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第95話 客

 見張り台の鐘が、三度鳴った。


 緊急の鐘ではない。


 魔獣でもない。


 隊商でもない。


 門前に、所属の分からない者が一人。


 それを知らせる合図だった。


 伊織は食堂の窓へ顔を向けた。


 ヴェルナーの手紙が届いてから、まだ半日も経っていない。


 机の上には、折り直していない紙が残っている。端を押さえているのは、伊織が無意識に具現した小さな黒鋼板だった。


 風は入っていない。


 それでも、文字が動いたように見えた。


 私が行く。


「早すぎませんか」


 アリアが言った。


 手紙を見ている。


「いつ出したかは書いていない」


 伊織は立ち上がった。


「昨日より前に出していた可能性がある」


「私が聞いているのは、そういうことではありません」


「何だ」


「もう立っています」


「鐘が鳴った」


「門へ行くとは決まっていません」


「確認する」


「誰が?」


「俺が」


「ほら」


 アリアも立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る。


 伊織は彼女を見る。


「お前は待て」


「断ります」


「即答だな」


「あなたが即答するからです」


 アリアは背中の双剣を確かめた。白と銀の装束は旅から戻った時のままだが、袖口と肩の革だけは新しく補修されている。


 万全ではない。


 だが、動けない状態でもない。


 伊織が何か言う前に、アリアが先に口を開いた。


「無理はしません」


「まだ何も言ってない」


「言う顔でした」


「便利だな」


「あなたが分かりやすいんです」


 クロが床から立ち上がった。


 背の灰色の縞が、朝より薄くなっている。それでも完全には消えていない。黒毛の奥に、細い金属線を埋め込んだような色が残っていた。


 伊織の右側へ並ぶ。


 アリアが反対側へ来る。


「お前ら、最初から決めてたな」


 クロが鼻を鳴らす。


「私は決めていません」


「なら残るか」


「行きます」


「決めてる」


「今決めました」


 食堂の奥で、ガルドが大斧へ手を伸ばした。


 ヴォルフの杖が、その手の甲を叩く。


「置け」


「客だぞ」


「だからだ」


「話が分からねえ」


「大斧を持って客を迎える町があるか」


「ここにある」


「今なくなった」


 ガルドはヴォルフを睨んだ。


 ヴォルフは片目で見返す。


 先に逸らしたのはガルドだった。


「……木槌ならいいか」


「駄目だ」


「丸腰で行けってのか」


「お前の丸腰は、普通の奴の武装より物騒だ」


 ヴォルフは立ち上がった。


 右目の眼帯。


 腰には骨刃。


 杖は持っているが、歩くためだけのものではない。振れば、成人男性の顎くらいは砕ける。


「それは武器じゃないのか」


 ガルドが言う。


「杖だ」


「便利な言葉だな」


 エルナが記録帳を閉じた。


「門へ行く者を決めます」


「俺とアリアとクロ」


 伊織が言う。


「私も行きます」


 ヴォルフが続けた。


「俺もだ」


 ガルドが言う。


「あなたは残ってください」


 エルナが即座に返す。


「なぜだ」


「食堂の守りが必要です」


「それなら俺が一番向いてるだろ」


「門で最初に殴りかかりそうだからです」


「殴らねえ」


「本当ですか」


「相手による」


「残ってください」


 ガルドは口を閉じた。


 ニコが記録帳を抱える。


「僕は」


「残れ」


 伊織が言った。


「はい」


 返事は早かった。


 ニコは以前のように、置いていかれる顔をしなかった。自分が残る意味を、もう知っている。


「門から報告が来たら記録しろ。相手が一人でも、町の中に別の動きがないとは限らない」


「分かりました」


「リナ」


「うん」


「クロが反応したら、食堂にいる子供たちを地下へ」


「分かった」


