルドも動かない。


 誰も、伊織が撃たないとは思っていなかった。


「人の記憶を測るな」


 伊織が言う。


 ヴェルナーは銃口を見た。


「すまなかった」


「謝れば済むか」


「済まない」


「なら」


「だが、見なければ君は死ぬ」


「お前に決められることじゃない」


「そうだ」


 ヴェルナーは一歩も動かない。


「決めるのは君だ」


 伊織の指が引き金へかかる。


 クロが低く鳴いた。


 止める声だった。


 伊織は目を閉じない。


 ヴェルナーを見る。


 撃てる。


 頭を砕ける。


 今なら、代償も小さい。


 それでも撃たなかった。


 拳銃を消す。


 黒い粒子が、右手から離れた。


「次に同じことをしたら撃つ」


「分かった」


「今度は試すな」


「約束する」


「科学者の約束か」


「日本で覚えた方だ」


 伊織は少しだけ眉を動かした。


「信用できるのか」


「科学者の約束よりは」


「低いな」


「私もそう思う」


 ヴェルナーは入口へ向かう。


 扉の前で止まった。


「百八夜後、還り火が始まる」


 振り返らない。


「扉が開く保証はない。帰れる保証もない。残れば幸福になる保証もない」


「何もないな」


「選択とは、そういうものだ」


「お前の考えか」


「五十年かけて得た、役に立たない結論だ」


 ヴェルナーは扉を開けた。


 外の光が差し込む。


「また来るのか」


 伊織が聞く。


「必要なら」


「必要かどうかは俺が決める」


「そうしてくれ」


 ヴェルナーが外へ出る。


 扉が閉まる。


 食堂に、音が戻らなかった。


 誰も動かない。


 伊織は自分の右手を見る。


 粒子は残っていない。


 だが、ひび割れた画面の形は、目の奥に残っている。


 百八夜。


 帰るか。


 残るか。


 そんな言葉には、まだできなかった。


 アリアの指が、伊織の袖を掴んでいる。


 彼女は離していない。


 伊織も、指摘しなかった。


 クロが足元へ身体を寄せる。


 右手の冷えが、少しずつ消えていく。


 机の上には、空になった木の器が一つ。


 底には、焦げた豆が残っていた。


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