第95話 客
見張り台の鐘が、三度鳴った。
緊急の鐘ではない。
魔獣でもない。
隊商でもない。
門前に、所属の分からない者が一人。
それを知らせる合図だった。
伊織は食堂の窓へ顔を向けた。
ヴェルナーの手紙が届いてから、まだ半日も経っていない。
机の上には、折り直していない紙が残っている。端を押さえているのは、伊織が無意識に具現した小さな黒鋼板だった。
風は入っていない。
それでも、文字が動いたように見えた。
私が行く。
「早すぎませんか」
アリアが言った。
手紙を見ている。
「いつ出したかは書いていない」
伊織は立ち上がった。
「昨日より前に出していた可能性がある」
「私が聞いているのは、そういうことではありません」
「何だ」
「もう立っています」
「鐘が鳴った」
「門へ行くとは決まっていません」
「確認する」
「誰が?」
「俺が」
「ほら」
アリアも立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る。
伊織は彼女を見る。
「お前は待て」
「断ります」
「即答だな」
「あなたが即答するからです」
アリアは背中の双剣を確かめた。白と銀の装束は旅から戻った時のままだが、袖口と肩の革だけは新しく補修されている。
万全ではない。
だが、動けない状態でもない。
伊織が何か言う前に、アリアが先に口を開いた。
「無理はしません」
「まだ何も言ってない」
「言う顔でした」
「便利だな」
「あなたが分かりやすいんです」
クロが床から立ち上がった。
背の灰色の縞が、朝より薄くなっている。それでも完全には消えていない。黒毛の奥に、細い金属線を埋め込んだような色が残っていた。
伊織の右側へ並ぶ。
アリアが反対側へ来る。
「お前ら、最初から決めてたな」
クロが鼻を鳴らす。
「私は決めていません」
「なら残るか」
「行きます」
「決めてる」
「今決めました」
食堂の奥で、ガルドが大斧へ手を伸ばした。
ヴォルフの杖が、その手の甲を叩く。
「置け」
「客だぞ」
「だからだ」
「話が分からねえ」
「大斧を持って客を迎える町があるか」
「ここにある」
「今なくなった」
ガルドはヴォルフを睨んだ。
ヴォルフは片目で見返す。
先に逸らしたのはガルドだった。
「……木槌ならいいか」
「駄目だ」
「丸腰で行けってのか」
「お前の丸腰は、普通の奴の武装より物騒だ」
ヴォルフは立ち上がった。
右目の眼帯。
腰には骨刃。
杖は持っているが、歩くためだけのものではない。振れば、成人男性の顎くらいは砕ける。
「それは武器じゃないのか」
ガルドが言う。
「杖だ」
「便利な言葉だな」
エルナが記録帳を閉じた。
「門へ行く者を決めます」
「俺とアリアとクロ」
伊織が言う。
「私も行きます」
ヴォルフが続けた。
「俺もだ」
ガルドが言う。
「あなたは残ってください」
エルナが即座に返す。
「なぜだ」
「食堂の守りが必要です」
「それなら俺が一番向いてるだろ」
「門で最初に殴りかかりそうだからです」
「殴らねえ」
「本当ですか」
「相手による」
「残ってください」
ガルドは口を閉じた。
ニコが記録帳を抱える。
「僕は」
「残れ」
伊織が言った。
「はい」
返事は早かった。
ニコは以前のように、置いていかれる顔をしなかった。自分が残る意味を、もう知っている。
「門から報告が来たら記録しろ。相手が一人でも、町の中に別の動きがないとは限らない」
「分かりました」
「リナ」
「うん」
「クロが反応したら、食堂にいる子供たちを地下へ」
「分かった」
「走らせるな」
「一人にもさせない」
「ああ」
役割が決まる。
伊織だけが決めたわけではない。
言葉を渡せば、それぞれが自分の場所を埋める。
以前なら、伊織は全部を自分の視界へ入れようとした。
今は違う。
見えない場所にも、人がいる。
それが分かっている。
伊織は机の上の手紙を見た。
黒鋼板は残した。
紙が飛ばないように。
帰ってきた時、同じ場所にあるように。
◆
ダストヘイブンの中央通りは、普段より人が少なかった。
