第94話 日本語の手紙
その文字だけは、頭の奥で形を変えなかった。
見たまま読めた。
音が一度ほどけ、意味だけが後から流れ込んでくる感覚もない。知らない言葉を、見えない何かがこちらの理解できる形へ押し込む気味の悪さもなかった。
紙の上に並んでいるのは、日本語だった。
東伊織が生まれ、暮らし、二度と戻れないと思っていた場所の文字。
最初の一文は、短かった。
この文字を読めるなら、説明は少なくて済む。
伊織はそこで読むのを止めた。
手紙を机へ置く。
食堂には、いつもの朝の音があった。
鍋の蓋が鳴る。
ニコが記録帳をめくる。
トトの木札が、胸元で小さく擦れる。
ガルドが硬いパンを割ろうとして、片手ではうまくいかず、最後には歯を使った。エルナが見ていたが、今は注意しなかった。
全員の視線が、伊織の前にある紙へ集まっていた。
誰も文字を読めない。
だが、それが異常なものだということだけは分かっている。
「読めるんですか」
アリアが聞いた。
「ああ」
「翻訳ではなく?」
「違う」
伊織は紙へ目を落とす。
「俺のいた場所の文字だ」
食堂の音が一つ消えた。
ガルドがパンを置く。
ヴォルフは椅子へ深く座ったまま、片目を細めた。
アリアはすぐには手紙へ近づかなかった。机を挟んだまま、紙の繊維と黒い文字を観察している。
「魔力反応はありません」
「ないのか」
「少なくとも、紙そのものには」
「術式も?」
「見える範囲ではありません。ただし、だから安全とは言えません」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
アリアは少しだけ疑うように伊織を見た。
「今日は返事が早いですね」
「不審物だからな」
「私が止めた時も、そのくらい早く聞いてください」
「聞いている」
「実行までが遅いんです」
アリアは視線を戻した。
声は冷静だったが、耳の先がわずかに赤い。
ガルドが喉を鳴らす。
「朝から面倒くせえな、お前ら」
「あなたに言われたくありません」
「俺は分かりやすい」
「悪い意味で、ですね」
ガルドは何か言い返そうとした。
ヴォルフが片手を上げる。
「続きを読め」
伊織は手紙を持ち上げた。
紙はこの世界のものだった。
植物の繊維が粗く、厚みも均一ではない。端は刃物で切ったらしく、わずかに歪んでいる。
だが、文字を書くために使われた道具は、この世界の一般的なインクとは違っていた。
黒い線は紙へ染み込んでいない。
表面を削るように跡を残している。
鉛筆に近い。
完全に同じものではない。
だが、書いた人間が、元の世界の筆記具を知っていることだけは分かった。
伊織は二行目を読む。
私はドイツで生まれ、かつて日本で仕事をしていた。
文字は整っていた。
達筆ではない。
読みやすさを優先し、癖を押さえた書き方だった。横線は短く、払いは弱い。日本人の文字ではない。
それでも、学習だけで身につけた日本語とも違う。
何年も使った字だった。
研究報告。
設計図の注記。
会議資料。
そういうものへ、日常的に書き込んでいた人間の字に見えた。
「誰が書いたか、分かるんですか」
ニコが聞いた。
「最後に名前がある」
「ヴェルナーですか」
「ああ」
ニコの手が、記録帳の上で止まった。
その名はもう、ギルドの中で知られている。
オルドレインを作った男。
古代技術を集め、研究し、組織を育てた男。
ヴァルターの上にいた者。
エルザが命令を受けていた相手。
そして今、日本語で伊織へ手紙を書いた男。
伊織は次の一文へ目を移した。
そして五十年前、君と同じように、この世界へ落ちた。
ガルドが眉を寄せる。
「五十年前?」
「ああ」
「そいつも異邦人か」
「そう書いてある」
ヴォルフが腕を組む。
「ドイツというのは」
「俺のいた世界の国だ」
「日本とは別か」
「別だ。ヴェルナーはそこで生まれ、日本で働いた」
「何の仕事をしていた」
「まだ書いていない」