「走らせるな」


「一人にもさせない」


「ああ」


 役割が決まる。


 伊織だけが決めたわけではない。


 言葉を渡せば、それぞれが自分の場所を埋める。


 以前なら、伊織は全部を自分の視界へ入れようとした。


 今は違う。


 見えない場所にも、人がいる。


 それが分かっている。


 伊織は机の上の手紙を見た。


 黒鋼板は残した。


 紙が飛ばないように。


 帰ってきた時、同じ場所にあるように。



 ダストヘイブンの中央通りは、普段より人が少なかった。


 鐘の意味を知る者は、店先の商品を片づけている。知らない者も、周囲の動きを見て道の端へ寄った。


 誰かが命令したわけではない。


 危険な時の動きを、町が覚えている。


 鍛冶屋は炉の火を落としていない。


 ただ、入口の鉄棒を手の届く位置へ置いた。


 肉屋は包丁を隠さず、客を裏へ下げた。


 屋台の老婆は鍋の蓋を閉め、長い柄杓を持ったまま通りを見ている。武器にはならない。だが、何も持たないよりはいいと思っている顔だった。


 ヴァルターの襲撃。


 黒鎖針。


 食堂の戦い。


 山水路から持ち込まれた灰色の火種。


 町は何度も傷ついた。


 だから、もう最初の頃の町ではない。


 伊織は中央を歩いた。


 左にアリア。


 右にクロ。


 少し後ろにヴォルフ。


 衛兵が二人、一定の距離を空けて続く。


「人を下げすぎではありませんか」


 アリアが言った。


「見られるよりいい」


「相手に、町が怯えていると思われます」


「思わせておけ」


「意外ですね」


「何が」


「あなたなら、隠さず全部見せるかと思いました」


「見せるものは選ぶ」


 伊織は通りの左右を見る。


 閉じられた窓。


 その隙間。


 人の目がある。


 完全には隠れていない。


 町の者は、来訪者を見ようとしている。


 怖い。


 だが、見ないままにはしない。


「ヴェルナーに見せたいのは、俺たちの戦力じゃない」


「では何を」


「町だ」


 アリアは少し黙った。


「人を部品として見た男に?」


「ああ」


「理解するでしょうか」


「さあな」


「理解しない可能性の方が高いです」


「それでも見る」


 ヴェルナーは、手紙の中で町を壊さないと書いた。


 なら、見せておく。


 壊さないと言ったものが、どんな場所なのか。


 数字ではない。


 地図の印でもない。


 そこに人がいる。


 飯を作り、物を売り、傷を直し、鐘の音を聞いて窓を閉める。


 それを見たうえで、同じことが言えるのか。


 確認する必要があった。


「東さん」


「何だ」


「右手」


 伊織は右手を見る。


 無意識に開いていた。


 黒い粒子はない。


 冷えもない。


 だが、指は拳銃の握りを探している。


「まだ出してない」


「出す準備をしています」


「相手次第だ」


「ガルドさんと同じことを言っています」


「それは嫌だな」


「私もです」


「なら出さない」


「本当に?」


「必要になるまで」


 アリアはそれ以上言わなかった。


 代わりに、双剣の柄から手を離す。


 伊織だけに言うのではなく、自分も同じことをする。


 それが彼女のやり方だった。


 クロが足を止めた。


 中央通りの石畳。


 門まで、まだ百歩ほどある。


 クロは門ではなく、右側の建物を見た。


 倉庫。


 二階の窓。


 閉じている。


「何かいるか」


 クロは動かない。


 鼻を動かす。


 風は門の方から吹いている。


 倉庫からではない。


 伊織は視線を上げた。


 窓の隙間。


 人影はない。


 だが、屋根の上で小さく砂が落ちた。


「上だ」


 伊織が言うより早く、アリアが指を動かした。


 細い風が屋根を払う。


 砂埃が剥がれる。


 そこには誰もいなかった。


 代わりに、小さな金属片が一つ転がった。


 灰色。


 輪の形。


 北門の荷馬車から見つかったものと似ている。


 伊織は右手を上げた。