鐘の意味を知る者は、店先の商品を片づけている。知らない者も、周囲の動きを見て道の端へ寄った。
誰かが命令したわけではない。
危険な時の動きを、町が覚えている。
鍛冶屋は炉の火を落としていない。
ただ、入口の鉄棒を手の届く位置へ置いた。
肉屋は包丁を隠さず、客を裏へ下げた。
屋台の老婆は鍋の蓋を閉め、長い柄杓を持ったまま通りを見ている。武器にはならない。だが、何も持たないよりはいいと思っている顔だった。
ヴァルターの襲撃。
黒鎖針。
食堂の戦い。
山水路から持ち込まれた灰色の火種。
町は何度も傷ついた。
だから、もう最初の頃の町ではない。
伊織は中央を歩いた。
左にアリア。
右にクロ。
少し後ろにヴォルフ。
衛兵が二人、一定の距離を空けて続く。
「人を下げすぎではありませんか」
アリアが言った。
「見られるよりいい」
「相手に、町が怯えていると思われます」
「思わせておけ」
「意外ですね」
「何が」
「あなたなら、隠さず全部見せるかと思いました」
「見せるものは選ぶ」
伊織は通りの左右を見る。
閉じられた窓。
その隙間。
人の目がある。
完全には隠れていない。
町の者は、来訪者を見ようとしている。
怖い。
だが、見ないままにはしない。
「ヴェルナーに見せたいのは、俺たちの戦力じゃない」
「では何を」
「町だ」
アリアは少し黙った。
「人を部品として見た男に?」
「ああ」
「理解するでしょうか」
「さあな」
「理解しない可能性の方が高いです」
「それでも見る」
ヴェルナーは、手紙の中で町を壊さないと書いた。
なら、見せておく。
壊さないと言ったものが、どんな場所なのか。
数字ではない。
地図の印でもない。
そこに人がいる。
飯を作り、物を売り、傷を直し、鐘の音を聞いて窓を閉める。
それを見たうえで、同じことが言えるのか。
確認する必要があった。
「東さん」
「何だ」
「右手」
伊織は右手を見る。
無意識に開いていた。
黒い粒子はない。
冷えもない。
だが、指は拳銃の握りを探している。
「まだ出してない」
「出す準備をしています」
「相手次第だ」
「ガルドさんと同じことを言っています」
「それは嫌だな」
「私もです」
「なら出さない」
「本当に?」
「必要になるまで」
アリアはそれ以上言わなかった。
代わりに、双剣の柄から手を離す。
伊織だけに言うのではなく、自分も同じことをする。
それが彼女のやり方だった。
クロが足を止めた。
中央通りの石畳。
門まで、まだ百歩ほどある。
クロは門ではなく、右側の建物を見た。
倉庫。
二階の窓。
閉じている。
「何かいるか」
クロは動かない。
鼻を動かす。
風は門の方から吹いている。
倉庫からではない。
伊織は視線を上げた。
窓の隙間。
人影はない。
だが、屋根の上で小さく砂が落ちた。
「上だ」
伊織が言うより早く、アリアが指を動かした。
細い風が屋根を払う。
砂埃が剥がれる。
そこには誰もいなかった。
代わりに、小さな金属片が一つ転がった。
灰色。
輪の形。
北門の荷馬車から見つかったものと似ている。
伊織は右手を上げた。
「触るな」
衛兵が止まる。
アリアは屋根を見たまま目を細めた。
「通過の線です」
「いつからある」
「分かりません。ですが、古くありません」
クロが低く唸る。
金色にはならない。
灰色の縞だけが、少し濃くなった。
「ヴェルナーか」
ヴォルフが聞く。
「まだ決めるな」
伊織は答えた。
「来る途中で置いた可能性はある」
「手紙では、町を壊さないと言っていました」
アリアが言う。
「書いた本人が守るとは限らない」
「部下が勝手に動く?」
「組織が大きければ、全員が同じ命令で動くわけじゃない」
ヴォルフが低く笑う。
「ギルドと同じだな」
「お前のところは勝手な奴が多すぎる」
「誰のことだ」
伊織は答えなかった。
ヴォルフも、それ以上は聞かなかった。
金属片は回収しない。
位置だけを記録する。
後でアリアとエルナが確認する。
今は門が先だった。
クロが歩き出す。
先ほどより少し前へ出た。
伊織の半歩前。
守る位置だった。
「クロ」
呼ぶと、耳だけが動く。