伊織は紙を少し傾けた。
窓から入った朝の光が、鉛筆の筋へ当たる。
一部だけ、線が深い。
日本。
その二文字を書いた部分。
紙の繊維が潰れていた。
懐かしさか。
後悔か。
あるいは、ただ筆圧が乱れただけか。
文字だけでは分からない。
分からないことが、かえって気味悪かった。
クロが机の下から鼻を伸ばした。
手紙の匂いを取る。
一度。
二度。
そのまま、動きを止めた。
「クロ」
伊織が呼ぶ。
クロは返事をしない。
喉の奥で、低い音を出した。
敵を前にした時の唸りではない。
大樹の根や、古い水路の構造へ触れた時に近い。見えないものへ耳を澄ませるような音だった。
黒い毛の奥にある灰色の縞が、ゆっくりと浮く。
背筋から肩へ。
そこから首元へ。
以前より、明らかに広がっている。
アリアが身を屈めた。
「触りません」
誰に言うでもなく先に告げる。
そのまま、クロの瞳を見る。
一瞬だけ。
黒かった瞳が、金に近い色へ揺れた。
光を反射したのではない。
瞳の奥から、色が浮いた。
すぐに消える。
クロは何事もなかったように、伊織の足元へ寄った。
「今のは」
リナが声を抑える。
アリアはすぐに答えなかった。
「まだ、断定できません」
「クロの変化か」
伊織が聞く。
「おそらくは」
アリアは手紙を見る。
「ただし、紙そのものへ反応したようには見えません」
「書いた人間か」
「可能性があります。魔力ではなく、もっと古い痕跡に」
「五十年分の匂いか」
ガルドが言う。
アリアはわずかに眉を寄せた。
「時間に匂いがあるなら、そうかもしれません」
「分かりやすいのか、分かりにくいのか分からんな」
「私もです」
アリアはクロへ手を伸ばしかける。
クロが顔を上げた。
彼女は動きを止めた。
「許可を取る必要がありますか」
クロが鼻を鳴らす。
「今のは、いいという意味ですか」
もう一度、鼻を鳴らす。
「たぶん違います」
伊織が言う。
アリアがこちらを見る。
「なぜ分かるんですか」
「顔だ」
「犬の顔を読めるのに、私の顔は読めないんですね」
「読める」
「では、今の私は?」
「怒っている」
「違います」
「なら、困っている」
「違います」
「面倒だな」
「最低です」
アリアはクロの首元へ指先だけを触れた。
灰色の縞は熱を持っていない。
魔力の揺らぎも小さい。
だが、その奥で何かが動いている。
「成長しています」
アリアが静かに言った。
「体格だけではありません。魔力の流れが以前より太く、安定しています」
「俺の鋼鉄と関係があるか」
「可能性は高いです」
伊織は右手を開いた。
「今、試すのはやめてください」
「まだ何もしていない」
「しようとしました」
「顔に出たか」
「手です」
アリアは即答した。
伊織は右手を下ろす。
「素直ですね」
「クロが嫌がっている」
「私が言ったからでは?」
「それもある」
アリアの目が少しだけ細くなった。
「少しだけ、ですか」
「大きく言うと面倒だ」
「もう十分面倒です」
クロが鼻を鳴らした。
どちらに同意したのかは分からない。
伊織は手紙へ戻る。
次の一節は長かった。
私は物理工学と機械制御を専門としていた。日本では、産業機械と自動制御技術の研究に携わった。こちらへ来てからは、それらの知識を魔法工学へ置き換えることに、長い時間を使った。
伊織は読み終え、短く息を吐いた。
「科学者だ」
「何の」
ニコが聞く。
「機械と制御」
「機械を動かす人ですか」
「作る方だ」
伊織は紙を見る。
「どう動かせば、狙った結果になるかを考える人間だ」
ヴォルフの片目が細くなる。
「人間も同じように動かしたか」
「たぶんな」
ガルドが低く唸る。
「嫌な専門だな」
「技術が悪いわけじゃない」
「使う奴が悪い?」
「ああ」
伊織は次を読む。
銃器の基本構造も、車両も、工業材料も知っている。君の具現が何を模したものか、私には分かる。
その一文で、伊織の指が止まった。
「拳銃のことか」