「触るな」


 衛兵が止まる。


 アリアは屋根を見たまま目を細めた。


「通過の線です」


「いつからある」


「分かりません。ですが、古くありません」


 クロが低く唸る。


 金色にはならない。


 灰色の縞だけが、少し濃くなった。


「ヴェルナーか」


 ヴォルフが聞く。


「まだ決めるな」


 伊織は答えた。


「来る途中で置いた可能性はある」


「手紙では、町を壊さないと言っていました」


 アリアが言う。


「書いた本人が守るとは限らない」


「部下が勝手に動く?」


「組織が大きければ、全員が同じ命令で動くわけじゃない」


 ヴォルフが低く笑う。


「ギルドと同じだな」


「お前のところは勝手な奴が多すぎる」


「誰のことだ」


 伊織は答えなかった。


 ヴォルフも、それ以上は聞かなかった。


 金属片は回収しない。


 位置だけを記録する。


 後でアリアとエルナが確認する。


 今は門が先だった。


 クロが歩き出す。


 先ほどより少し前へ出た。


 伊織の半歩前。


 守る位置だった。


「クロ」


 呼ぶと、耳だけが動く。


「前へ出すぎるな」


 クロは振り返らない。


「あなたに似ていますね」


 アリアが言う。


「最近、そればかりだな」


「事実です」


「直せ」


「東さんが先です」


 伊織は何も言わなかった。


 クロも戻らなかった。


 似ているのかもしれない。



 南門の内側には、衛兵が六人いた。


 通常の倍。


 門扉は開いている。


 閉じれば安全になるとは限らない。


 むしろ、内側へ入られたあと閉じれば、逃げ場を失う。


 伊織は門の影から外を見た。


 荒野。


 乾いた道。


 風に削られた石柱。


 遠くに、荷車が一台止まっている。


 御者はいない。


 馬もいない。


 荷台に布が掛かっているだけだ。


「人は」


 伊織が聞く。


 門番が答える。


「一人です」


「どこだ」


「外壁から二十歩。動いていません」


 伊織が門の外へ出る。


 風が強い。


 砂が革の上を走る。


 アリアとクロが続く。


 ヴォルフは門の境界に残った。


 内と外の両方を見られる場所。


 伊織は歩きながら、周囲を確認した。


 街道。


 岩陰。


 乾いた水路。


 荷車の下。


 地面に新しい足跡が一本だけ続いている。


 靴底は細い。


 踵が深い。


 歩幅は一定。


 途中で止まった跡がない。


 迷いもない。


 男は外壁から二十歩の場所に立っていた。


 一人だった。


 長い灰色の外套。


 旅装としては薄い。


 砂除けの布も巻いていない。


 手袋は黒。


 靴は泥で汚れている。


 ダストプレインの赤い砂ではない。


 もっと湿った、黒い土。


 南から来た。


 髪は灰色がかった金。


 短く整えている。


 顔立ちは西方の人間に近いが、この世界のどの地方とも少し違って見えた。


 年齢は、四十前後。


 五十年前に転移した人間の顔ではない。


 皺はある。


 だが、老いてはいない。


 男は門を見ていた。


 正確には、門の上に刻まれた古い紋様を見ていた。


 伊織たちが近づいても、すぐには視線を下ろさなかった。


「ヴェルナーか」


 伊織が言った。


 男はようやくこちらを見る。


 青みの薄い灰色の瞳。


 研究室で、測定値の変化を見た時のような目だった。


 驚いてはいない。


 喜んでもいない。


 観察している。


 伊織。


 アリア。


 クロ。


 順に見る。


 クロのところだけ、視線が長く止まった。


「そうだ」


 返事は、この世界の共通語だった。


 伊織の頭の奥で、意味がわずかに遅れて届く。


 いつもの感覚。


 音があり、そのあとに理解が来る。


 半拍。


 短い。


 だが、ある。


 ヴェルナーは伊織を見た。


「手紙は読んだか」


「ああ」


「予定より早く届いたらしい」