「前へ出すぎるな」
クロは振り返らない。
「あなたに似ていますね」
アリアが言う。
「最近、そればかりだな」
「事実です」
「直せ」
「東さんが先です」
伊織は何も言わなかった。
クロも戻らなかった。
似ているのかもしれない。
◆
南門の内側には、衛兵が六人いた。
通常の倍。
門扉は開いている。
閉じれば安全になるとは限らない。
むしろ、内側へ入られたあと閉じれば、逃げ場を失う。
伊織は門の影から外を見た。
荒野。
乾いた道。
風に削られた石柱。
遠くに、荷車が一台止まっている。
御者はいない。
馬もいない。
荷台に布が掛かっているだけだ。
「人は」
伊織が聞く。
門番が答える。
「一人です」
「どこだ」
「外壁から二十歩。動いていません」
伊織が門の外へ出る。
風が強い。
砂が革の上を走る。
アリアとクロが続く。
ヴォルフは門の境界に残った。
内と外の両方を見られる場所。
伊織は歩きながら、周囲を確認した。
街道。
岩陰。
乾いた水路。
荷車の下。
地面に新しい足跡が一本だけ続いている。
靴底は細い。
踵が深い。
歩幅は一定。
途中で止まった跡がない。
迷いもない。
男は外壁から二十歩の場所に立っていた。
一人だった。
長い灰色の外套。
旅装としては薄い。
砂除けの布も巻いていない。
手袋は黒。
靴は泥で汚れている。
ダストプレインの赤い砂ではない。
もっと湿った、黒い土。
南から来た。
髪は灰色がかった金。
短く整えている。
顔立ちは西方の人間に近いが、この世界のどの地方とも少し違って見えた。
年齢は、四十前後。
五十年前に転移した人間の顔ではない。
皺はある。
だが、老いてはいない。
男は門を見ていた。
正確には、門の上に刻まれた古い紋様を見ていた。
伊織たちが近づいても、すぐには視線を下ろさなかった。
「ヴェルナーか」
伊織が言った。
男はようやくこちらを見る。
青みの薄い灰色の瞳。
研究室で、測定値の変化を見た時のような目だった。
驚いてはいない。
喜んでもいない。
観察している。
伊織。
アリア。
クロ。
順に見る。
クロのところだけ、視線が長く止まった。
「そうだ」
返事は、この世界の共通語だった。
伊織の頭の奥で、意味がわずかに遅れて届く。
いつもの感覚。
音があり、そのあとに理解が来る。
半拍。
短い。
だが、ある。
ヴェルナーは伊織を見た。
「手紙は読んだか」
「ああ」
「予定より早く届いたらしい」
「いつ出した」
「七日前だ」
「なら、お前の方が早い」
「途中で乗り物を捨てた」
伊織は止まっている荷車を見る。
「あれか」
「違う」
「どこにある」
「壊した」
「なぜ」
「追跡されていた」
アリアの指が双剣の柄へ近づく。
「誰にですか」
ヴェルナーが初めて、アリアを正面から見た。
「オルドレイン技術部だ」
アリアの目が細くなる。
「あなたが作った組織でしょう」
「作った」
「命令できないんですか」
「できる者と、できない者がいる」
「便利な答えですね」
「事実は、たいてい便利ではない」
「責任を分けるには便利です」
ヴェルナーはアリアを見たまま、わずかに首を傾けた。
「アリア=シルヴェイン」
アリアの指が止まる。
手紙では、銀髪のエルフとしか書かれていなかった。
「名前は知っているんですね」
「知っている」
「では、なぜ手紙には書かなかったんですか」
「東伊織が、どの呼び方に反応するか見たかった」
空気が冷えた。
伊織の右手が開く。
黒い粒子が滲む前に、クロが脚へ身体を寄せた。
冷えが掌の中へ収まる。
具現はしない。
ヴェルナーの目がそこへ動いた。
伊織の手。
クロ。
もう一度、伊織。
「なるほど」
「何がだ」
「予想より進んでいる」
「俺を測るな」
「難しい注文だ」
「なら帰れ」
「それは困る」
「お前の都合だ」
「そうだ」
否定しない。
言い訳もしない。
伊織は、その方が嫌だった。
ヴァルターは言葉を飾った。
人を誘い、線を引かせ、何を失うか見ようとした。
ヴェルナーは違う。
自分が測っていることを隠さない。
隠す必要がないと思っている。
「町へ何をしに来た」