アリアが聞く。
「ああ」
「見ただけで理解できた理由ですね」
「そうなる」
アリアの表情が硬くなる。
「では、東さんの鋼鉄を研究対象として見ている」
「そう書いてはいない」
「書く必要がないのでしょう」
伊織は答えなかった。
アリアの言う通りだった。
ヴェルナーは科学者だ。
未知の現象を見れば、測る。
分解する。
再現しようとする。
伊織の鋼鉄が、例外になる理由はない。
手紙は続いていた。
君が砂の中で目を覚ましたこと。
最初に拳銃を現したこと。
黒い犬を拾ったこと。
銀髪のエルフと出会ったこと。
伊織は紙を机へ置いた。
「どこまで知っているんですか」
アリアの声が低くなる。
「俺が来た直後からだ」
「クロと出会ったことも?」
「ああ」
「私のことも?」
「ああ」
「名前は」
「銀髪のエルフ」
アリアの口元がわずかに硬くなる。
「名前ではないんですね」
「そうだな」
「人を観察しておきながら、名前を記録しない」
「そこか」
「重要です」
アリアは手紙を睨んだ。
「科学者だからといって、人を特徴だけで分類してよい理由にはなりません」
「会った時に言え」
「言います」
「会うつもりか」
「あなた一人では会わせません」
「聞いてない」
「答えました」
伊織はアリアを見る。
薄紫の瞳は真っ直ぐだった。
怒っている。
だが、ヴェルナーに対してだけではない。
伊織が一人で行く可能性を、先に潰そうとしている。
「行くとは言ってない」
「行かないとも言っていません」
「まだ手紙の途中だ」
「読み終えたら言う顔です」
「顔で診るな」
「あなたの周囲は、全員そうしています」
エルナが静かに頷く。
「必要です」
リナも頷く。
「必要」
ニコも小さく頷いた。
「必要だと思います」
トトが木札を鳴らす。
かん。
「四対一か」
伊織が言う。
クロが鼻を鳴らした。
「五対一です」
アリアが言った。
「ガルドとヴォルフは」
「数えていません」
「ひどくねえか」
ガルドが言う。
「お前は最初から東寄りだ」
ヴォルフが返す。
「俺は止めてる」
「止めながら一緒に行く」
「それは止めてるって言わねえのか」
「言わん」
食堂に小さな笑いが起きた。
だが、長くは続かなかった。
机の上には、ヴェルナーの手紙がある。
笑いが消えると、クロが伊織の膝へ頭をつけた。
その瞬間だった。
右手の奥が冷える。
いつもの冷たさ。
鋼鉄を現す前に、骨の中から熱が抜けていく感覚。
だが、今回は広がらなかった。
手首まで来る前に止まる。
冷えが掌の中央へ集まり、小さな重みに変わる。
伊織は右手を開いた。
黒い粒子が数粒、机の上へ落ちる。
床には届かない。
粒子同士が寄り、薄い金属板へ変わった。
手のひらより小さい。
黒い。
装飾もない。
板の中央だけがわずかに厚く、左右へ向けて薄くなる。風で動く手紙の端を押さえるには、ちょうどいい形だった。
金属板は机へ落ちた。
からん。
乾いた音がした。
全員がそれを見る。
伊織は右手を開いたまま、指を動かした。
痛みはない。
熱もない。
息も乱れていない。
魔力を使った感覚はある。
だが、以前のように腕の奥へ冷えが残らない。
クロが膝から頭を離した。
「お前か」
伊織が言う。
クロは目を逸らした。
アリアがすぐに伊織の右手を取る。
「動かさないでください」
「動く」
「動くかどうかを確認するために動かさないでください」
「矛盾してないか」
「していません」
アリアの指が、手首へ触れる。
脈。
皮膚温。
魔力の流れ。
直接流し込まず、表面だけを追う。
伊織は黙って待った。
「冷えが浅い」
「ああ」
「経路の乱れもありません」
「前より軽い」
「だからといって、負荷がなくなったとは限りません」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
アリアは伊織の手を離さなかった。