「いつ出した」


「七日前だ」


「なら、お前の方が早い」


「途中で乗り物を捨てた」


 伊織は止まっている荷車を見る。


「あれか」


「違う」


「どこにある」


「壊した」


「なぜ」


「追跡されていた」


 アリアの指が双剣の柄へ近づく。


「誰にですか」


 ヴェルナーが初めて、アリアを正面から見た。


「オルドレイン技術部だ」


 アリアの目が細くなる。


「あなたが作った組織でしょう」


「作った」


「命令できないんですか」


「できる者と、できない者がいる」


「便利な答えですね」


「事実は、たいてい便利ではない」


「責任を分けるには便利です」


 ヴェルナーはアリアを見たまま、わずかに首を傾けた。


「アリア=シルヴェイン」


 アリアの指が止まる。


 手紙では、銀髪のエルフとしか書かれていなかった。


「名前は知っているんですね」


「知っている」


「では、なぜ手紙には書かなかったんですか」


「東伊織が、どの呼び方に反応するか見たかった」


 空気が冷えた。


 伊織の右手が開く。


 黒い粒子が滲む前に、クロが脚へ身体を寄せた。


 冷えが掌の中へ収まる。


 具現はしない。


 ヴェルナーの目がそこへ動いた。


 伊織の手。


 クロ。


 もう一度、伊織。


「なるほど」


「何がだ」


「予想より進んでいる」


「俺を測るな」


「難しい注文だ」


「なら帰れ」


「それは困る」


「お前の都合だ」


「そうだ」


 否定しない。


 言い訳もしない。


 伊織は、その方が嫌だった。


 ヴァルターは言葉を飾った。


 人を誘い、線を引かせ、何を失うか見ようとした。


 ヴェルナーは違う。


 自分が測っていることを隠さない。


 隠す必要がないと思っている。


「町へ何をしに来た」


 伊織が聞く。


「話をしに来た」


「手紙で済む」


「文字では確認できないことがある」


「俺を見るためか」


「それもある」


「他は」


 ヴェルナーはクロを見る。


「その個体」


 クロが低く唸った。


 アリアの声が冷たくなる。


「名前があります」


 ヴェルナーの視線が、アリアへ戻る。


「クロ」


「はい」


「簡潔だ」


「東さんの命名です」


「それは分かる」


「何が言いたいんですか」


「悪くない」


 アリアの表情が一瞬だけ止まった。


 褒められるとは思っていなかったらしい。


「……そうですか」


「不満か」


「別に」


「そう見える」


「初対面の方に分析されたくありません」


「それは失礼した」


 謝罪は早かった。


 だが、本当に悪いと思っている声ではない。


 アリアも気づいた。


 口元が少し硬くなる。


「それで、クロが何だ」


 伊織が聞く。


「ここでは話さない」


「なぜ」


「外は見られている」


「町の中なら安全か」


「少なくとも、外よりは」


「お前の部下にか」


「元部下を含む」


 ヴェルナーは街道の南を見る。


 伊織も見る。


 何もない。


 砂。


 岩。


 熱で揺れる空気。


 だが、クロが唸りを止めない。


 敵の匂いを取っている。


 ヴェルナーではない。


 別の何か。


 遠い。


 だが、いる。


 伊織は門の上へ視線を送った。


 見張り台の衛兵が、まだ合図を出していない。


 肉眼では見えていない。


「何人だ」


 伊織が聞く。


「十二」


 ヴェルナーが答えた。


「距離は」


「西南西、九百メートル。岩棚の裏」


 アリアが目を細める。


「魔力を使いましたか」


「使っていない」


「では、どうやって」


「来る途中で配置を見た」


「追跡されていると知りながら、ここまで連れてきたんですか」


「途中で撒く予定だった」


「失敗した」


「そうなる」


「町を壊さないと言いましたね」


「壊させるつもりもない」


 ヴェルナーは右手を外套の中へ入れた。


 衛兵の槍が上がる。