伊織が聞く。
「話をしに来た」
「手紙で済む」
「文字では確認できないことがある」
「俺を見るためか」
「それもある」
「他は」
ヴェルナーはクロを見る。
「その個体」
クロが低く唸った。
アリアの声が冷たくなる。
「名前があります」
ヴェルナーの視線が、アリアへ戻る。
「クロ」
「はい」
「簡潔だ」
「東さんの命名です」
「それは分かる」
「何が言いたいんですか」
「悪くない」
アリアの表情が一瞬だけ止まった。
褒められるとは思っていなかったらしい。
「……そうですか」
「不満か」
「別に」
「そう見える」
「初対面の方に分析されたくありません」
「それは失礼した」
謝罪は早かった。
だが、本当に悪いと思っている声ではない。
アリアも気づいた。
口元が少し硬くなる。
「それで、クロが何だ」
伊織が聞く。
「ここでは話さない」
「なぜ」
「外は見られている」
「町の中なら安全か」
「少なくとも、外よりは」
「お前の部下にか」
「元部下を含む」
ヴェルナーは街道の南を見る。
伊織も見る。
何もない。
砂。
岩。
熱で揺れる空気。
だが、クロが唸りを止めない。
敵の匂いを取っている。
ヴェルナーではない。
別の何か。
遠い。
だが、いる。
伊織は門の上へ視線を送った。
見張り台の衛兵が、まだ合図を出していない。
肉眼では見えていない。
「何人だ」
伊織が聞く。
「十二」
ヴェルナーが答えた。
「距離は」
「西南西、九百メートル。岩棚の裏」
アリアが目を細める。
「魔力を使いましたか」
「使っていない」
「では、どうやって」
「来る途中で配置を見た」
「追跡されていると知りながら、ここまで連れてきたんですか」
「途中で撒く予定だった」
「失敗した」
「そうなる」
「町を壊さないと言いましたね」
「壊させるつもりもない」
ヴェルナーは右手を外套の中へ入れた。
衛兵の槍が上がる。
伊織の右手へ黒い粒子が集まる。
アリアが双剣を半分抜く。
クロの灰色の縞が、背から首へ一気に浮かんだ。
「ゆっくり出せ」
伊織が言う。
「武器ではない」
「俺が決める」
「そうだな」
ヴェルナーは手を止めない。
ゆっくりと、外套の内側から小さな金属筒を出した。
指ほどの太さ。
長さは掌ほど。
古代技術の部品に見える。
表面には、この世界の文字が刻まれている。
「信号筒だ」
「何の」
「撤退命令」
「効くのか」
「半分には」
「残りは」
「撃つ」
声は平らだった。
伊織はヴェルナーを見る。
「お前が?」
「ああ」
「科学者だろ」
「科学者が武器を使わないと思うか」
「思わない」
「なら聞くな」
ヴェルナーは金属筒の端をひねった。
高い音が鳴る。
人間の耳では聞き取りにくい。
だが、クロが頭を上げた。
遠くの岩棚。
何かが動く。
一人。
二人。
黒い点が外へ出る。
そのうち半分が南へ引いた。
残りは動かない。
「六人」
伊織が言う。
「そうだ」
「見えるのか」
「見えなくても分かる」
「便利だな」
「技術だ」
ヴェルナーは金属筒をしまう。
「残った者は、私の命令を聞かない」
「どうする」
「町へ入る前に処理する」
「一人でか」
「そのために一人で来た」
ヴェルナーは外套の前を開いた。
腰には剣がない。
弓もない。
杖もない。
代わりに、細い金属棒が三本、革製の留め具へ差してある。
武器には見えない。
だからこそ、危険だった。
アリアがヴェルナーの装備を見る。
「古代技術ですか」
「半分は」
「残りは」
「私が作った」
「構造支配?」
「違う」
「では何ですか」
「説明すると長い」
「逃げましたね」
「時間を選んだ」
「便利な答えです」
「君は言葉に厳しいな」
「人に厳しい方よりはましです」
ヴェルナーの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
伊織には判断できなかった。
岩棚の方で光が瞬いた。
攻撃。
「伏せろ!」
伊織はアリアの前へ出た。
右手を開く。
黒い粒子が一気に集まる。
拳銃ではない。
アイギス・プレート。
以前なら、輪郭が固まるまで一拍かかった。