「クロとの接触で具現が安定した可能性があります。ですが、代償が減ったように見えて、別の場所へ負担が移っている可能性もあります。クロの側へ負荷が流れたのかもしれませんし、具現そのものが変質したのかもしれません。これまでの鋼鉄は、東さんの記憶と魔力を直接削っていましたが、今はクロが形を固定する役目を一部担っている可能性があります。だとすれば――」
「アリア」
「何ですか」
「早い」
アリアの口が止まった。
耳の先が赤くなる。
「研究上、必要な説明です」
「心配じゃないのか」
「違います」
「そうか」
「違います」
「二回言ったな」
「あなたが納得していない顔をするからです」
「顔で診るな」
「今度は顔です」
アリアはようやく手を離した。
「これ以上の具現は禁止です」
「まだ手紙がある」
「読むだけにしてください」
「銃は出さない」
「当然です」
「盾も」
「当然です」
「車両は」
「論外です」
ガルドが低く笑う。
「完全に管理されてるな」
「お前も左腕を管理されてるだろ」
「俺は自由だ」
エルナが見る。
「自由ではありません」
ガルドは黙った。
伊織は黒い金属板を手紙の端へ置いた。
自分で意図して出した形ではない。
武器でもない。
防具でもない。
ただ、紙を留めるための重し。
以前の自分なら、こんなものを鋼鉄で現そうとは思わなかった。
鋼鉄は撃つためのものだった。
守るためのものになった。
運ぶためのものにもなった。
今は、残しておくための形になっている。
クロが隣にいることで、具現は強くなった。
それだけではない。
細かくなった。
必要な形へ、無駄なく寄るようになった。
伊織は手紙の続きを読んだ。
君の転移を私が起こしたわけではない。
だが、君がこちらへ引かれた理由については、仮説を持っている。
右手が、もう一度冷えかけた。
クロの背が伊織の脚へ触れる。
冷えは止まった。
今度は粒子も出ない。
伊織は一度、息を吐いた。
「何が書いてありますか」
アリアが聞く。
「俺が呼ばれた理由を知っているらしい」
食堂の空気が変わった。
ヴォルフが椅子から背を離す。
「誰が呼んだ」
「そこまではない」
「仮説だけか」
「ああ」
伊織は次の一節を読む。
君は鋼鉄を持ってきたのではない。
こちらにあった何かが、君の記憶を使って鋼鉄の形を得た。
伊織の目が止まる。
アリアがその変化を見逃さなかった。
「東さん」
「鋼鉄は、俺だけの力じゃないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「この世界にあった何かが、俺の記憶を使っている」
アリアは黙った。
クロを見る。
黒い毛の奥にある灰色の縞。
伊織の鋼鉄と似た色。
具現を安定させる変化。
それが偶然ではない可能性が出てくる。
「ヴェルナーの仮説です」
アリアが言った。
「事実ではありません」
「ああ」
「信じる必要もありません」
「だが、無視はできない」
「はい」
アリアの声は硬かった。
「それでも、彼が答えを持っているように振る舞うことと、本当に答えを持っていることは別です」
「分かっている」
「科学者は、仮説を事実のように語ることがあります」
「お前も研究者だろ」
「だから分かるんです」
アリアは手紙を見る。
「それに、五十年この世界にいたからといって、すべてを知っているわけではありません」
「そうだな」
「東さんより長くいただけです」
伊織はアリアを見る。
「慰めてるのか」
「事実を言っています」
「そうか」
「はい」
今度は耳が赤くならなかった。
代わりに、視線を少し逸らした。
手紙の後半は、さらに短かった。
私は、この世界を救おうとした。
そのために、世界を構造として見ることを選んだ。
人も、魔力も、都市も、国家も、すべて動く部品として扱った。
それが正しかったとは書かない。
間違っていたとも、まだ書けない。
伊織はそこまで読み、紙を下ろした。
「何だ」
ガルドが聞く。