 伊織の右手へ黒い粒子が集まる。


 アリアが双剣を半分抜く。


 クロの灰色の縞が、背から首へ一気に浮かんだ。


「ゆっくり出せ」


 伊織が言う。


「武器ではない」


「俺が決める」


「そうだな」


 ヴェルナーは手を止めない。


 ゆっくりと、外套の内側から小さな金属筒を出した。


 指ほどの太さ。


 長さは掌ほど。


 古代技術の部品に見える。


 表面には、この世界の文字が刻まれている。


「信号筒だ」


「何の」


「撤退命令」


「効くのか」


「半分には」


「残りは」


「撃つ」


 声は平らだった。


 伊織はヴェルナーを見る。


「お前が?」


「ああ」


「科学者だろ」


「科学者が武器を使わないと思うか」


「思わない」


「なら聞くな」


 ヴェルナーは金属筒の端をひねった。


 高い音が鳴る。


 人間の耳では聞き取りにくい。


 だが、クロが頭を上げた。


 遠くの岩棚。


 何かが動く。


 一人。


 二人。


 黒い点が外へ出る。


 そのうち半分が南へ引いた。


 残りは動かない。


「六人」


 伊織が言う。


「そうだ」


「見えるのか」


「見えなくても分かる」


「便利だな」


「技術だ」


 ヴェルナーは金属筒をしまう。


「残った者は、私の命令を聞かない」


「どうする」


「町へ入る前に処理する」


「一人でか」


「そのために一人で来た」


 ヴェルナーは外套の前を開いた。


 腰には剣がない。


 弓もない。


 杖もない。


 代わりに、細い金属棒が三本、革製の留め具へ差してある。


 武器には見えない。


 だからこそ、危険だった。


 アリアがヴェルナーの装備を見る。


「古代技術ですか」


「半分は」


「残りは」


「私が作った」


「構造支配?」


「違う」


「では何ですか」


「説明すると長い」


「逃げましたね」


「時間を選んだ」


「便利な答えです」


「君は言葉に厳しいな」


「人に厳しい方よりはましです」


 ヴェルナーの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのかもしれない。


 伊織には判断できなかった。


 岩棚の方で光が瞬いた。


 攻撃。


「伏せろ!」


 伊織はアリアの前へ出た。


 右手を開く。


 黒い粒子が一気に集まる。


 拳銃ではない。


 アイギス・プレート。


 以前なら、輪郭が固まるまで一拍かかった。


 今は違う。


 クロの灰色の縞が光る。


 粒子が面になる。


 面が厚みを持つ。


 黒い盾が、地面へ突き立った。


 速い。


 迷いがない。


 衝撃。


 細い金属杭が盾へ当たり、火花を散らした。


 アイギスの表面を、魔力の波が走る。


 伊織は左足を半歩引き、肩ではなく腰で衝撃を受ける。盾の下端が土へ食い込み、砂が扇状に飛んだ。


 重い。


 だが、右手は冷えない。


 肘も痺れない。


 以前なら、歯を食いしばる必要があった。


 今は呼吸が残っている。


「東さん!」


「大丈夫だ」


「確認していません!」


「見れば分かる」


「私が言う台詞です!」


 次の光。


 二発。


 アリアが盾の横から双剣を抜く。


 右の剣で風を巻き、金属杭の軌道を外へずらす。左の剣が二本目を斜めに受け、火花を地面へ逃がした。


 伊織の盾の上を、切り払われた杭が回転しながら越えていく。


 ヴェルナーは動いていない。


「伏せろ」


 伊織が言う。


「必要ない」


「俺が決める」


「では見て決めろ」


 ヴェルナーが腰の金属棒を一本抜いた。


 棒の中央を指で押す。


 左右へ伸びる。


 細い線が空中へ展開する。


 弓ではない。


 銃でもない。


 金属棒の先端から、六枚の薄い羽根が開いた。


 回転する。


 低い音。


 空気が引かれる。


 ヴェルナーは岩棚へ向けて棒を振った。


 羽根が消えた。