今は違う。
クロの灰色の縞が光る。
粒子が面になる。
面が厚みを持つ。
黒い盾が、地面へ突き立った。
速い。
迷いがない。
衝撃。
細い金属杭が盾へ当たり、火花を散らした。
アイギスの表面を、魔力の波が走る。
伊織は左足を半歩引き、肩ではなく腰で衝撃を受ける。盾の下端が土へ食い込み、砂が扇状に飛んだ。
重い。
だが、右手は冷えない。
肘も痺れない。
以前なら、歯を食いしばる必要があった。
今は呼吸が残っている。
「東さん!」
「大丈夫だ」
「確認していません!」
「見れば分かる」
「私が言う台詞です!」
次の光。
二発。
アリアが盾の横から双剣を抜く。
右の剣で風を巻き、金属杭の軌道を外へずらす。左の剣が二本目を斜めに受け、火花を地面へ逃がした。
伊織の盾の上を、切り払われた杭が回転しながら越えていく。
ヴェルナーは動いていない。
「伏せろ」
伊織が言う。
「必要ない」
「俺が決める」
「では見て決めろ」
ヴェルナーが腰の金属棒を一本抜いた。
棒の中央を指で押す。
左右へ伸びる。
細い線が空中へ展開する。
弓ではない。
銃でもない。
金属棒の先端から、六枚の薄い羽根が開いた。
回転する。
低い音。
空気が引かれる。
ヴェルナーは岩棚へ向けて棒を振った。
羽根が消えた。
飛んだのではない。
速すぎて見えなかった。
遠くの岩棚で、石が爆ぜる。
一ヶ所。
二ヶ所。
三ヶ所。
狙撃手が隠れていた場所だけが、内側から砕けた。岩の破片が外へ飛び、黒い人影が斜面を転がる。
殺したかどうかは分からない。
だが、攻撃は止まった。
ヴェルナーは伸びた金属棒を元へ戻す。
掌ほどの長さに縮む。
「何をした」
伊織が聞く。
「空気圧を固定し、刃にした」
「魔法か」
「工学だ」
アリアが岩棚を見る。
「魔力を使っています」
「動力としては」
「なら魔法工学です」
「分類は任せる」
「その言い方は嫌いです」
「研究者は分類を嫌うものだと思っていた」
「曖昧な分類を嫌うんです」
「そうか」
会話の間にも、クロは岩棚を見ている。
まだ終わっていない。
灰色の縞が消えない。
伊織も分かる。
一人。
地面へ伏せたまま動いている。
逃げるのではない。
何かを構えている。
「下だ」
伊織は盾を消した。
右手へ黒い粒子が戻る。
今度は拳銃。
輪郭が即座に固まる。
握り。
照準。
銃身。
以前より線が細い。
金属の継ぎ目まで明瞭だった。
クロが伊織の足へ前脚を触れた。
視界が狭まる。
岩棚まで九百メートル。
拳銃の距離ではない。
撃って当てる距離ではない。
だが、撃つ相手ではなかった。
狙うのは、その手前。
伊織の視界に、地形の線が重なる。
岩棚。
乾いた土。
石の傾斜。
男が構えている長筒。
その銃口の下に、薄く浮いた岩板。
一発。
引き金を引く。
音が荒野へ響く。
黒い弾丸は男を狙わない。
岩板の端へ当たる。
ひび。
斜面が崩れる。
男の身体が土砂に巻かれ、長筒が横へ倒れた。
直後、筒から光が走る。
狙いを外れた一撃が、空へ消える。
雲のない青空へ、白い線だけが残った。
伊織は拳銃を下ろす。
右手は冷たくない。
呼吸も乱れていない。
クロが足を下ろした。
灰色の縞が、ゆっくり薄くなる。
ヴェルナーが伊織を見る。
「今の照準は」
「後で話す」
「そうか」
「町へ入るなら、武器を置け」
ヴェルナーは手の中の金属棒を見る。
「必要か」
「必要だ」
「今の敵は、私を追ってきた」
「だからだ」
「分かった」
ヴェルナーは三本の金属棒をすべて外した。
地面へ置く。
信号筒も置く。
外套の内側から、さらに小さな工具をいくつか出した。
針。
薄い板。
歯車。
ガラス管。
最後に、古い折り畳み式の眼鏡を出した。
「それもか」
伊織が聞く。
「眼鏡だ」
「武器じゃないのか」
「使い方によっては」
「置け」
ヴェルナーは眼鏡も置いた。
アリアが伊織を見る。
「少し厳しくありませんか」
「相手による」
「ガルドさんと同じです」
「二回目だな」
「事実です」
ヴェルナーは地面へ並べた道具を見下ろした。
「これでいいか」
「手袋を外せ」