「自分が正しかったとは言っていない」
「なら、反省してるのか」
「している人間の文章じゃない」
「どう違う」
「まだ結果を見ている」
伊織は文字を見る。
謝罪ではない。
告白でもない。
検証結果の途中経過に近い。
自分がしたことを、善悪ではなく、成功と失敗で判断している。
科学者。
設計者。
人間を部品として扱った男。
伊織とは違う。
だが、完全に違うとも言えなかった。
伊織も現場では人を配置する。
役割を決める。
誰を前へ出し、誰を残すか選ぶ。
違いは、終わったあとに名前を見るかどうかだ。
ヴェルナーは、銀髪のエルフと書いた。
伊織には、アリアだった。
黒い犬ではない。
クロだった。
そこだけは、はっきり違った。
手紙は最後へ近づいていた。
私は君を鋼鉄の塔へ呼ばない。
君の仲間を人質にするつもりもない。
君の町を壊し、出てこさせるつもりもない。
その三行だけは、妙に具体的だった。
ガルドが拳を握る。
「できるって言ってるのと同じだな」
「ああ」
アリアの薄紫の瞳が濃くなる。
「信用させるための文章です」
「そうだな」
「人質にしないと自分から書く人間を、信用する理由はありません」
「同感だ」
アリアが伊織を見る。
「なら、一人で会いに行くとは言いませんね」
「まだ最後がある」
「読み終えたあとに言うつもりですね」
「言ってない」
「顔に出ています」
「最近は便利だな、俺の顔」
「最初からです」
伊織は最後の二行を読む。
そこだけ、文字が乱れていた。
整った線が崩れている。
筆圧も均一ではない。
五十年の間、感情を数字や構造へ置き換えてきた男が、最後だけ隠しきれなかったように見えた。
塔には来るな。
私が行く。
署名。
ヴェルナー。
日付はない。
到着する日もない。
誰を連れてくるかも書かれていない。
ただ、自分が来るとだけ書いてある。
伊織は紙を机へ戻した。
黒い金属板が、その端を押さえる。
「来るのか」
ヴォルフが聞く。
「ああ」
「いつだ」
「書いてない」
「一人か」
「それもない」
ガルドが立ち上がりかける。
「門を固める」
「待て」
「待てるか。ヴァルターを動かしてた男だぞ」
「だからだ」
「何がだ」
「本気で殺すなら、手紙はいらない」
「誘い出すためかもしれん」
「塔には来るなとある」
「それを信じるのか」
「信じない」
伊織は窓の外を見る。
ダストヘイブンの通り。
砂を運ぶ風。
荷車。
朝の屋台。
壊れた車輪を棒で転がす子供。
壁の向こうには、乾いた荒野がある。
そこへ五十年前、同じ世界から来た男が立つ。
帰れなかった男。
科学でこの世界を変えようとした男。
人間を部品として扱った男。
伊織が別の選択をしていたら、そこへ行ったかもしれない。
気分の悪い鏡だった。
「門は閉じない」
伊織は言った。
ガルドが睨む。
「東」
「閉じても、来る奴は来る」
「迎え撃つか」
「まだ撃たない」
伊織は右手を見る。
小さな金属板を具現しても、冷えは残っていない。
クロが足元にいる。
アリアが隣にいる。
撃つための手は、以前より軽くなった。
だからこそ、簡単には引き金を引けない。
「話を聞く」
アリアが伊織を見る。
「一人で、ではありませんよね」
「ああ」
「本当に?」
「全員で聞く」
アリアはしばらく伊織を見ていた。
それから、小さく頷く。
「なら、反対はしません」
「珍しいな」
「賛成もしていません」
「どっちだ」
「あなた一人で決めさせない、という意味です」
「そうか」
「それと」
アリアは手紙を指す。
「会ったら最初に、名前を訂正します」
「銀髪のエルフか」
「アリア=シルヴェインです」
「本人に言え」
「言います」
クロが鼻を鳴らした。
机の上で、黒い金属板が手紙を押さえている。
窓から風が入る。
紙の端だけが小さく揺れた。
文字は動かなかった。
私が行く。
その一行だけが、五十年分の時間を越え、伊織の前に残っていた。