 飛んだのではない。


 速すぎて見えなかった。


 遠くの岩棚で、石が爆ぜる。


 一ヶ所。


 二ヶ所。


 三ヶ所。


 狙撃手が隠れていた場所だけが、内側から砕けた。岩の破片が外へ飛び、黒い人影が斜面を転がる。


 殺したかどうかは分からない。


 だが、攻撃は止まった。


 ヴェルナーは伸びた金属棒を元へ戻す。


 掌ほどの長さに縮む。


「何をした」


 伊織が聞く。


「空気圧を固定し、刃にした」


「魔法か」


「工学だ」


 アリアが岩棚を見る。


「魔力を使っています」


「動力としては」


「なら魔法工学です」


「分類は任せる」


「その言い方は嫌いです」


「研究者は分類を嫌うものだと思っていた」


「曖昧な分類を嫌うんです」


「そうか」


 会話の間にも、クロは岩棚を見ている。


 まだ終わっていない。


 灰色の縞が消えない。


 伊織も分かる。


 一人。


 地面へ伏せたまま動いている。


 逃げるのではない。


 何かを構えている。


「下だ」


 伊織は盾を消した。


 右手へ黒い粒子が戻る。


 今度は拳銃。


 輪郭が即座に固まる。


 握り。


 照準。


 銃身。


 以前より線が細い。


 金属の継ぎ目まで明瞭だった。


 クロが伊織の足へ前脚を触れた。


 視界が狭まる。


 岩棚まで九百メートル。


 拳銃の距離ではない。


 撃って当てる距離ではない。


 だが、撃つ相手ではなかった。


 狙うのは、その手前。


 伊織の視界に、地形の線が重なる。


 岩棚。


 乾いた土。


 石の傾斜。


 男が構えている長筒。


 その銃口の下に、薄く浮いた岩板。


 一発。


 引き金を引く。


 音が荒野へ響く。


 黒い弾丸は男を狙わない。


 岩板の端へ当たる。


 ひび。


 斜面が崩れる。


 男の身体が土砂に巻かれ、長筒が横へ倒れた。


 直後、筒から光が走る。


 狙いを外れた一撃が、空へ消える。


 雲のない青空へ、白い線だけが残った。


 伊織は拳銃を下ろす。


 右手は冷たくない。


 呼吸も乱れていない。


 クロが足を下ろした。


 灰色の縞が、ゆっくり薄くなる。


 ヴェルナーが伊織を見る。


「今の照準は」


「後で話す」


「そうか」


「町へ入るなら、武器を置け」


 ヴェルナーは手の中の金属棒を見る。


「必要か」


「必要だ」


「今の敵は、私を追ってきた」


「だからだ」


「分かった」


 ヴェルナーは三本の金属棒をすべて外した。


 地面へ置く。


 信号筒も置く。


 外套の内側から、さらに小さな工具をいくつか出した。


 針。


 薄い板。


 歯車。


 ガラス管。


 最後に、古い折り畳み式の眼鏡を出した。


「それもか」


 伊織が聞く。


「眼鏡だ」


「武器じゃないのか」


「使い方によっては」


「置け」


 ヴェルナーは眼鏡も置いた。


 アリアが伊織を見る。


「少し厳しくありませんか」


「相手による」


「ガルドさんと同じです」


「二回目だな」


「事実です」


 ヴェルナーは地面へ並べた道具を見下ろした。


「これでいいか」


「手袋を外せ」


 ヴェルナーは少しだけ間を置いた。


 初めての遅れだった。


「理由は」


「何を仕込んでいるか分からない」


「妥当だ」


 黒い手袋を外す。


 右手。


 左手。


 どちらにも武器はない。


 ただ、掌から手首へ、細い銀色の線が走っていた。


 傷ではない。


 皮膚の下に金属を埋め込んでいる。


 アリアの瞳が濃くなる。


「それは」


「外せない」


「魔力固定化ですか」


「一部は」


「身体を改造したんですか」


「必要だった」


「何のために」


「五十年、生きるために」


 風が止まったように感じた。


 ヴェルナーは四十前後に見える。


 五十年前に転移した。


 なら、少なくとも七十を越えている。


 外見だけではない。