ヴェルナーは少しだけ間を置いた。
初めての遅れだった。
「理由は」
「何を仕込んでいるか分からない」
「妥当だ」
黒い手袋を外す。
右手。
左手。
どちらにも武器はない。
ただ、掌から手首へ、細い銀色の線が走っていた。
傷ではない。
皮膚の下に金属を埋め込んでいる。
アリアの瞳が濃くなる。
「それは」
「外せない」
「魔力固定化ですか」
「一部は」
「身体を改造したんですか」
「必要だった」
「何のために」
「五十年、生きるために」
風が止まったように感じた。
ヴェルナーは四十前後に見える。
五十年前に転移した。
なら、少なくとも七十を越えている。
外見だけではない。
身体そのものを止めている。
ヴァルターと同じ技術。
だが、もっと古く。
もっと深い。
ヴェルナーは外した手袋を道具の横へ置いた。
「これ以上は外せない」
「分かった」
伊織は拳銃を消した。
黒い粒子が風へ溶ける。
右手に冷えは残らない。
クロが鼻を鳴らした。
ヴェルナーの視線が、もう一度クロへ向く。
「やはり、お前だけではない」
「何がだ」
「中で話す」
「ここで言え」
「長くなる」
「構わない」
「私は構う」
「なぜ」
「喉が渇いた」
伊織は黙った。
アリアも黙る。
ヴォルフが門の内側から、低く笑った。
「客らしいぞ」
ヴェルナーがヴォルフを見る。
「水をもらえるか」
「毒見はする」
「構わない」
「飯は」
「できれば」
「代金は」
ヴェルナーは地面の道具を見る。
「今は持っていない」
伊織は少しだけ眉を動かした。
五十年前。
別の世界から来た男。
金を持たず。
知らない町の門前に立つ。
伊織も同じだった。
最初の食事は、屋台の老婆がくれた薄いスープだった。
ヴェルナーは町を作った。
組織を作った。
人を部品として扱った。
それでも、今ここでは金を持たない一人の客だった。
「一杯だけだ」
伊織が言う。
ヴェルナーは伊織を見る。
「豆のスープか」
「なぜ知ってる」
「匂いがする」
伊織は答えなかった。
ヴェルナーが道具から離れる。
衛兵がそれを回収する。
伊織は男の横へ並んだ。
アリアとクロが続く。
ヴォルフが門の内側へ下がる。
誰も背中を見せない。
誰も武器を抜かない。
それでも、町全体がヴェルナーを見ていた。
中央通りへ入る。
ヴェルナーは歩きながら、建物を見る。
鍛冶屋。
屋台。
閉じた窓。
その隙間から覗く顔。
子供が転がしていた壊れた車輪。
何も言わない。
測っている目だった。
「部品に見えるか」
伊織が聞く。
ヴェルナーの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。
「何がだ」
「町の人間だ」
「そう見えていた時期はある」
「今は」
「まだ分からない」
「五十年いてもか」
「五十年いたからだ」
伊織はヴェルナーを見る。
男は前を見ていた。
食堂の看板が見える。
入口の前に、ガルドが立っている。
大斧は持っていない。
代わりに、腕を組んでいる。
その後ろにエルナ。
ニコ。
リナ。
ミナとトト。
全員がいる。
ヴェルナーは足を止めた。
食堂の扉。
欠けた皿を組み直した小さな飾り。
壁に掛かった縄。
入口の横で丸くなっている、もう一匹の野良猫。
視線が、一つずつ動く。
伊織はその横顔を見ていた。
何を見ているか。
どこで止まるか。
ヴェルナーは何も言わない。
食堂へ上がる前に、靴の裏を石段へ軽く当てた。
一度。
二度。
黒い泥が落ちる。
日本の建物へ上がる時の癖ではない。
ただ、他人の場所を汚さないための動作だった。
それだけのことだった。
だが、伊織には妙に引っかかった。
ヴェルナーは扉へ手をかける。
開く。
食堂の匂いが流れてくる。
豆。
焼いたパン。
木。
少し焦げた鍋。
ヴェルナーは中を見た。
全員が彼を見る。
誰も話さない。
男は一歩だけ入った。
そして、日本語で言った。
「邪魔をする」
伊織の頭の奥で、音は変わらなかった。
意味が後から来ることもなかった。
半拍の遅れが、ない。
五十年ぶりの日本語が、そのまま届いた。