 身体そのものを止めている。


 ヴァルターと同じ技術。


 だが、もっと古く。


 もっと深い。


 ヴェルナーは外した手袋を道具の横へ置いた。


「これ以上は外せない」


「分かった」


 伊織は拳銃を消した。


 黒い粒子が風へ溶ける。


 右手に冷えは残らない。


 クロが鼻を鳴らした。


 ヴェルナーの視線が、もう一度クロへ向く。


「やはり、お前だけではない」


「何がだ」


「中で話す」


「ここで言え」


「長くなる」


「構わない」


「私は構う」


「なぜ」


「喉が渇いた」


 伊織は黙った。


 アリアも黙る。


 ヴォルフが門の内側から、低く笑った。


「客らしいぞ」


 ヴェルナーがヴォルフを見る。


「水をもらえるか」


「毒見はする」


「構わない」


「飯は」


「できれば」


「代金は」


 ヴェルナーは地面の道具を見る。


「今は持っていない」


 伊織は少しだけ眉を動かした。


 五十年前。


 別の世界から来た男。


 金を持たず。


 知らない町の門前に立つ。


 伊織も同じだった。


 最初の食事は、屋台の老婆がくれた薄いスープだった。


 ヴェルナーは町を作った。


 組織を作った。


 人を部品として扱った。


 それでも、今ここでは金を持たない一人の客だった。


「一杯だけだ」


 伊織が言う。


 ヴェルナーは伊織を見る。


「豆のスープか」


「なぜ知ってる」


「匂いがする」


 伊織は答えなかった。


 ヴェルナーが道具から離れる。


 衛兵がそれを回収する。


 伊織は男の横へ並んだ。


 アリアとクロが続く。


 ヴォルフが門の内側へ下がる。


 誰も背中を見せない。


 誰も武器を抜かない。


 それでも、町全体がヴェルナーを見ていた。


 中央通りへ入る。


 ヴェルナーは歩きながら、建物を見る。


 鍛冶屋。


 屋台。


 閉じた窓。


 その隙間から覗く顔。


 子供が転がしていた壊れた車輪。


 何も言わない。


 測っている目だった。


「部品に見えるか」


 伊織が聞く。


 ヴェルナーの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。


「何がだ」


「町の人間だ」


「そう見えていた時期はある」


「今は」


「まだ分からない」


「五十年いてもか」


「五十年いたからだ」


 伊織はヴェルナーを見る。


 男は前を見ていた。


 食堂の看板が見える。


 入口の前に、ガルドが立っている。


 大斧は持っていない。


 代わりに、腕を組んでいる。


 その後ろにエルナ。


 ニコ。


 リナ。


 ミナとトト。


 全員がいる。


 ヴェルナーは足を止めた。


 食堂の扉。


 欠けた皿を組み直した小さな飾り。


 壁に掛かった縄。


 入口の横で丸くなっている、もう一匹の野良猫。


 視線が、一つずつ動く。


 伊織はその横顔を見ていた。


 何を見ているか。


 どこで止まるか。


 ヴェルナーは何も言わない。


 食堂へ上がる前に、靴の裏を石段へ軽く当てた。


 一度。


 二度。


 黒い泥が落ちる。


 日本の建物へ上がる時の癖ではない。


 ただ、他人の場所を汚さないための動作だった。


 それだけのことだった。


 だが、伊織には妙に引っかかった。


 ヴェルナーは扉へ手をかける。


 開く。


 食堂の匂いが流れてくる。


 豆。


 焼いたパン。


 木。


 少し焦げた鍋。


 ヴェルナーは中を見た。


 全員が彼を見る。


 誰も話さない。


 男は一歩だけ入った。


 そして、日本語で言った。


「邪魔をする」


 伊織の頭の奥で、音は変わらなかった。


 意味が後から来ることもなかった。


 半拍の遅れが、ない。


 五十年ぶりの日本語が、そのまま届いた。


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